joy - a day of my life -

日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

生命

2004年09月07日 | 見たこと感じたこと
私には命があり、まわりの木々にも命がある。生命とは何なのだろうか?生命はどこからやってくるのだろうか?

私の命は、私という存在を変化させる。植物の命は、植物を成長させる。

生命は変化を促すもの。命は変化を引き起こすもの。あるいは、生命とは変化。

変化には躍動があり、高揚があり、上昇がある。

ここまで命で、ここから命でないものという境界はあるのか?あるいは、すべてが命なのか?

命とはいったい何なのだろう?

大断言

2004年09月06日 | 日記
今さっき地震が起きていました。大きくはないけどながい間つづいていたから、ちょっとこわかった。思わず机の下に隠れてしまいました。

机の下にいるときは、次の言葉を唱えました。

「宇宙の無限の力が凝り凝って、真の大和のみ世が成りなった」

これは、『自在力』という本で塩谷信男さんという方が述べられている言葉です。この言葉には不思議な力があるということです。

興味のある方は読んでみてください。

同級生

2004年09月05日 | 日記
僕がよく行くレンタル・ビデオ店に、小学校の頃の同級生が働いている。今日、ビデオを彼女にレジしてもらったら、カウンターの後ろで店長らしき人と少し笑っていた。

これはなんなのかな。彼女は僕のことを覚えていて、その話を店の人としたことがあるのだろうか?それで僕が来たからなんとなく笑ってしまったのだろうか。これって意識しすぎ?常識的にはそうだな。

お互い小学生以来だし、そもそも彼女が僕のことを覚えている確証はない。そもそも僕と彼女は小学校のときですらちゃんと会話したことはないのだ。なのにどうして僕が笑われるんだ?

でも、こういうのはなんとなくたのしい。たとえ彼女がじつは僕のことをまったく忘れていたとしても。小学生は確実におとなになっているのです。

こういうのってなんかおもしろいよね。

余分なものが出ていく

2004年09月05日 | reflexion
部屋の物の整理をする。身体を動かすと言うのはいいことだ。なにか体の毛穴から余分なものが放出されてているような気がする。「頭で考えるよりもなにか体を動かしたほうがいい」と最近も言われていた。

体を動かすことで、現実に戻れるという部分もあるのかもしれない。あ、これもまた頭で考えすぎなことなのかな。

『僕の生きる道』

2004年09月05日 | 映画・ドラマ
今頃になって『僕の生きる道』をみる。

おもしろい。まだ3話までだけど。草薙くんはだめな男の子という役柄がはまっている。芸能人じゃなかったらほんとにもてなさそうだ。でもそれは、彼がどれだけ役者としての才能に恵まれているかということなのでしょう。

『僕と彼女と彼女の生きる道』のときとおなじようなコートを着ているのが興味深かった。きっとどちらの作品も、脚本、役者、スタッフに奇跡的に恵まれた作品なんだ。フジテレビにもこんなに真面目にドラマを作ろうとしている人たちがいるんだ。

今日が始まり

2004年09月03日 | 語学
TOEICの問題集をパラパラとやってみました。推定では、今の私の英語力では500点台かな。現実とは厳しい・・・

この問題で700、800を取る人たちはすごい。この短時間ではじめて接する状況から瞬時に適切な判断を下すのだ。ほんとうにすごいと思う。わたしがその点数を取ろうとしたら、かなりの努力が必要だろう。

でも、わたしたちが英語をビジネスで、そして日常で使うのに、ほんとにそこまでの英語力が必要なのだろうか?

