夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

人間は霊的実在である・・・・・その④ 霊魂の死後の消息

2016年01月12日 23時43分23秒 | 真理の言葉
人間は霊的実在である・・・・・その④ 霊魂の死後の消息

    霊魂の死後の消息

長崎の叔母さんのお通夜に参列しました。
遺影を見ると叔母さんが陸の孤島と言われた断崖の厳しい処で茂木びわを育て、
その真心のびわを毎年私共に長年贈って頂きました。
叔母さんの人生が走馬灯の如くめぐりました。

        千々の海に光る琵琶の実、南無阿弥陀仏と唱える木魚かな 

肉体と霊魂を結んでいる霊糸が切れると霊魂は霊界へと移行しますが修行が足りている霊魂とまだ未熟な霊魂とがあります。
修行が足りている霊魂はセミの幼虫が殻を抜け出るように肉体から霊魂が抜け出ているのを自ら客観的見ることが出来ます。
最近、一度医者から死の宣告をうけた患者が蘇生し、その患者が死の宣告をうけてから、蘇生されるまでの体験を話す臨死体験の症例が数多く発表されています。
この臨死体験は修行が足りている霊魂が自らの肉体から霊魂が抜け出ているのを自ら客観的見ることが出来ることと同じことであります。
まだ肉体と霊魂を結んでいる霊糸が完全に切れていないときにこのような臨死体験が出てきます。
家族が自分の遺体に取りすがり泣き悲しんでいる姿を高いところから客観的に見て、
悲しまなくてもよい、まだ自分は死んでいないのであると家族に知らせようとします。



この現実の世界で生きていく為には肉体が必要でありますがこの肉体は宇宙服のようなものであります。、
他の世界の霊界では必要でなくなるためにセミの幼虫が殻を脱ぎ捨てるように肉体を脱ぎ捨てるのであります。
このように修行が足りている霊魂は人間の本当の存在は肉体的存在ではなく、霊的存在であることを理解していますから必要でない肉体を脱ぎ捨てている姿を客観的みることが出来るのです。


冥界の擬人的な閻魔大王の照魔鏡に、今までの一生が走馬灯のように廻り映し出されます。
自分が今まで生きてきた人生を客観的に見せられ、自分が良いと思っていたことがこの鏡で自分の姿を第三者が見るように見るとそうではなく自分が悪いと気付かされ、この照魔鏡の前の脱衣場で自らの意思で自分の業を反省し、懺悔してその悪業を一枚一枚脱ぎ捨てることにより業が浄化されます。

ここで消える業は消え、消えない業はそのまま、その業の段階により霊界の修行するどこかの場所が与えられます。
これを四十九日の浄化期間が終え、仏教では『満中陰』、神道では五十日祭と称して、それぞれの担当の高級霊の案内により割り当てられた幽界の位置に連れられ、そこで修行するこになっています。

・・・・・続く>




1月11日(月)のつぶやき

2016年01月12日 04時51分19秒 | コラム・人文

人間は霊的実在である・・・・・その? 人間の真実の使命 goo.gl/cwyH9Q


人間は霊的実在である・・・・・その① 人間の真実の使命 fb.me/5eVT6tRXc


人間は霊的実在である・・・・・その? 霊的なるもの 『神の国の義(ただ)しきを観る』 goo.gl/y4Jwaa


人間は霊的実在である・・・・・その② 霊的なるもの 『神の国の義(ただ)しきを観る』 fb.me/7AlnhQrds


人間は霊的実在である・・・・・その? 霊魂の存在(死後に残続する意識) goo.gl/hZJrTO


人間は霊的実在である・・・・・その③ 霊魂の存在(死後に残続する意識) fb.me/2UrNt8N5a



人間は霊的実在である・・・・・その③ 霊魂の存在(死後に残続する意識)

2016年01月11日 21時17分14秒 | 真理の言葉
人間は霊的実在である・・・・・その③ 霊魂の存在(死後に残続する意識)

