夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

人間は霊的実在である・・・・ 神の世界(極楽世界)

2016年01月19日 23時37分55秒 | 日記・エッセイ
人間は霊的実在である・・・・ 神の世界(極楽世界)

窓に映る真白い雪が輝く、
院外に出ると強い風が吹き、
同僚が暖冬でも良いと言いながら
首をすぼめ駐車場へと急ぐ足、
いよいよ冷たい冬将軍到来と感じ、
家路へと心馳せる。
ワイパーの先に小雪が舞う、
もう街には明かりが灯る。

どのような場所でも、どのような時も今此処が神の国である。
イエスは言い給う『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきを知らぬか』
常に今此処にいる永遠の世界が、神の世界なのである。何処にも危険な世界はない。
何処にも乏しき世界はない。われは常にこの素晴らしい満たされた神の国に居るのである。
この涅槃経には、今まで釈迦が説いてきた教えとは反対のことが説かれてあるのであって、
この世の中は無常でなくて『常』である、苦でなく『楽』である、無我ならずして『我』なり(絶対なり)、
穢土ならずして『浄土』であると教えている。
即ち釈迦は此の世はこのまま『常楽我浄』の天国であると悟ったのである。
極楽浄土の光景を心に描いて観ずればあらゆる所に極楽世界があらわれる。
『極楽世界は此処を去ること遠からず』である。
今、極楽に往(い)けずして、死んでから極楽に往ける筈はない。
永遠の今、すでに極楽に往っているのである。
極楽世界は、既に、今、此処に、在る。




極楽箸と云う腕の長さより長い箸があります。
此の長い箸を使って自分の口に入れて食べることは出来ませんが、相手の口には入れて食べさせる事が出来ます。
自分の利己的な欲望は決して遂げることは出来ません、相手が幸福になるように相手に対して慈愛の心を捧げることが
極楽の世界であります。
愛する者を放つ時、最愛のものはふところに帰ってくる、
愛する者を縛る時、最愛の者は自分から離れ去ってしまう。
このように自分の心しだいで極楽も地獄も今、此処に観じて、創造(つく)ることが出来ます。

大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)―・・・釈尊入滅時のお経。仏典のなかでも
                        最勝最高のお経である。
常楽我浄(じょうらくがじょう)―・・・ものの真実のあり方に反し無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を 浄と思うこと。
                    究極の悟りは永遠である(常)、安楽に満ち(楽 )、絶対であり(我)清浄である(浄)
                    ためである。 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