人間は霊的実在である・・・・ 神の世界(極楽世界)
窓に映る真白い雪が輝く、
院外に出ると強い風が吹き、
同僚が暖冬でも良いと言いながら
首をすぼめ駐車場へと急ぐ足、
いよいよ冷たい冬将軍到来と感じ、
家路へと心馳せる。
ワイパーの先に小雪が舞う、
もう街には明かりが灯る。
どのような場所でも、どのような時も今此処が神の国である。
イエスは言い給う『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきを知らぬか』
常に今此処にいる永遠の世界が、神の世界なのである。何処にも危険な世界はない。
何処にも乏しき世界はない。われは常にこの素晴らしい満たされた神の国に居るのである。
この涅槃経には、今まで釈迦が説いてきた教えとは反対のことが説かれてあるのであって、
この世の中は無常でなくて『常』である、苦でなく『楽』である、無我ならずして『我』なり(絶対なり)、
穢土ならずして『浄土』であると教えている。
即ち釈迦は此の世はこのまま『常楽我浄』の天国であると悟ったのである。
極楽浄土の光景を心に描いて観ずればあらゆる所に極楽世界があらわれる。
『極楽世界は此処を去ること遠からず』である。
今、極楽に往(い)けずして、死んでから極楽に往ける筈はない。
永遠の今、すでに極楽に往っているのである。
極楽世界は、既に、今、此処に、在る。
極楽箸と云う腕の長さより長い箸があります。
此の長い箸を使って自分の口に入れて食べることは出来ませんが、相手の口には入れて食べさせる事が出来ます。
自分の利己的な欲望は決して遂げることは出来ません、相手が幸福になるように相手に対して慈愛の心を捧げることが
極楽の世界であります。
愛する者を放つ時、最愛のものはふところに帰ってくる、
愛する者を縛る時、最愛の者は自分から離れ去ってしまう。
このように自分の心しだいで極楽も地獄も今、此処に観じて、創造(つく)ることが出来ます。
大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)―・・・釈尊入滅時のお経。仏典のなかでも
最勝最高のお経である。
常楽我浄(じょうらくがじょう)―・・・ものの真実のあり方に反し無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を 浄と思うこと。
究極の悟りは永遠である(常)、安楽に満ち(楽 )、絶対であり(我)清浄である(浄)
ためである。
窓に映る真白い雪が輝く、
院外に出ると強い風が吹き、
同僚が暖冬でも良いと言いながら
首をすぼめ駐車場へと急ぐ足、
いよいよ冷たい冬将軍到来と感じ、
家路へと心馳せる。
ワイパーの先に小雪が舞う、
もう街には明かりが灯る。
どのような場所でも、どのような時も今此処が神の国である。
イエスは言い給う『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきを知らぬか』
常に今此処にいる永遠の世界が、神の世界なのである。何処にも危険な世界はない。
何処にも乏しき世界はない。われは常にこの素晴らしい満たされた神の国に居るのである。
この涅槃経には、今まで釈迦が説いてきた教えとは反対のことが説かれてあるのであって、
この世の中は無常でなくて『常』である、苦でなく『楽』である、無我ならずして『我』なり(絶対なり)、
穢土ならずして『浄土』であると教えている。
即ち釈迦は此の世はこのまま『常楽我浄』の天国であると悟ったのである。
極楽浄土の光景を心に描いて観ずればあらゆる所に極楽世界があらわれる。
『極楽世界は此処を去ること遠からず』である。
今、極楽に往(い)けずして、死んでから極楽に往ける筈はない。
永遠の今、すでに極楽に往っているのである。
極楽世界は、既に、今、此処に、在る。
極楽箸と云う腕の長さより長い箸があります。
此の長い箸を使って自分の口に入れて食べることは出来ませんが、相手の口には入れて食べさせる事が出来ます。
自分の利己的な欲望は決して遂げることは出来ません、相手が幸福になるように相手に対して慈愛の心を捧げることが
極楽の世界であります。
愛する者を放つ時、最愛のものはふところに帰ってくる、
愛する者を縛る時、最愛の者は自分から離れ去ってしまう。
このように自分の心しだいで極楽も地獄も今、此処に観じて、創造(つく)ることが出来ます。
大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)―・・・釈尊入滅時のお経。仏典のなかでも
最勝最高のお経である。