霊魂の存在

人間は肉体が滅びても、人間の本体である霊的な実在は滅んでいないのです。

生物も殺されてその存在がなくなるのではありませんその生物の固体霊魂は永遠に滅びないのであります。
殺された見えるその機縁で、別の境涯の生活体験を得ることにより一層生命が向上するのです。
また一層向上したが為に一層高き肉体に宿る機会に恵まれるのです。
もし生物が永遠に死なないでまた殺されることがないならば、その生物は同じ環境にあり、その環境以外の生活経験を得ることが出来ません。
また向上するための違った別の機縁も与えられません。
その生物は何ら迫害も受けず、摩擦も無いため苦痛もないがために向上の機会が与えられないことになります。
一休禅師が念仏しながら、魚を食べた心境はこのように摩擦が無いが故に苦痛も無い寂静世界こそ、
厭うべき沈滞の世界である。是を打破する悟りに到達せられたのである。
現世の辛い苦痛が実はそれだけ苦しむだけの値打ちがあり、
自己の向上をもたらすと霊界通信でスピリット(霊魂)が告白しています。
苦痛の意義を否定し、苦痛が加えられることを加害と認め、苦痛が存在することを被害と認める限りにおいて、
苦痛は世界の何処にも存在する事実が故に、この世界は加害者と被害者との調和のない集団としか認めることができないのであります。




しかし苦痛の意義を認め、苦痛を機縁として一切万物の霊魂が進化しうることを知るものは
この苦痛の世界を霊魂の向上のための鍛錬の世界として喜んで受けることが出来るでしょう。
激しい耐えられない苦痛は肉体的にも精神的にも眞に苦しいものでありますが、
しかしこの苦痛によって霊魂が向上し、進化することが出来ると云うことを理解できれば苦痛は吾々にとって一つの勉強だと思われます。

・・・・・・続く





人間は霊的実在である・・・・・その② 霊的なるもの 『神の国の義(ただ)しきを観る』

2016年01月11日 17時45分01秒 | 真理の言葉
人間は霊的実在である・・・・・その② 霊的なるもの 


神の国の義(ただ)しきを観る

『神の国の義しき』を観よとはイエスが『われみずからには何事も成し得ず、
天の父われにいまして成さしめ給う』といったようにこの現象世界の諸々の悪、病気、悩みなどを
吾々の力で解決する努力もないのである。
天の父がみ業を為し給うのである。
イエスは相手の悪も罪も悩みも病気も見ないで、罪なき完全なる義しき善を観たのです。
吾々は唯、罪、悪、病気、悩みなどは無いのでありますから
その罪、悪、病気、悩みなどを見る必要はないのです。
あるべきものがあるべき姿に於いて、秩序ある正しい智慧であり、善なる完全な世界を観れば好いのです。




吾々は常に如何なる時も、如何なる場所でも神の霊に守られ導かれているのです

常に自分の内に神の霊がみちているのである。
自分の体にも、自分の周りに起こる様々な出来事にも神の霊がみちているのである。
森羅万象に神の霊がみちているのである。
自分の体、自分の心を生かしているのは神の霊である。
また自分の周りの人々を動かしているのも神の霊である。
自分の生命は常に新たに新鮮な生命力を神の霊より享けているのである。
自分の周りに起こる様々な出来事は神の霊なる智慧に導かれ、滞り無く巧く進むのである。
吾々は周りにどんな苛烈な事が起こっても思い煩うことはないのです。

それは神の霊の智慧に如何なる時にも導かれいるが故に全ての物事がよくなるしか仕方がないのです。

 ・・・・・続く



人間は霊的実在である・・・・・その① 人間の真実の使命

2016年01月10日 23時45分12秒 | 真理の言葉
人間は霊的実在である・・・・・その① 人間の真実の使命

人間の真実の使命

お世話になった人の一周忌の法事でした。
人間の儚い、無常の切なさを感じるものですがご縁があった人々の懐かしい再開の歓びもあります。
人の死を考える時、肉体が失われたことにより、その人の存在価値が終わったのでしょうか。
人間がその時その場所で懸命に今迄生きてきた存在意義が失われたのでしょうか。
もし死によりその人間が存在していた価値が失われるのであれば、今迄積み重ねてきた人生の意義も失われることになり、人間の生命が存在していることへの否定にもなります、人間が単なる石や砂のような物資的な存在になります。
時々人々は何のために生きて何の為にこの仕事をしているのであろうかとつぶやく時があります。
それは生きている意義を理解したいとの願いでもあります。
ある人は収入を得るため、ある人は他に仕事がないから、またある人はこの仕事に生き甲斐があるからとそれぞれ様々な思いで生きています。
樹木、植物、鉱石、動物、鳥、魚などはそれぞれの使命を生き、
その使命を全うして皆に喜ばれて次なる世代へバトンタッチしています。






