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感じた事、出来事、いろんなこと書き綴ってます。

本当に 「日本はもう立ち直れない」のか?

2009-05-04 23:27:00 | ニュース
 「日本はもう立ち直れないから海外で勉強してそのまま海外で働く道を真剣に考えてみて欲しい」というブログが話題になっているらしい。

 いつの時代も悲観論と楽観論が入り混じり世論を作ってゆくが、「日本はもう立ち直れない」から「海外で勉強して働こう」という話らしい。

 結局は、セミナーの宣伝なのだけども、まあいろんな意見は世の中にあるものだし、言論(発言)の自由はあるし、少なくとも沢山勉強して、一流企業を経て現在のポジション(米国在住)になる人がいうから、ちょっとは聞いてみても損はない。



 でもそんなことはどうでもいい。海外だから成功できて日本だから成功できないというのはそもそもおかしいのである。海外で成功できる人は日本でも成功できるはずである。たまたまきっかけが海外にあっただけと考えるべき。



 しいて言えば、たとえばアメリカと日本での差をいうなら、自己主張と成功指向(大金持ち指向)が違うかどうかだろう。



 自己主張は、単なる「自分さえよければ」的な発想ではなく「ベストアンサー」の為の追求を「みんなで議論してやる」こと。日本で自己主張しようものならとたんに煙たがられるが、アメリカではおおむねその逆。意見を主張するから、そいつに意見を聞いてみようという発想がある。結局、コミュニケーションが起業の輪を作ることができて、思いもよらない発想の事業が誕生する。日本にamazonnも、グーグルも存在しない理由がここにある。


 けども、今の日本では、「起業」しようと考える人はまさにちょっと意思の強い人というイメージが根強い。議論よりも圧倒的な上意下達。そしてこの上意下達が、既得権益と変化し、力は無いが、管理職だったりして意味の無い権力行使で、若い人が希望を失うことにつながっている。一丸となって…なんていうせりふは日本人とアメリカ人では意識がまるで違う。しかし成功するチームはそういう違いがありながらも、結局は一丸になって成功しているのである。


 
 宗教的背景から推察すれば、キリスト教には、自分に与えられた才能を生かしなさいと教えられる。だから自分にはどんな才能があるのかということに関する意識は相当に強い。でも日本ではどんな才能があるかよりも、どれだけ普通か?が問われる場合が殆どである。違っていることを認めてくれる環境なんて日本では稀だ。




 
 だから、繰り返し言うが、そういう環境の差こそあれ、日本で成功できなさそうだから、アメリカで勉強して起業しようというのはちょっと短絡的すぎる。






 

 アメリカの雇用を支えているというのは、生まれては消える多くの小企業であることは有名である。大企業に勤めていていい給料をもらえることができるのは一部の人だけという認識が強いから、より高い教育を受け、より多くのビジネス経験を経るために起業を渡り歩き、そこに少しでも近づこうとする。多くの社会人が大学でクラスを獲っているのもそのせいである。


 日本ではどうだろう?大企業に勤めるためにはいい大学を卒業しなければなんて真面目に考えていて、ここが大問題なのだが、いい大学を卒業していないと、自分には、大企業は無理だと考え、自分の希望がありながらも、適当な就職先を見つけてそれでまあいいかと自分を納得させている場合が殆どである。そしてその後の努力をしない。

 これって、アメリカだから、日本だからという話ではなくて、やっぱり個人がどのように物事を捉えるかということにしか思えない。

 成功指向というを上げた理由はここある。

 

 よく派遣社員が、なかなか正社員になれないというインタビューを聞くが、それは事実である反面、結局妥協してるという事実でもある。




 妥協することは悪くない。かまわない。だが成功指向が強い人はなかなか妥協しない。

 妥協するかどうかを決めるのは、あくまでも本人。 だから、結局は本人と言うことが言いたいだけだ。


 アメリカで勉強するのもいいし、アメリカで起業してももちろんいい。もちろん日本で勉強して日本で起業してもいい。勉強も起業も成功指向が強ければ、だれに言われなくてもやるものだ。