常楽我浄(じょうらくがじょう)―・・・ものの真実のあり方に反し無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を 浄と思うこと。
究極の悟りは永遠である(常)、安楽に満ち(楽 )、絶対であり(我)清浄である(浄)
ためである。
人間は霊的実在である・・・・ 高級霊
高級霊は霊媒にはかかっては来ないのである。
予言、神通力を発揮するのはよく低級霊が行なうのである。
低級霊は地上の波動が強い処に生活していることが多いので、地上世界の事に詳しいので、ある程度の予言がよく的中する。
それがエスカレートすると、とんでもない事を言い出し、人を惑わすようになるのである。
高級霊は地上の波動から遠く離れたところに生活圏があるので地上の出来事を詳しくは知らないのである
また知りたがらないのである。
霊界はそれぞれの霊の浄化の段階で何層にも別れていて、地上界の秩序より尚、いっそう厳しい秩序整然としているのである。
霊界通信などで高級霊の神示等は必ず背後に仲介の霊(創造主の以外の応化神である第二義の神、天照大御神、大国主神、住吉大神、観音菩薩、普賢菩薩、十二使徒等)が指導しているのです。
しかしすべてのことは直感的に知っているのです。
例えば総理大臣が直接に市のいち職員に指示をする事はないのと同じである。
また地上の肉体的な薫蒸を嫌うのである。
故に釈迦如来等の御仏を奉請の儀式の時に高級霊の御降臨を願う為に身を禊て香を焚き、塗香を塗って浄めてから
高級霊をお迎えするのである。
しかし高級霊は直感的には物事の大体の骨組みを知っているのである。
もし高級霊がその事を地上の人間に知らす必要を感ずるならば、決して霊媒だとか預言者だとかいった者を通して知らせる様なことはせず、漠然とした雰因気として知らせのである。
こうして知る必要のある人は知り、知ってならぬ人は知らないのである。
もし高級霊が詳しい未来の出来事を何らの形で知らせるならば、それは知らせることによって、
起こるべき経過にあらかじめ準備させて或る意識的防礙(ぼうがい)を加えることになり、自然の摂理を破壊する事になるものであるから、高級霊は決してこのような予言は行はない。
それ故に低級霊の行なう予言は、行き届いた観察の不足と、調子に乗って最後には出鱈目を云うので、
必ずどこかで誤るのである。その誤りにひっかかって人々は迷う。神はこのような低級霊を取りしまらないのである、
何故かと云うと人間界の言論の自由と同じく、神は人間の判断にまかせられているのである。
予言の正誤は人々がそれぞれ自分で判断すべきものである。
宗教の文章は文字と文字との間を読まなければならない。
神の番頭となれ。 如何なる難事でも神と偕なるとき必ず成就するのである。
高級霊は霊媒にはかかっては来ないのである。
予言、神通力を発揮するのはよく低級霊が行なうのである。
低級霊は地上の波動が強い処に生活していることが多いので、地上世界の事に詳しいので、ある程度の予言がよく的中する。
それがエスカレートすると、とんでもない事を言い出し、人を惑わすようになるのである。
高級霊は地上の波動から遠く離れたところに生活圏があるので地上の出来事を詳しくは知らないのである
また知りたがらないのである。
霊界はそれぞれの霊の浄化の段階で何層にも別れていて、地上界の秩序より尚、いっそう厳しい秩序整然としているのである。
霊界通信などで高級霊の神示等は必ず背後に仲介の霊(創造主の以外の応化神である第二義の神、天照大御神、大国主神、住吉大神、観音菩薩、普賢菩薩、十二使徒等)が指導しているのです。
しかしすべてのことは直感的に知っているのです。
例えば総理大臣が直接に市のいち職員に指示をする事はないのと同じである。
また地上の肉体的な薫蒸を嫌うのである。
故に釈迦如来等の御仏を奉請の儀式の時に高級霊の御降臨を願う為に身を禊て香を焚き、塗香を塗って浄めてから
高級霊をお迎えするのである。
しかし高級霊は直感的には物事の大体の骨組みを知っているのである。
もし高級霊がその事を地上の人間に知らす必要を感ずるならば、決して霊媒だとか預言者だとかいった者を通して知らせる様なことはせず、漠然とした雰因気として知らせのである。
こうして知る必要のある人は知り、知ってならぬ人は知らないのである。
もし高級霊が詳しい未来の出来事を何らの形で知らせるならば、それは知らせることによって、
起こるべき経過にあらかじめ準備させて或る意識的防礙(ぼうがい)を加えることになり、自然の摂理を破壊する事になるものであるから、高級霊は決してこのような予言は行はない。