では人間の本当の使命はいかなるものであろうか、
人間は神より生命を授かり、神の御心である『幸福の世界なる神の国と神の義』とを求めて、それをこの現実の世界に現すことが人間の使命であります。
原罪のないのはイエスキリストと聖母マリアだけであり『無原罪の御宿り』と云われていましたが
ルールドの泉の純粋なベルナデッドが聖母マリアの『無原罪の御宿り』と答えたことが、
人間の本当の姿は罪の無い『無原罪の御宿り』であることを人々に自覚せしめたことから
人々の『罪からの開放』につながり、そこで沢山の奇蹟が起こりました。
神の国とは罪が無い、自由で、幸福な善に満ちた世界であります。
それ故に人間はこの罪の無い、幸福で善に満ちた世界をこの生きている現実の世界に実現することが
神の御心であり、神の願いであり、神の喜びでもあり、人間の真実の使命であります。
純粋なベルナデッドが心の窓を開いて聖母マリアを観たように、自分の心の窓を開いて自分の内なる世界に『神の国と神の意義』を観てそれをこの世に実現することが人間の使命であり意義であります。
このことからも肉体が失われることにより人間の使命、意義が失われることはありません。

人間は神の子であり瀆れなき聖なる存在であり、永遠の生命です。
・・・・・続く




1月9日(土)のつぶやき

2016年01月10日 04時40分35秒 | コラム・人文

真実の徳、真実の功徳、真実の供養について goo.gl/6zK6ML


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真実の徳、真実の功徳、真実の供養について

2016年01月09日 16時22分41秒 | 真理の言葉
真実の徳、真実の功徳、真実の供養について

言葉(真理の言葉)が肉となった。
                                              ヨハネによる福音書 1―1
人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉(真理の言葉)で生きる。

                                               マタイによる福音書四―四


七億四千万円のマンションが売れるこの時代に、寒空に橋げたの下で誰にも知られることが無い、
また誰も通らない場所の橋げたの下の空き地で、もくもくと草を刈っている質素な服を着た男性を見かけました。
また溝の中に落ちているビニール等を拾い集めている姿に尊いものを感じました。
此処に『真実の陰徳』の姿を見ました。
先日も天気の良い日に一級河川の広大な土手の草を刈っている男性の姿を誰も通らない(通るのは私だけ)橋げたの上から発見しました。
その時はこの広い河川の土手を少しづつ刈っている姿に感心していました。
この男性と橋げたの下の空き地で、もくもくと草を刈っている男性は同じ男性ではないかと思いました。





『徳』を考えるうえで善根(ぜんごん)のよい果報をもたらす善い行ないによって、功徳を得ることを『徳』と云われています。


弘法大師空海の秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)の秘密荘厳心のなかで
法爾(ほうう)の計らいの無い心を普賢の大菩提心に住すべきであります。
その菩提心は、一切衆生が本来的にもっているものであって、
衆生がだれでも心の中にもっている『ほとけの心』なのです。
この菩提心は、一切諸仏の『すべての功徳』の法を包み蔵しているから、
もしわれわれの修証(しゆしょう)が出現すれば、それは、一切を導く導師となります。
もし根本の菩提心に帰してみれば、衆生の世界が即ち密巌国土(大日如来の仏国土)であります。
この座を起たずしてそのまま、よく一切の仏の事業(じごう)を成(じょう)ずるのです。
と菩提心の功徳を説いています。

既に持っている菩提心を起し、妄念をはなれて心を一ヶ所に集中し、静寂な心で『御仏』と『有情非情ありとしあらゆるものである一切衆生』を供養するのが『真実の徳』であります。
その中でも神、御仏様の前で三宝礼したり、拝礼して経を読誦したり、祝詞をあげたり、御先祖様、一切衆生(自然を含めて)に経、祝詞を読誦する『法供養』が最大で最勝の供養であります。




