夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
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原光景(げんこうけい)から より良い素晴らしい世界へ・・・外傷となる幼児体験

2018年01月09日 23時02分06秒 | 健康・病気・精神分析・心理学・先祖供養・霊的実在・心霊の諸相
私達は胎内にいる時からの体験のすべてを意識の底に記憶していると云われています。

仏教では閻魔大王の前で一生の出来事の裁判をうけ行き先が決まるといわれています。

大王の前で精神分析をうけているようなものです。



原光景(げんこうけい)から より良い素晴らしい世界へ・・・外傷となる幼児体験


原光景(げんこうけい)、この言葉はフロイトの1897年の論文に記されています。

G・ロゾラーによれば『原光景』は、出産や親子関係など、それ自体によって与えられている

不思議を通して実際に触れることの出来る道を前面に登場させる。

それは起源への回帰を含んでいるが、同時に(エディプス)の形成されつつある発達を含んでいるという。



四才の幼児の態度が20年後になって精神分析の結果

はじめて言葉になって語られることになったという点に注目したいと思う。

われわれがその光景から演繹する一切の作用は、強迫その他の症状の形をとって、

すでに幼児期ならびに分析のずっと前から現れていたものだからである。

その場合、それを『原光景 Urszene 』と見なそうとするか、

それとも『原空想 Urphantasie 』 と見なそうとするかは、どちらでもよいことである。

改めて私が強調せねばならないことは、もし『夢とか神経症』とかが、

幼児期そのもに直接関係するものでないとするならば、

このような考えはまったく無意味なものとなるという点である。

『抑圧』とは人間の本能的段階への復帰であり、

人間は『偉大な新しい素晴らしい獲得物』を、

神経症になりやすい素質を与えられるという犠牲と引き換えに獲得する。

そしてまた、神経症発病の可能性こそ、

より以前の本能的な前段階の存在を証明するものなのである。

さらに過去の幼児期の『夢』は、このような無意識的存在に自己を表現する素材を与えるという意義を持っている。

そしてこの素材は、この無意識的存在を、それ以後の発達によっても消失しないように保持するのである。


     フロイト ある幼児期神経症の病歴より Aus der Geschiche einer infantilen Neurose 1918年



済んだことの中には生活せず、

『今』の中に生活せよ。

『今』は常に生きている。

『今』の中にはあらゆるものが輝いている。

『今』は常に新しく、

『今』は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにせよ、それについて思い煩うな。

『今』天地は一新したのである。もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き曝されたことを嘆かないで、

『今』梅の花は喜びに満たされている。

梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしか無いのが人生である。



 







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