それ故に低級霊の行なう予言は、行き届いた観察の不足と、調子に乗って最後には出鱈目を云うので、
必ずどこかで誤るのである。その誤りにひっかかって人々は迷う。神はこのような低級霊を取りしまらないのである、
何故かと云うと人間界の言論の自由と同じく、神は人間の判断にまかせられているのである。
予言の正誤は人々がそれぞれ自分で判断すべきものである。
宗教の文章は文字と文字との間を読まなければならない。
神の番頭となれ。 如何なる難事でも神と偕なるとき必ず成就するのである。
人間は霊的実在である・・・・ 祖神と共に生きる。
祖神と共に生きる。
吾が生くるは吾が力で生きているのではない、
永遠に生き通しの宇宙を貫く無限なる祖神(みおや)の生命が今此処に生きているのである。
吾は遠い祖先の祖神(みおや)と共に生きているのであり、祖神(みおや)の大いなる力で生かされ護られているのである。
吾は神と倶に時間、空間を超越して、亡びなき死滅なしの常住円相の生命の実相の道を歩んでいるです。
吾はアルフアなりオメガなり。始めであり、終わりである生と死の鍵を持ち給う永遠なるものである。
私達は先祖の御魂と共にこの今を永遠に生きているのです。
もし何億の先祖が一人でも欠けていたならば今の自分の生命は無いことになります。
自分もやがてご先祖になります。
先祖供養は今自分の中に生きつづけている先祖を供養することでもあります。
ご先祖は遠い存在ではないのです。
今、此処に自分の内に存在ましまして自分を導いておられるのです。
ですからその御恩に報恩感謝するのが本当の先祖供養の眞心なのです。
報恩感謝の心で眞をつくし経典等を読誦して供養さし上げるのが法供養の誠を捧げることなのです。
永遠のキリスト(永遠の救いの本源者)は常にあなたの内にあって、あなたを護り導いておられるのです。
キリストは『重荷を負える者よ、われに来たれ。われ汝を休ませしめん』といっているのである。
信仰によって内部の神性(人間は神の子である)の扉を叩くことにより無限の智慧の扉はひらかれるのである。
キリストは弟子が治病に失敗して帰ってきたときに『汝ら信仰薄きものよ』と言っているのである。
汝の持てる全ての物を売りてこれを貧しきものに施せ、而して汝の十字架を負いて我に隋(したが)え。
一切の過去を棄て、心の中につかんでいた唯物的な一切を棄て去り、霊的に生まれ変わって、
神の子として新しき生活を始めましょう。
祖神と共に生きる。
吾が生くるは吾が力で生きているのではない、
永遠に生き通しの宇宙を貫く無限なる祖神(みおや)の生命が今此処に生きているのである。
吾は遠い祖先の祖神(みおや)と共に生きているのであり、祖神(みおや)の大いなる力で生かされ護られているのである。
吾は神と倶に時間、空間を超越して、亡びなき死滅なしの常住円相の生命の実相の道を歩んでいるです。
吾はアルフアなりオメガなり。始めであり、終わりである生と死の鍵を持ち給う永遠なるものである。
私達は先祖の御魂と共にこの今を永遠に生きているのです。
もし何億の先祖が一人でも欠けていたならば今の自分の生命は無いことになります。
自分もやがてご先祖になります。
先祖供養は今自分の中に生きつづけている先祖を供養することでもあります。
ご先祖は遠い存在ではないのです。
今、此処に自分の内に存在ましまして自分を導いておられるのです。
ですからその御恩に報恩感謝するのが本当の先祖供養の眞心なのです。
報恩感謝の心で眞をつくし経典等を読誦して供養さし上げるのが法供養の誠を捧げることなのです。
永遠のキリスト(永遠の救いの本源者)は常にあなたの内にあって、あなたを護り導いておられるのです。
キリストは『重荷を負える者よ、われに来たれ。われ汝を休ませしめん』といっているのである。
信仰によって内部の神性(人間は神の子である)の扉を叩くことにより無限の智慧の扉はひらかれるのである。
キリストは弟子が治病に失敗して帰ってきたときに『汝ら信仰薄きものよ』と言っているのである。
汝の持てる全ての物を売りてこれを貧しきものに施せ、而して汝の十字架を負いて我に隋(したが)え。
一切の過去を棄て、心の中につかんでいた唯物的な一切を棄て去り、霊的に生まれ変わって、
神の子として新しき生活を始めましょう。
人間は霊的実在である・・・・・その ⑧ 死後の消息(先祖の崇拝)
神祀りと自然の崇拝と先祖の崇拝(供養)
日本では古代より豊かな山、川などの自然を神として崇め、豊かな山の幸、里の幸、海の幸を神様の尊い恵みとして大切に取り扱い大自然と共に生きて来ました。
自然と人間は一つの生命の繫がりとして認識し、親しみを持ち、山里のなどを通して豊かに関わって来ました。