『注』
秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)―・・・八三〇年(天長七年)空海五十七才の時、淳和天皇の勅を受けて著した著書。
                   人間の心を十住心としてお題を揚げて奥深い神秘的な心を説き真実の世界へ導く著書。
法爾(ほうう)―・・・雨は衆生をうるおして益するので仏法を雨にたとえたもの。
普賢―・・・仏の慈悲のきはまりなり。普賢菩薩は慈悲を司り給う菩薩ゆえに
       大悲の行を修するのをみな普賢という。
秘密荘厳心―・・・秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)の十住心の中の一つ。
修証(しゆしょう)―・・・修行によって覚ったことのあかしをたてること。
事業(じごう)―・・・なすべきこと。なすべき仕事。
法供養―・・・阿弥陀経、法華経、一切経、大蔵経、聖書、甘露の法雨、祝詞等の『真理の言葉』で神、御仏、有情非情ありとしあらゆるものの
        一切衆生を供養すること。
        『物質で供養』する物施に対して、『真理の言葉』で供養するのを法施とも云ったりする。 

1月8日(金)のつぶやき

2016年01月09日 04時44分45秒 | コラム・人文

苦難から歓喜へ至る道 その?・・・・・苦難の重荷をおろすために goo.gl/Zj2tqk


苦難から歓喜へ至る道 その①・・・・・苦難の重荷をおろすために fb.me/VXLSgI1Q


苦難から歓喜へ至る道 その?・・・・・苦難の重荷をおろすために (天国が今、此処にある) goo.gl/3qPkcp


苦難から歓喜へ至る道 その②・・・・・苦難の重荷をおろすために (天国が今、此処にある) fb.me/4BUkRXTxN



苦難から歓喜へ至る道 その②・・・・・苦難の重荷をおろすために (天国が今、此処にある)

2016年01月08日 21時05分40秒 | 真理の言葉
苦難から歓喜へ至る道 その②・・・・・苦難の重荷をおろすために

            若し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。

キャベツの芯(真実)をみるためには一枚一枚剥いでいく方法は『苦しみの葉』を一枚剥ぎ、また『憎しみの葉』を一枚剥ぎ、また『悲しみの葉』を一枚剥いでいくように葉っぱを一枚一枚剥いでいきキャベツの芯(真実の救い)に到達する方法です。
諸々の煩悩、迷い等を一つ一つ色々な苦行で浄めていくようなものです。
例えば燻っている煙(煩悩、迷い)を手でいくら払っても煙は消えないのです。
煙(煩悩、迷い)の元を消さないと煙は消えないのです。

煙を幾度も手で払うことが、キャベツの一枚一枚剥いでいく方法と同じことなのです。
煙の元を消すのが、キャベツを一刀両断に切り分けることなのです。




釈迦如来が今まで四十年間説いた教えはすべて方便の教えであり、本当の教えは今から説く、人間は『如来のいのち』がここに生きている、『無限のいのち』そのものであると説いてあるのが『法華経』なのであります。
その法華経のなかにある観普賢菩薩行法経に

一切の業障海は、皆妄想より生ず、
若(も)し懺悔せんと欲せば端坐して実相を念え。
衆罪は霜露(そうろ)の如し、慧日能(よ)く消除す。

一切の悪しきにみちた世界はみな『あるものを(実在)』を無いと思い、
『無いもの(虚妄)』を有ると思うサカサマ(転倒)の心より生じたものである。
今までの誤った転倒妄想の心を洗い浄めんと欲せば、無心になり、
正しい姿勢で座ると妄心がなくなり実相十全の姿があらわれ、
霜、露は朝陽があたると消え去るがごとく、
太陽のごとき仏の広大無限なる智慧がもろもろの覆い隠した罪を消して実相の円満完全なる満徳を顕現させてくれるのである。




キャベツの葉を一枚一枚剥いでいかなくとも、キャベツを一刀両断に切り分けることが『この身このままで素直に心の姿勢を正し、無心になりさえすれば今、ここに、我が胸の内に、歓喜に到る道(極楽世界)が開くのであります。

『注』
業障(ごつしょう)―…悪の行為によってよって生じた障害。
              成仏をさまたげる悪業。
妄想(もうそう)―…ないものをあるとする想い。真実でないものを真実であると誤って考えること。
懺悔(ざんげ)―…今までの一切の迷い誤ったことを洗い浄めること。
慧日(えにち)―…太陽のごとき智慧。仏の智慧の無限広大なことを日光にたとえていう。
衆罪(しゅざい)―…もろもろの蔽(おお)い隠した罪。 