 冒頭のブログを書いているご本人は、日本に希望を見出せなきゃアメリカで勉強しなよ!と言ってるだけなんだけども、自分としては、その表現が「日本ではもう成功できないから」という言い方をしているのが、ちょっと煽りすぎだと思う。シリコンバレーにいればそれくらいのことを言うのに違和感はないだろうが、冷静に考えればとても違和感のある表現である。


 正直、こんなに噛み付くこともない。結局はセミナーの宣伝なのだから。宣伝だから「日本で~」というのもいい。けども、宣伝だと知らずに、それについてゆく若者だっているのだから、どうしても言いたくなった。




 あえて日本に閉塞感を感じている人にいうとしたら、「成功したければ、自ら希望を捨てるな。自らチャンスをつかめ、自ら開拓せよ!」と言いたい。


 AC(公共広告機構)のCMでとてもいい言葉がある。


“くじけそうなのは、あなたが進んでいる証。

 しかられたのは、あなたが愛されている証。

 つらいのは、あなたがあきらめていない証。

 「生きている」という証を、感じてほしい。”

というのがある。


 是非、日本のせいにしたり、親のせいにしたり、育った環境のせいにしたりせずに、とびっきりの成功指向で前に進んでほしい。
 
 もちろん、つらくて、くじけそうな時、挫折寸前だったり、心が折れたり、やっぱり才能がないんだと思うことも沢山あるだろう。でもそれを受け入れてゆかないと成功するまで努力し続けることができない。



 立ち止まってもいいから、あきらめないでほしい。自らの力で前に進むことを続けてほしい。


 



 







 

 



 

 



 

税金の無駄遣いとは

2009-04-29 07:55:00 | ニュース
 「緊急経済対策」として定額給付金が支給されることが決定し、90%以上の自治体で支給が開始されている。
 
 この定額給付金については、後々の税負担が心配だとか実質的な経済効果は3割程度だとかと言われている。

 また、この5月からは裁判員制度が行われている。国会でも実施延期を求める法案が提出されるかもしれない動きがある。

 このような施策が出たときにいつも思うのだが、そもそもその意図を汲む行動を国民はしているのか?という点である。







 裁判員制度では、届いた通知の封もあけずに返送した人もいたというが、この人は、なぜ裁判員制度をはじめることになったのか?そして一般国民に何を求められているのかを理解していたのだろうか?甚だ疑問である。

 裁判員制度は、普段刑法犯に直接接することが無い私たちが、刑法犯という存在に対して新しい自分たちの理解が広がるのと、また一方で関係者だけで理解されている“内輪”だけの議論から、“一般国民の良識”という視点を取り入れる開かれた司法への大きな転換でもある。

 以前にも書いたが、裁判員制度で人を裁けるのか?という意見があるが、残念だが法律に照らしあわさずに私たちは感情だけで、心の中で人を裁いている。そして時にそれを人に告げて排除しようとさえする。これはいわゆるイジメである。

 影に隠れて人を裁くことに比べれば裁判官も他の裁判員もいる中で、自らの良識を試される裁判員制度は大きく人間的成長ができるすばらしい機会ではないかと思う。

 司法の立場からすれば“国民の良識”が必要で、私たちからすれば“人間としての成長”ができる。負の側面だけで議論するのは不毛である。何が期待されているのか、きちんと考えれば自ずと正の側面も見えてくるものだ。





 一方で定額給付金は、“経済効果は果たして…”という議論が未だにやまない。人によっては支給拒否する人もいるらしい。

 でも、これは“緊急経済対策”である。分かりやすく言えば、みんなで「2兆円分ものを買いましょう!」というもの。これを政府がやれば、やれ無駄遣いだの何だのというわけだから、国民に支給されることは大歓迎だ。

 ただし、多くの議論の中で、実質的な経済効果には疑問があるという点については、直接消費に回さない国民がいるからで、政府の責任ではない。

 アメリカ人なら、“自国の経済対策で支給されるのだから、アメリカ製の製品を買うのは当然”という意見があってしかるべきだが、日本ではそんな意見は殆ど聞かない。「Made In Japanを買おう」という運動が起きてもいいくらいなのにである。





 もちろん支給された給付金を何に使おうが勝手である。しかし、緊急経済対策で税金と赤字国債を大量に発行して行う命がけの政府の施策なのだ。国民がその効果の足を引っ張ってどうする?