奈良の三輪神社(大神神社)のように三輪山を御神体として祀っています。
本殿を持たない古神道の形を今に残しています。
日本人は古代より自然の山川草木をはじめ生きとし生けるものを神として祀ってきました。
日本は外国の宗教のように教義、経典などはありません。
神の御心と大自然の峻厳なる気高さのように生きる道を惟神(かんながら)の道と云います。
日本では人間を神としてお祀りします。
明治神宮の明治天皇、八幡神社の応神天皇、安部清明神社の安部清明など各地に様々の形で祀られています。
これは神と人間が一つで有ることを直感的に日本人が自覚していたからであります。
神道では幽界へ他界するとただ幽界へ隠れただけであるとして幽世(かくりよ)として扱い、
男性は某(俗名)比古命之(ひこのみことの)霊位。
女性は某比女命之(ひめのみことの)霊位と尊称してお祀りします。
生きていても亡くなってもただ世界が変わるだけであり、生命は生き通しであると云う認識から亡くなっても俗名でお祀りします。
神道では亡骸(肉体)を忌み嫌い、これを穢れとして祝詞、紙垂(しで)などで祓い浄めます。
亡骸も元は自然と人間は一つであると云う考えから火葬にしないで土葬することにより自然に還したのであります。
また荼毘にするよりも土に還す土葬の方が御霊にしては快くにして、再度生まれ変わるのにも、生まれ変わり安いのであります。
住吉大神の禊の後に天照大御神が顕れた如く、肉体を祝詞の言霊、清浄な水等で禊(みそぎ)ますと、
この禊によって肉体人間の罪、穢れは祓い浄められ、新しい聖なるものとして実相の御霊、直日霊(なおひるのみたま)として生まれかわります。
古事記で天照大御神が黄泉の世界の天岩戸隠れなられた為に、世界が暗黒になり、八百万の神々が天岩戸より
天照大御神を連れ出したことにより、世界が明るくなったことと同じようなことでもあります。
このようなことからも穢れの象徴である肉体が無くなりますと最終的に清浄な聖なるものだけが残るとして神として日本人は祀るようになりました。
先立つ人は、もう肉体が無くなりその肉体の罪、穢れは既に無くなったと考え、その人の御霊(霊魂)を幸魂(さちみたま)として丁重にお祀りしたのであります。
このようにしてお祀りするのが先立つ霊魂のための先祖の供養であります。
『注』
幽界(ゆうかい)―・・・あの世。死後の世界。
幽世(かくりよ)―・・・死後の世界。現世(うつしょ)に対することば
安部清明―・・・九二一~一〇〇五年、平安時代の陰陽師。
祝詞(のりと)―・・・天津祝詞(あまつのりと)、大祓詞(おおはらいのことばなどで諸々の穢れを祓い浄める言葉。
祝賀を述べる寿詞(よごと)がある。言葉には霊的な力がある。
古事記―・・・神々の神話から始まる日本最古の歴史書であり、美しい文学書、哲学書でもあります。
紙垂(しで)―・・・紙、絹などで作った神の依代。
荼毘―・・・死骸を火葬すること。
天照大御神―・・・伊勢神宮に祀られている、天皇家の先祖神。
幸魂(さちみたま)―・・遺族が家庭で祭祀する御霊。
神祀りと自然の崇拝と先祖の崇拝(供養)
日本では古代より豊かな山、川などの自然を神として崇め、豊かな山の幸、里の幸、海の幸を神様の尊い恵みとして大切に取り扱い大自然と共に生きて来ました。
自然と人間は一つの生命の繫がりとして認識し、親しみを持ち、山里のなどを通して豊かに関わって来ました。
奈良の三輪神社(大神神社)のように三輪山を御神体として祀っています。
本殿を持たない古神道の形を今に残しています。
日本人は古代より自然の山川草木をはじめ生きとし生けるものを神として祀ってきました。
日本は外国の宗教のように教義、経典などはありません。
神の御心と大自然の峻厳なる気高さのように生きる道を惟神(かんながら)の道と云います。
日本では人間を神としてお祀りします。
明治神宮の明治天皇、八幡神社の応神天皇、安部清明神社の安部清明など各地に様々の形で祀られています。
これは神と人間が一つで有ることを直感的に日本人が自覚していたからであります。
神道では幽界へ他界するとただ幽界へ隠れただけであるとして幽世(かくりよ)として扱い、
男性は某(俗名)比古命之(ひこのみことの)霊位。
女性は某比女命之(ひめのみことの)霊位と尊称してお祀りします。
生きていても亡くなってもただ世界が変わるだけであり、生命は生き通しであると云う認識から亡くなっても俗名でお祀りします。
神道では亡骸(肉体)を忌み嫌い、これを穢れとして祝詞、紙垂(しで)などで祓い浄めます。