苦難から歓喜へ至る道 その①・・・・・苦難の重荷をおろすために

2016年01月08日 00時47分26秒 | 真理の言葉
苦難から歓喜へ至る道 その①・・・・・苦難の重荷をおろすために

   心の重荷を神に全托しましょう。

苦難から歓喜へ至る道は二つの道があります。
キャベツの芯(真実)をみるためには一枚一枚剥いでいく方法と
キャベツを一刀両断に切り開いて芯(真実)見る方法があります。


義経の八艘飛び如く、苦しみ、悩みの世界から飛び越えて幸福の世界へと到るには
自分の重荷(悩み、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等)を降ろして身軽にならなければ飛ぶことが出来ません。
それには悩み、罪、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等は実在(本当のもの)ではないことを知ることが必要であります。
夢のなかで悪魔に押さえられて苦しんでいても覚めてみれば
現実の世界では悪魔に押さえられて苦しんでいる自分はいません。
夢の中で自分の自らの心で自分自身を押さえているに過ぎません。
本当は無いもの(罪、悩み、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等)を自分の心で、自ら脚本して創り上げた映画のようなものです。
この映画を自らの心で夢中に観て、苦しんでいるに過ぎないのであります。
このように悩む心、苦しむ心、憎しむ心、罪、病気などは客観的には実在しないのであります。
神は人間を苦しめるような『罪、苦しみ、怒り、憎しみ、病気等』は創らないのであります。
人間の心は認識したものが現実に現れる『唯心所現』と云う世界があります。
映画館で映画を上映する時には、映画の画面が焼き付けられた『ネガフイルム』に光を当てて回しますとスクリーンに見事な名画が上映されます。人間の心は此の『ネガフイルム』のようなものであります。『ネガフイルム』に焼き付けられた『様々な心、因縁』が現象世界の光をあびることにより映画のように『様々の心、因縁』が現実世界に展開されます。
心で思ったことが、現実の世界に映画のように展開されます。
例えば幸福を思えば幸福が現れます。
苦しみを思えば苦しみが現れます。
病気を思えば病気が現れます。
谷間で向こうの山に有り難うと叫ぶと有り難うと返ってくる『山びこ』のようなものです。
思ったことが、思った通りに現れることを『唯心所現』と云います。




罪、苦しみ、憎しみ、怒り、妬み、劣等感等の悪感情により病を現します。

この悪感情のもとは自分と他人とは別々の存在であると云う相対的観念より生じます。
イエスが汝の隣人を愛せよと言ったようにすべての人々は神の同じ胎から生まれた『同胞』であり『神の子』であります。
自分と他人は一心同体であります。



またイエスは『思い悩むな』と言っています。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だがあなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなたがたは鳥よりも尊い価値あるものではないか。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ神はこのように装ってくださる。・・・・・
天の父はみなあなたがたに必要なことはご存知である。
なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。

                              マタイによる福音書6―26~34


1月6日(水)のつぶやき

2016年01月07日 04時44分32秒 | コラム・人文

麗しい永遠の愛

2016年01月06日 21時31分26秒 | 誌編
 麗しい永遠の愛

ときめきが震える貴女のまなざし

そのしなやか指先がペンを奏でる

細雪が舞うこの白梅にふりそそぐ

見あげる貴女の髪がゆれるさきに

小鳥が歌いその真実の歌を貴女に

貴女の座るそのあし前に光る悦び

星の煌きが貴女の微笑みを見つめ

縁れあう真実を胸に秘め想う貴女

幾万年の彼方に逢う真実を貴女に

麗しい永遠の愛を貴女の唇に囁く




愛は現代語での『愛』と仏説の『愛』とは全然意味が違うのです。
現代語の愛は努力精進して完成しなければならない人間最高の美徳のように解されている。
釈尊が悟りをひらかれた時の心境を阿含経は『諸愛悉く解脱し』と書いているのである。
この時の諸愛は、諸々の愛着心、即ち煩悩のことです。
愛は阿含経時代には解脱しなければならない煩悩を意味していたのである。
観無量寿経には『愛』を仏心と表現し、『仏心とは四無量心是なり』と言うように書いてある。
『四無量心』とは慈悲喜捨の四つの無量の深き心である。
『慈』とは他(ひと)の苦しみを見て、その苦しみを抜いてあげたくなる心―抜苦の心であり、
『非』とは他(ひと)の苦しみを見て切なくなり、楽を与えたくなる『与楽』の心である。
『喜は』他(ひと)の喜びを見て自分の喜びとする心です。
『捨』は諸々の愛着心を捨てることです。