 全くおかしい話である。

 「国民の血税だから、無駄遣いはしないで!」という言葉に賛成する人は多い、しかし、定額給付金を借金返済や貯蓄に回す人も多い。これは無駄遣いに加担していることになりはしないか?

 すでに借金返済したり貯蓄してしまったなら、給付金分の日本製の製品を買うことをお勧めする。税金の無駄遣いに加担したくないなら、そして今後も税金の無駄遣いを許したくないなら。




 施策の意図を汲んで行動することがいかに大事であるか考えさせられる。


草なぎ君のニュースを見て

2009-04-24 11:03:00 | ニュース
 23日朝のラジオニュースでいきなりの報道。何事か?と驚いたら、SMAPの草なぎ君が逮捕だという。

 それ以外に大きなニュースが無かったこともあり、今日も引き続きニュースで続報として伝えられているが、そんなに騒ぐこと無いと思うのだが、どうだろう?

 ニュースバリューというのは、本来ならば、事件、事故、お祝い事などであまり人に知られていないものが持つもの。今回の草なぎ君の場合、事件としては浅い内容だし、逮捕そのものも正当性があったのかどうかかなり疑問。

 個人的には、もういいんじゃないのか?と思うのだ。


 マスコミは、報道する責任はあるが、必要以上に追いかけたり、騒ぎ立てたりするものではないはず。

 この草なぎ君の事件も同じ。SMAPゆえの報道として見ても、いい加減にしてはどうかと疑問を投げかけたくなる。




 許せない犯罪だとか、重大な過失だとか、社会的に許されないことをやったのなら、追求されても仕方が無いと思うが・・・。





 今回の事件では、特にそういうマスコミの騒ぎたて度が目立つ。





和歌山毒物カレー事件

2009-04-21 20:10:00 | ニュース
 最高裁の判断が下された。内容は、上告棄却。



 それに対して弁護士は「再審請求」をと考えているらしい。





 はっきりいって、この事件。林被告の写真すら見たくない事件である。





 善良な主婦の顔をして、犯罪者としての表情など、かけらほども見せないが、保険外交員としての知識と経験を駆使して保険金詐欺を働いた。


 



 人を欺くということは、“にんげん”としての品位を落とすものである。本来なら品位が落ちた人間は、顔や表情にそれが出るものだが、林被告は出ていない。







 それほど、“犯罪”というものや反社会的な行為について、全く意に介さない独特の便法を持っているのだろうか。もしそうならこれはとてつもなく恐ろしいことだ。 これが写真すら見たくないという理由である。









 ところで裁判では、「被告はうそを言うもの」と見られている。

 つまり弁護士と被告は、“うそを言っていない”ということを証明しなければならない。しかし、亜ヒ酸の組成が林被告の自宅にあるものと同じだったことで、「だれか別の人が持ち込んだ亜ヒ酸」という言葉が“うそ”と判断された。また、林被告の毛髪からも亜ヒ酸が検出されたことから、「まったく触っていない」という言葉も“うそ”と判断された。他のだれかという物語も、荒唐無稽で“うそ”だと判断された。

 
 林被告は、“自分が言っていることが事実である”、“うそではない”ことを立証しなければならなかった。しかし、それが出来なかった。

 それが出来ない為かどうか分からないが、一貫して“証拠が無い”といい続けていただけである。

 
 
 
 どれだけ声高に叫んでも、“うそをいう”人のことは信用してもらえない。裁判を10年以上やってきたのに、このことは最後まで理解できなかったのだろう。




 林眞須美被告の死刑が確定した。









 

政党の品格

2009-02-15 02:29:27 | ニュース
 大相撲横綱朝青龍のガッツポーズに品格を問う人がいるそうだが、それよりももっと品格に問題があるのが、政治家ではないか?