亡骸も元は自然と人間は一つであると云う考えから火葬にしないで土葬することにより自然に還したのであります。
また荼毘にするよりも土に還す土葬の方が御霊にしては快くにして、再度生まれ変わるのにも、生まれ変わり安いのであります。
住吉大神の禊の後に天照大御神が顕れた如く、肉体を祝詞の言霊、清浄な水等で禊(みそぎ)ますと、
この禊によって肉体人間の罪、穢れは祓い浄められ、新しい聖なるものとして実相の御霊、直日霊(なおひるのみたま)として生まれかわります。
古事記で天照大御神が黄泉の世界の天岩戸隠れなられた為に、世界が暗黒になり、八百万の神々が天岩戸より
天照大御神を連れ出したことにより、世界が明るくなったことと同じようなことでもあります。
このようなことからも穢れの象徴である肉体が無くなりますと最終的に清浄な聖なるものだけが残るとして神として日本人は祀るようになりました。
先立つ人は、もう肉体が無くなりその肉体の罪、穢れは既に無くなったと考え、その人の御霊(霊魂)を幸魂(さちみたま)として丁重にお祀りしたのであります。
このようにしてお祀りするのが先立つ霊魂のための先祖の供養であります。
『注』
幽界(ゆうかい)―・・・あの世。死後の世界。
幽世(かくりよ)―・・・死後の世界。現世(うつしょ)に対することば
安部清明―・・・九二一~一〇〇五年、平安時代の陰陽師。
祝詞(のりと)―・・・天津祝詞(あまつのりと)、大祓詞(おおはらいのことばなどで諸々の穢れを祓い浄める言葉。
祝賀を述べる寿詞(よごと)がある。言葉には霊的な力がある。
古事記―・・・神々の神話から始まる日本最古の歴史書であり、美しい文学書、哲学書でもあります。
紙垂(しで)―・・・紙、絹などで作った神の依代。
荼毘―・・・死骸を火葬すること。
天照大御神―・・・伊勢神宮に祀られている、天皇家の先祖神。
幸魂(さちみたま)―・・遺族が家庭で祭祀する御霊。
人間は霊的実在である・・・・・その ⑦死後の消息(霊の供養)
霊の供養
愛する人が苦しんでいる姿を見るに忍びないと誰しも深く心を痛めるのであります。
この苦しみを除いて安楽にさせたいと思う切なさは誰でも一度や二度は経験があるのではないかと思います。
霊界において霊魂が背負う悪業を浄化して消滅する道は三つの方法があります。
1、自然の道は、
苦しみによって償うことによりその悪業は清算されることになります。
この道は長い期間がかかり、この間苦しみを受けることになります。
霊魂にしてみれば耐え難いことであります。
このような苦しみに喘いでいる霊魂を急速に魂の向上をはかってやる必要があります。
霊魂は既に肉体を離脱していますから、拷問的に肉体を痛みつけなければ浄化できぬということはないのです。
2、懺悔の道は
霊魂の浄化は消極的には今までの行いは悪いことでした、人の道をはずれていました。
今後二度と一切いたしませんと過去の悪業を否定 して懺悔することです。
3、真理を悟る
悪業存在の世界から解脱して、人間の本来の姿は罪無き無原罪であり、仏であり、如来であり、神の子であることを
自覚して 実相の世界 に超入し、如来の境地を得て悟りを開いて成仏することである。
人間の本来の姿は罪無き無原罪であり、仏であり、如来であり、神の子であると真理が書かれた
経典を霊魂に対して位牌、仏壇、御霊舎、宝壇などの前で読誦することにより、
悟りを開いて成仏することになるのであります。
このように仏典、聖書、祝詞、甘露の法雨などを口述または暗誦で読誦するのを『顕斎』と云います。
これに対して瞑想、祈りなどの方法で霊魂そのもの姿を霊感的に光明燦然と輝く如来であると観じて悟りを開かせるのを『幽斎』と云います。
イエスキリスト、釈迦、弘法大師空海などが祈りと瞑想で罪深い人々を導きました。
・・・・・続く
霊の供養
愛する人が苦しんでいる姿を見るに忍びないと誰しも深く心を痛めるのであります。
この苦しみを除いて安楽にさせたいと思う切なさは誰でも一度や二度は経験があるのではないかと思います。
霊界において霊魂が背負う悪業を浄化して消滅する道は三つの方法があります。
1、自然の道は、
苦しみによって償うことによりその悪業は清算されることになります。
この道は長い期間がかかり、この間苦しみを受けることになります。
霊魂にしてみれば耐え難いことであります。
このような苦しみに喘いでいる霊魂を急速に魂の向上をはかってやる必要があります。
霊魂は既に肉体を離脱していますから、拷問的に肉体を痛みつけなければ浄化できぬということはないのです。
2、懺悔の道は
霊魂の浄化は消極的には今までの行いは悪いことでした、人の道をはずれていました。
