夢から慈しみの世界へ

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義経の八艘飛び如く、悪意の世界を飛び越えよ、其処は善意に満ちた天国である。

2016年01月05日 19時13分07秒 | コラム・人文
義経の八艘飛び如く、悪意の世界を飛び越えよ、其処は善意に満ちた天国である。
 
  善意と悪意 

自分で良いと思ってやった事が悪い結果になる事があります。
善意で行なったことが悪意に取られることがあります。
この現象世界では善意と悪意とはどのようなことでしょうか

唯物論では、外界の世界の『物質』の存在に真理の根源を見出し、見ると見られる、主観と客観というように相対的に捉えるところに真実を見出す二元論であります。
石(物質)と石(物質)との間に意思の疎通はありません。物質と物質が偶然に集合し、成り立っている存在である云います。
石(物質)は目的意思がありませんので唯物論は盲目的な考えでもあるとも云えます。
ある意味で科学的な根拠に立脚した考えでもあり、プラスとマイナスのように相対的に現れたものなから
根拠のない不必要なものを排除(粛清)する考えであります。
科学は先ず物質の道理を批判して分析して、排除(否定)する考えの唯物論で発達してきたと云ってもよいでしょう。
アダムが智慧の実を食べて目が開いて男と女の違いを知り恥じらいを持ったのと同じであります。
確かに私達が現実に生きている五感で感じている世界は貴方と私と彼氏と彼女というように相対的な世界であります。
富等を二次元的に横並びに合理的に移動して平等にする資本論、このような考えの代表的なのがマルクスの思想です


それに対して唯心論は実際には目、耳、鼻、口、心、手などの五感で感じることが出来ない『心』の深遠なる内界の世界に真理の根源を求める考えであります。
科学的な説明ですと煩悩、迷い、悪業、貧瞋痴などを般若の智慧などで空じ去って真実の真理を得ることを探求します。
一見唯物論の相対的に現れたものなから根拠のない不必要なものを排除する考えと似ているようですが、
真実を求める世界が唯物論は外界の五感等の感覚で感じられる物質の世界に、唯心論は心の内界の現在意識の心で観じることの出来ない深遠なる世界に求めますので大きな違いがあります。
このような考えの代表がキリスト、釈迦の仏教、エマソン等の神秘主義者などがあります。
唯心論の中でも主に一元論と二元論と多元論等があります。
『善の神のみが実在する』と云う唯心一元論と、『神の心』と『悪魔の心』が実在し対立すると云う二元論があります。
唯心論の二元論には善が(神の心)が悪(悪魔の心)を排除する考えがありますのでこれまで宗教戦争が度々起こりました。
今中東で宗教的な争いが起こっていることがこの二元論にあたります。



本題に戻ります。
善意を自我の考えで善意を相手に押しつけると悪意に取られることがあります。
これは善意と善意が衝突するからであります。
この相対的な現象世界を飛び越えた世界に『本当の善意』があります。
相対的な善意は、善意と善意とが衝突して収集がつかなくなります。
この相対的な世界の葛藤を飛び越えた世界(神の善意)に『本当の善意』があります。

聖徳太子の十七条憲法の第一条に
『和を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。』
己が正しいと互いの善意が衝突して争っては何にもならない。
互いに善意を尊重して柔和な心になり睦び合うことが、最大の徳であり、尊いことであります。
この聖徳太子の十七条憲法の第一条にある真言が相対的な世界の葛藤を飛び越えた善意であります。



悪意に満ちた人間でも、その人間の奥にある善意なるものを信じて拝み出し、礼拝するならば
悪意に満ちた人間から光明輝く善意が現われます。
この理由は、本来は人間には聖母マリアの『無原罪の御宿り』のように人間には本来は善意のみが在り
悪意、悪人は無いのです。
人間は神の善きものみを享けついだ素晴らしい神の子であるのです。






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2016年01月05日 04時38分52秒 | コラム・人文

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