霊魂の死後の消息
長崎の叔母さんのお通夜に参列しました。
遺影を見ると叔母さんが陸の孤島と言われた断崖の厳しい処で茂木びわを育て、
その真心のびわを毎年私共に長年贈って頂きました。
叔母さんの人生が走馬灯の如くめぐりました。
千々の海に光る琵琶の実、南無阿弥陀仏と唱える木魚かな
肉体と霊魂を結んでいる霊糸が切れると霊魂は霊界へと移行しますが修行が足りている霊魂とまだ未熟な霊魂とがあります。
修行が足りている霊魂はセミの幼虫が殻を抜け出るように肉体から霊魂が抜け出ているのを自ら客観的見ることが出来ます。
最近、一度医者から死の宣告をうけた患者が蘇生し、その患者が死の宣告をうけてから、蘇生されるまでの体験を話す臨死体験の症例が数多く発表されています。
この臨死体験は修行が足りている霊魂が自らの肉体から霊魂が抜け出ているのを自ら客観的見ることが出来ることと同じことであります。
まだ肉体と霊魂を結んでいる霊糸が完全に切れていないときにこのような臨死体験が出てきます。
家族が自分の遺体に取りすがり泣き悲しんでいる姿を高いところから客観的に見て、
悲しまなくてもよい、まだ自分は死んでいないのであると家族に知らせようとします。
この現実の世界で生きていく為には肉体が必要でありますがこの肉体は宇宙服のようなものであります。、
他の世界の霊界では必要でなくなるためにセミの幼虫が殻を脱ぎ捨てるように肉体を脱ぎ捨てるのであります。
このように修行が足りている霊魂は人間の本当の存在は肉体的存在ではなく、霊的存在であることを理解していますから必要でない肉体を脱ぎ捨てている姿を客観的みることが出来るのです。
冥界の擬人的な閻魔大王の照魔鏡に、今までの一生が走馬灯のように廻り映し出されます。
自分が今まで生きてきた人生を客観的に見せられ、自分が良いと思っていたことがこの鏡で自分の姿を第三者が見るように見るとそうではなく自分が悪いと気付かされ、この照魔鏡の前の脱衣場で自らの意思で自分の業を反省し、懺悔してその悪業を一枚一枚脱ぎ捨てることにより業が浄化されます。
ここで消える業は消え、消えない業はそのまま、その業の段階により霊界の修行するどこかの場所が与えられます。
これを四十九日の浄化期間が終え、仏教では『満中陰』、神道では五十日祭と称して、それぞれの担当の高級霊の案内により割り当てられた幽界の位置に連れられ、そこで修行するこになっています。
・・・・・続く>