今後二度と一切いたしませんと過去の悪業を否定 して懺悔することです。
3、真理を悟る
悪業存在の世界から解脱して、人間の本来の姿は罪無き無原罪であり、仏であり、如来であり、神の子であることを
自覚して 実相の世界 に超入し、如来の境地を得て悟りを開いて成仏することである。
人間の本来の姿は罪無き無原罪であり、仏であり、如来であり、神の子であると真理が書かれた
経典を霊魂に対して位牌、仏壇、御霊舎、宝壇などの前で読誦することにより、
悟りを開いて成仏することになるのであります。
このように仏典、聖書、祝詞、甘露の法雨などを口述または暗誦で読誦するのを『顕斎』と云います。
これに対して瞑想、祈りなどの方法で霊魂そのもの姿を霊感的に光明燦然と輝く如来であると観じて悟りを開かせるのを『幽斎』と云います。
イエスキリスト、釈迦、弘法大師空海などが祈りと瞑想で罪深い人々を導きました。
・・・・・続く
人間は霊的実在である・・・・・その? 死後の消息(良い影響を与える霊魂) goo.gl/rOr49U
人間は霊的実在である・・・・・その⑥ 死後の消息(良い影響を与える霊魂) fb.me/29ibjyhFq
人間は霊的実在である・・・・・その⑥ 死後の消息(良い影響を与える霊魂)
意識をはっきり持っていて修行が足りている霊魂は現実の世界の人々に良い影響を及ぼすことが出来ます。
温かい先祖の霊、愛した人の霊、愛しい妻の霊、友人達の霊が常にあなた達の身近な処で貴方に寄り添い見守っています。
そして小鳥の囀り、蜂の羽音などを通して優しい愛の言葉を投げかけています。
あなた方の耳には聞こえないかも知れませんが静かに心を澄ますと直感的に感ずることでしょう。
人間にはそれぞれに正守護神が生まれる時に、先祖の霊のなかより神通力の備わったある程度神格を得た霊が産土の神より選ばれてついています。
そして現世が終わるまで護っています。
守護神と守護霊はどちらも自分を護っている守護神と言ってもよいです。
邪念を起すと邪念の悪霊に影響を受け、守護神に感謝すると守護神の影響を受け守護がより良く完全に行なわれます。
守護神はそれぞれの御先祖様ですので、先祖に感謝することが守護神に感謝することにつながります。
ですから祖先霊に感謝し、産土神に感謝し、守護神に感謝することはそれぞれの道を歩むための導きであり、御加護であります。
十二使徒の一人よりの霊界通信
この霊媒はどんな謝礼も一度も貰ったことがない霊的天分をもっている女性である。
抜粋
・・・如何にイエスが賢明であったかを思え。彼は地上の子供(吾々のこと)たち如何に生きべきかを教えた。
彼は出かけて行き、人間を高めた。
善き人々を高めたのではない―善き人々はみづから処する道を知っているからである。
彼は墜落した者を、世界で善人でないと考えたところの者を助けたのだ!
そして彼は力を失っている弟子達を遺して、彼は一層高き生涯へと地上を去った後、
もう一度地上に帰って来て、彼が弟子たちに教えたところの真理―
人間は永遠に生き通しだと云うことを証明したのである。・・・・・・
続く・・・・・
意識をはっきり持っていて修行が足りている霊魂は現実の世界の人々に良い影響を及ぼすことが出来ます。
温かい先祖の霊、愛した人の霊、愛しい妻の霊、友人達の霊が常にあなた達の身近な処で貴方に寄り添い見守っています。
そして小鳥の囀り、蜂の羽音などを通して優しい愛の言葉を投げかけています。
あなた方の耳には聞こえないかも知れませんが静かに心を澄ますと直感的に感ずることでしょう。
人間にはそれぞれに正守護神が生まれる時に、先祖の霊のなかより神通力の備わったある程度神格を得た霊が産土の神より選ばれてついています。
そして現世が終わるまで護っています。
守護神と守護霊はどちらも自分を護っている守護神と言ってもよいです。
邪念を起すと邪念の悪霊に影響を受け、守護神に感謝すると守護神の影響を受け守護がより良く完全に行なわれます。
守護神はそれぞれの御先祖様ですので、先祖に感謝することが守護神に感謝することにつながります。
ですから祖先霊に感謝し、産土神に感謝し、守護神に感謝することはそれぞれの道を歩むための導きであり、御加護であります。
十二使徒の一人よりの霊界通信
この霊媒はどんな謝礼も一度も貰ったことがない霊的天分をもっている女性である。
抜粋
・・・如何にイエスが賢明であったかを思え。彼は地上の子供(吾々のこと)たち如何に生きべきかを教えた。
彼は出かけて行き、人間を高めた。
善き人々を高めたのではない―善き人々はみづから処する道を知っているからである。
彼は墜落した者を、世界で善人でないと考えたところの者を助けたのだ!