愛とは執着ではない、小鳥を籠の中から解き放つように、愛はすべてを解き放ち、尊敬し、信じることである。








1月5日(火)のつぶやき

2016年01月06日 04時36分45秒 | コラム・人文

義経の八艘飛び如く、悪意の世界を飛び越えよ、其処は善意に満ちた天国である。 goo.gl/aubk01


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義経の八艘飛び如く、悪意の世界を飛び越えよ、其処は善意に満ちた天国である。

2016年01月05日 19時13分07秒 | コラム・人文
義経の八艘飛び如く、悪意の世界を飛び越えよ、其処は善意に満ちた天国である。
 
  善意と悪意 

自分で良いと思ってやった事が悪い結果になる事があります。
善意で行なったことが悪意に取られることがあります。
この現象世界では善意と悪意とはどのようなことでしょうか

唯物論では、外界の世界の『物質』の存在に真理の根源を見出し、見ると見られる、主観と客観というように相対的に捉えるところに真実を見出す二元論であります。
石(物質)と石(物質)との間に意思の疎通はありません。物質と物質が偶然に集合し、成り立っている存在である云います。
石(物質)は目的意思がありませんので唯物論は盲目的な考えでもあるとも云えます。
ある意味で科学的な根拠に立脚した考えでもあり、プラスとマイナスのように相対的に現れたものなから
根拠のない不必要なものを排除(粛清)する考えであります。
科学は先ず物質の道理を批判して分析して、排除(否定)する考えの唯物論で発達してきたと云ってもよいでしょう。
アダムが智慧の実を食べて目が開いて男と女の違いを知り恥じらいを持ったのと同じであります。
確かに私達が現実に生きている五感で感じている世界は貴方と私と彼氏と彼女というように相対的な世界であります。
富等を二次元的に横並びに合理的に移動して平等にする資本論、このような考えの代表的なのがマルクスの思想です


それに対して唯心論は実際には目、耳、鼻、口、心、手などの五感で感じることが出来ない『心』の深遠なる内界の世界に真理の根源を求める考えであります。
科学的な説明ですと煩悩、迷い、悪業、貧瞋痴などを般若の智慧などで空じ去って真実の真理を得ることを探求します。
一見唯物論の相対的に現れたものなから根拠のない不必要なものを排除する考えと似ているようですが、
真実を求める世界が唯物論は外界の五感等の感覚で感じられる物質の世界に、唯心論は心の内界の現在意識の心で観じることの出来ない深遠なる世界に求めますので大きな違いがあります。
このような考えの代表がキリスト、釈迦の仏教、エマソン等の神秘主義者などがあります。
唯心論の中でも主に一元論と二元論と多元論等があります。
『善の神のみが実在する』と云う唯心一元論と、『神の心』と『悪魔の心』が実在し対立すると云う二元論があります。
唯心論の二元論には善が(神の心)が悪(悪魔の心)を排除する考えがありますのでこれまで宗教戦争が度々起こりました。
今中東で宗教的な争いが起こっていることがこの二元論にあたります。



本題に戻ります。
善意を自我の考えで善意を相手に押しつけると悪意に取られることがあります。
これは善意と善意が衝突するからであります。
この相対的な現象世界を飛び越えた世界に『本当の善意』があります。
相対的な善意は、善意と善意とが衝突して収集がつかなくなります。
この相対的な世界の葛藤を飛び越えた世界(神の善意)に『本当の善意』があります。

聖徳太子の十七条憲法の第一条に
『和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。』
己が正しいと互いの善意が衝突して争っては何にもならない。
互いに善意を尊重して柔和な心になり睦び合うことが、最大の徳であり、尊いことであります。
この聖徳太子の十七条憲法の第一条にある真言が相対的な世界の葛藤を飛び越えた善意であります。



悪意に満ちた人間でも、その人間の奥にある善意なるものを信じて拝み出し、礼拝するならば
悪意に満ちた人間から光明輝く善意が現われます。
この理由は、本来は人間には聖母マリアの『無原罪の御宿り』のように人間には本来は善意のみが在り
悪意、悪人は無いのです。
人間は神の善きものみを享けついだ素晴らしい神の子であるのです。






1月4日(月)のつぶやき

2016年01月05日 04時38分52秒 | コラム・人文

目に見えないもの 最終回・・・・・幽玄なる神秘の世界(奇蹟という真実) goo.gl/KBrvGQ


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