 せっかくの自民党下野のチャンスに、いきおいづいて民主党の前原氏が麻生総理に「詐欺師」と言ったり、今度は菅氏が小泉元首相に「愉快犯」と言ったりと、いずれも完全に「犯罪者」としてのレッテルを相手に貼り付けて非難しているのはちょっと問題ありではないか?

 この程度の語彙しかないとしたらまさに品格の問題だし、そもそもそういう憶測に基づいた非難(批判ではなく)は政治とはまったく関係ない次元の話で、政治家がやっていいことだとは思えない。

 
 民主党がどれだけ自分たちは自民党と違うんだと叫んでも、やってるのは従来の野党がやってきた「批判」であり、自らの政策と自民との政策の違いを国民に訴えかけることに力を注ぎきっていない。もっとちゃんとやろう。本気で政権とるなら。

 最近はさらにその状況が悪化してきて「批判」よりも程度の低い「非難」に終始しているから目も当てられない。


 一方、国語の勉強しろ!といいたくなるぐらい漢字がちゃんと読めないのは、品格の問題といわれても仕方がないし、また、言うことがはちゃめちゃな印象を与え続けていることに平然としている首相にも品格というのがあるのかとも問いたくなる。



 以前にも書いたけども、人間はいずれ働けなくなる時期が来る。それは老いだったり病気だったり。そうなったときにでも安心して生活してゆけることが本当の“社会保障”であるべきだ。そのための制度が年金だったり国民皆保険だったりするわけだが、この設計図を大幅な見直しどころか、再構築しなければ立ち行かなくなっているのに、その設計図を民主党さえかけないでいる。これが最大の問題なのだ。自民党を非難している場合じゃない。


 再構築で負担が増えたとしても、「安心」という定義をきちんと説明し、新しい年金制度の確固たる理念をすえて打ち出す最大のチャンスが今来ている。その年金制度の再構築の為には何をやめるのか、何を継続するのか、財政負担をどのようにするのかを決め、どんな抵抗にあってもやるのだという力強さが必要なのに民主党からはそのパワーが感じられない。自民党だってもちろんそんなパワーはゼロになっているのだが。


 小泉元首相のやったことの是非についてはさまざまな意見があるが、小泉元首相が未だに人気があり、マスコミが飛びつくのは、彼が本気を見せた政治家だからだ。最大の抵抗勢力は自民党だといって、解散総選挙を行ったのはなにも民主党ほかの野党の影響をなくすという姑息な作戦からではない。純粋に「郵政民営化」が必要だと信じ自分しかそれができないという責任感があったからだ。


 いまの自民党にも民主党にもこれくらいの責任を見せた政治家はいない。


 責任ある態度を見せられない菅氏の「愉快犯」発言も恥ずかしくて聞いてられない。そんなこと言ってる暇があるんだったら、さっさと責任を見せるべきだろう。



 この時期に民主党が国民の最大の関心事の年金問題と、経済再建問題について立派な再構築案を出せないとしたら、それこそ日本は大変なことになる。



 サッカーを見ててもラグビーを見ててもわかるが、チャンスボールが来てから判断しててはゴールもトライもできない。常にいつでもチャンスをものにできるように絶好のポジションを予測して準備を整えて、チャンスが来た瞬間に決定打を出してゴールを物にしている。


 民主党も、もうチャンスボールがくるのがわかってるのだからさっさと用意すべき。マニフェストは選挙だけにあるのではない。マニフェストは常にこの政党は何を考えて、どうしようとしているのかをあらわすものであるはず。随時書き換え、実現する為の施策を付け加え、実行のための協力を普段から得ておくためにあるのだ。



 本気だったらさっさと用意せよ。品格ある政党なら、国民に責任の果たし方をきちんと見せるべきである。得票は信託なのだ。信託を受けたからには責任を果たすことを最優先に考えるべきだ。品格はそういう理念をもつ政党に備わるものだと思う。