そして彼は力を失っている弟子達を遺して、彼は一層高き生涯へと地上を去った後、
もう一度地上に帰って来て、彼が弟子たちに教えたところの真理―
人間は永遠に生き通しだと云うことを証明したのである。・・・・・・
続く・・・・・
人間は霊的実在である・・・・・その⑤ 死後の消息(修行の未熟な霊)
修行が足りている霊魂はっきりと意識を持ち、自らを客観的に見ることが出来て、何の苦しみ、苦痛をも感じないで
速やかに霊界へと移行することが出き、霊界へ移行した後もそのまま覚醒した意識を持ち続け、
周りの状況を見たり聞いたり、また心の中を知ることが出来ます。
いはゆる大往生と云われています。
しかし意識の未発達のな霊は生前の『心の思い』、『口で述べる』、『身(からだ)』で行なった不浄なる行為の三業を浄めるために、病気等の苦痛、苦しみを受けます。
前章で述べたように、苦痛は心を浄めんがための一つの過程であります。
苦痛、苦しみを神の恵みの摂理により、意識を失う、いわゆる気絶のような方法で逃れるようになっています。
そして意識を失った状態で暗いある駅の待合室のような所に移行します。
断末魔の苦しみを神の慈悲で意識を失った霊魂はこの人事不省の無意識状態が続きます。
人それぞれに意識を回復するには間もなく回復する者もいますが、なかには数十年間も無意識状態を継続する人もいます。
いずれどの様な状況な於かれた者でも丁度夢から覚めるように、霊界で意識が回復します。
しかし即死の場合は、急な火事の時には何も持たずに逃げるように、即死の時には生前に執着した諸々の迷い、苦痛等を何も持たないで霊界に移行します。
即死の功徳とも云われたりします。
意識が回復すると、生前の臨終の時の状態が記憶の心に再現されます。
まだ自分が死んだことさえ気がつきません。
仏教の葬儀の時に僧侶から戒名(解脱名)を授かりますが、これは法名を授かると同時に貴方は既に真理の言葉を享け実相を覚り、この世を去って霊界(極楽世界)へ移行したのであることを告げることなのです。
つまり貴方は既に死んだのであることを告げることと同じことなのです。
『引導を渡す』とはこのことです。
自分がこの世を去り、自分は既に死んだことを知ることは大事なことなのです。
死んだことを自覚ないと既に肉体は焼かれて無いはずなのに、まだ生前の肉体がまだ存続していると思い、病気の苦痛、苦しみを再現して浮かばれないことになります。
例えば癌の病を思い出し、癌の症状の苦痛に苦しむことなのです。
地縛霊なども同じであります。
癌等の病、事故、自殺などで苦しんだ人はその苦痛が蘇り、癌等の病の症状、自らを殺めた状況などを自分の幽体に映して苦しみます。
人間は霊的実在であり、既に肉体が焼かれて無いのですから、肉体の病気も罪も悩みも穢れも苦痛も苦しみも無いはずなのであります。
・・・・・続く
『注』
三業―・・・意業・口業・身業の三つの悪業)
断末魔―・・・末魔に触れて命を絶つこと。末魔は身体の中にある急所。それに触れて激しい痛みを起して死ぬこと。
これを転じて人が死ぬ時の最後の苦しみを云う。
戒名・法名。解脱名―・・・三帰戒を受けて仏門に入った者につけられる名。
現在では死者に対して師僧侶から与えられるが、もとは生前に授けられた。
真宗は授戒の作法がないので法名とか決号と名づけてます。
引導―・・・人々を導いて仏の教えに引き入れること。
導師の僧が死者に法語を与えて涅槃常住の世界へ行くべきことを教示すること。
地縛霊―・・・亡くなった場所、時間、物、人に対して自らの執着の念、苦しみにより、自らを縛り付けてその場所、時間、物、人から
離脱が出来ない霊。
戦死者が戦死した場所に『荒霊』として永く眠ることがあります。
荒霊―・・・波動が荒々しい肉体そのもの近い霊であり、墓などに亡骸を祀った場所、戦地など死んだ場所等に眠ります。
一霊四魂―・・・古神道では人間を物質的な肉体として観ないで霊的な魂(みたま)として扱っています。
神道では人間の一霊を四魂に分けています。実相の霊を直日霊(なおひるのみたま)と云い、奇霊(くしみたま)・
