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LGBT

2017-01-08 10:55:00 | 
今までは明らかに色物扱いだった、性的不適合者。

その良し悪しを言う必要は一切ない。良いも、悪いもなく、ただ、そう言うことなのだ。

あなたが、男であり、あなたが女である。あなたが日本人であり、日本語を話す。髪の色が、目の色が、体が、顔が・・・。つまり生まれつきのものという理解をすべきなのだ。

しかし、人間というのは、自分の知っている世界が、自分の価値観を作っているから、全く未知の事象や出来事については、その理解の範囲を超えてしまう。この時に大きく二つの反応がある。

一つは、それを排除したいという反応。もう一つは、それを理解しようとする反応。

LGBTで悩んでいて、カミングアウトするだとかという話題になるのは、実は多くの人たちが、未知なものに対する過剰とも言える排除反応を起こすことを恐れているからだ。


LGBTであることは、生まれ持ってのことというのは若干強引かもしれないが、真剣に悩んでいる人の多くは、生まれ持っての人たちである。


「最初は、何かわからないけど、違和感。自分が男であること、自分が女であることにしっくりこない感覚がある。」というところから始まるようで、それをごまかして生きている人もいれば、ある限界を越えてしまい、自分ではどうしようもなくなってしまう人もいるようである。


LGBTを単なる性的倒錯と捉える人もいるが、必ずしもそうではない。



彼らが、なぜカミングアウトするのか、またそれをなぜマスコミは報じるのか。



それは、先に述べた、社会不寛容の問題があるからである。



不寛容というと社会の方だけに責任があるかに思えるが、人間は誰だって未知のものに対する驚きはある。前述の通り大きくふた通りの反応があるのだが、まだ大半は拒絶反応であることは否定できないだろう。



ジャーナリズムは、LGBTというものの正しい理解を促す意味で報じるし、LGBTで悩んでいる本人たちも、社会が違和感なく受け入れてくれることを望んでいる。望んでいると言っても、何かをして欲しいというのではなく、ただ単に、理解がないまま拒絶しないでと言っているに過ぎない。



LGBTに対して拒絶反応をしている人たちは、自分が例えば日本人という存在を見たことも聞いたこともない国で、自分がただ自分であるだけなのに、周囲から拒絶されるということに対する絶望や恐怖を想像してみるべきだろう。




日本という中で安心して生きているからこその鈍感というものがある。それに気づいて、自らが極めて少数派になってしまった場合のことを想像して欲しい。そして髪が黒い、目が茶色、背が低いという身体的理由だけで拒否されたときの自分の中にある自己防衛と自己否定について想像して見て欲しい。それがどれほど心の底に澱となって重く残るか。




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