和霊(にぎみたま)・幸霊(さちみたま)・荒霊(あらみたま)と四っのはたらきとして分けています。
そのはたらきは後に詳しく説明したいと思います。
修行が足りている霊魂はっきりと意識を持ち、自らを客観的に見ることが出来て、何の苦しみ、苦痛をも感じないで
速やかに霊界へと移行することが出き、霊界へ移行した後もそのまま覚醒した意識を持ち続け、
周りの状況を見たり聞いたり、また心の中を知ることが出来ます。
いはゆる大往生と云われています。
しかし意識の未発達のな霊は生前の『心の思い』、『口で述べる』、『身(からだ)』で行なった不浄なる行為の三業を浄めるために、病気等の苦痛、苦しみを受けます。
前章で述べたように、苦痛は心を浄めんがための一つの過程であります。
苦痛、苦しみを神の恵みの摂理により、意識を失う、いわゆる気絶のような方法で逃れるようになっています。
そして意識を失った状態で暗いある駅の待合室のような所に移行します。
断末魔の苦しみを神の慈悲で意識を失った霊魂はこの人事不省の無意識状態が続きます。
人それぞれに意識を回復するには間もなく回復する者もいますが、なかには数十年間も無意識状態を継続する人もいます。
いずれどの様な状況な於かれた者でも丁度夢から覚めるように、霊界で意識が回復します。
しかし即死の場合は、急な火事の時には何も持たずに逃げるように、即死の時には生前に執着した諸々の迷い、苦痛等を何も持たないで霊界に移行します。
即死の功徳とも云われたりします。
意識が回復すると、生前の臨終の時の状態が記憶の心に再現されます。
まだ自分が死んだことさえ気がつきません。
仏教の葬儀の時に僧侶から戒名(解脱名)を授かりますが、これは法名を授かると同時に貴方は既に真理の言葉を享け実相を覚り、この世を去って霊界(極楽世界)へ移行したのであることを告げることなのです。
つまり貴方は既に死んだのであることを告げることと同じことなのです。
『引導を渡す』とはこのことです。
自分がこの世を去り、自分は既に死んだことを知ることは大事なことなのです。
死んだことを自覚ないと既に肉体は焼かれて無いはずなのに、まだ生前の肉体がまだ存続していると思い、病気の苦痛、苦しみを再現して浮かばれないことになります。
例えば癌の病を思い出し、癌の症状の苦痛に苦しむことなのです。
地縛霊なども同じであります。
癌等の病、事故、自殺などで苦しんだ人はその苦痛が蘇り、癌等の病の症状、自らを殺めた状況などを自分の幽体に映して苦しみます。
人間は霊的実在であり、既に肉体が焼かれて無いのですから、肉体の病気も罪も悩みも穢れも苦痛も苦しみも無いはずなのであります。
・・・・・続く
『注』
三業―・・・意業・口業・身業の三つの悪業)
断末魔―・・・末魔に触れて命を絶つこと。末魔は身体の中にある急所。それに触れて激しい痛みを起して死ぬこと。
これを転じて人が死ぬ時の最後の苦しみを云う。
戒名・法名。解脱名―・・・三帰戒を受けて仏門に入った者につけられる名。
現在では死者に対して師僧侶から与えられるが、もとは生前に授けられた。
真宗は授戒の作法がないので法名とか決号と名づけてます。
引導―・・・人々を導いて仏の教えに引き入れること。
導師の僧が死者に法語を与えて涅槃常住の世界へ行くべきことを教示すること。
地縛霊―・・・亡くなった場所、時間、物、人に対して自らの執着の念、苦しみにより、自らを縛り付けてその場所、時間、物、人から
離脱が出来ない霊。
戦死者が戦死した場所に『荒霊』として永く眠ることがあります。
荒霊―・・・波動が荒々しい肉体そのもの近い霊であり、墓などに亡骸を祀った場所、戦地など死んだ場所等に眠ります。
一霊四魂―・・・古神道では人間を物質的な肉体として観ないで霊的な魂(みたま)として扱っています。
神道では人間の一霊を四魂に分けています。実相の霊を直日霊(なおひるのみたま)と云い、奇霊(くしみたま)・
和霊(にぎみたま)・幸霊(さちみたま)・荒霊(あらみたま)と四っのはたらきとして分けています。
そのはたらきは後に詳しく説明したいと思います。