TOEICを否定しているのでは全然ありません。最初に書いたように、このテストで高得点を取れる人はすごいなぁと思ってしまいます。ただ、ほんとにここまでの実力が必要なのだろうか、と思ってしまうのです。

自分のかかわる英語の分野や自分が話す外国の人たちは必然的に限定されるはず。にもかかわらず、猫も杓子もTOEICで英語力を判断していては、ほんとはその分野に対応できる能力のある人を最初から排除している危険性もある気もする。

とは言っても、これが世の中の基準として認められている以上、やってみよう。英語の実力が上がるのは事実なんだからね。

わたしの目標は800点以上。

スポーツとは・・・

2004年09月03日 | スポーツ
船井幸雄さんが興味深いコラムを書かれていました。簡単にまとめると、スポーツというのは本来競争を行うものだから、そこでは人間のエゴを強める危険があるというものです。これは、選手にもファンにも芽生えるエゴです。

船井さんは以前サッカー・ワールドカップについてもこの点から否定的に述べられていました。それを読んだときは「それは極端でしょう」と思ったけど、いまは船井さんの言うことは当たっているかも、と思います。

たしかにスポーツをみることは楽しい。スポーツにはなくなって欲しくない。でも同時に、スポーツが他人に勝とう勝とうというエゴを強めるのも事実です。

サッカーのフーリガンやプロ野球の応援団を牛耳る暴力団と一般のファンはたしかにちがいます。でも、彼らの過激な行動を呼び起こす何かがスポーツにあるのも事実だと思うのです。

にもかかわらずスポーツに存在意義があるとすれば、それは私たち自身の競争性について強く自覚させてくれる点なのかもしれません。ファンのチームが負けると、日本選手が負けると悔しい。でも、その悔しさをかみしめてその感情を味わっていくと、人はまた一歩成長するのかもしれません。

スポーツをやる人が成長するのも、勝つから成長することがあれば、負けることで味わう悔しさを味わいつくすことで、他人を負かすのではなく純粋に自分の能力向上に打ち込むことができるようになるからなのかもしれません。

だから、やっぱりスポーツにはなくなってほしくない。

黄昏は永遠に

2004年09月03日 | 見たこと感じたこと
今日はいつにもましてすずしい。こうやっていつの間にか夏は過ぎ去ってしまった。

どちらかというとぼくは夏が好きじゃない。というより、夏が過ぎ去り涼しくなると、ああいい季節になってきたなぁと感慨深くなる。

今日はなんだか頭がクールダウンしてきたよう。ものごとの判断は、夏ではなくこの時期にしたほうがいいのかもね。

ほんとうのこと

2004年09月02日 | reflexion
苦しみとは、ちがう自分になることへの恐れ。

安全・保護・確実性、そういうものを手放して、ダイナミックな世界でも生きていける偉大な人間になることへの恐れ。

わたしたちは、落ちぶれていくことが怖いのではない。「落ちぶれていく自分」は、むしろ自分にとってなじみやすいイメージだ。

むしろ私たちが怖れているのは、不確実な荒波でも生きていける素晴らしい人間になること。

目が明るくなる

2004年09月01日 | reflexion
苦しいということは、ひとつ自分の視野を広げることに戸惑っているときです。

会社の課長になれないのはつらい。あいつは上司から優遇されているのに。
でも、会社で働くことは、今目の前に取り組むべき仕事があると言うことです。人とかかわるのであれば、他人に尽くすことができます。

なかなか結婚できないのは苦しい、親やまわりの目もあるし。
でも、仕事をもってお金を稼いでいること自体、自分を高めるチャンスをいくらでももっていることです。

大学に行けないのはつらい。まわりの友達は学生になって遊んでいるのに。
でも、日本には通信制の大学が沢山あるけど、まずしくてそれどころではない国の若者は山ほどいます。

仕事がなくてつらい。自分にまったく価値がないみたいだ。
でも、それは、仕事がないのではなく、自分の視野を広げるきっかけがなかっただけかもしれない。

苦しさは状況からではなく、自分の視野の狭さから来ます。

にくしみを手放す

2004年09月01日 | reflexion
親と、または他人と完全に和解するということはないのかもしれません。どちらも、自分の正しさと怒りをどこかで手放さないでしょう。

しかし時によっては、大切なのは完全に理解するのではなく、相手の「過ち」をゆるすことかもしれません。

「ゆるす」とはどういうことでしょうか。それは一種の傲慢さかもしれません。ただ同時に、「ゆるす」とは、すべての状態を受け入れて、こだわりを手放すことでもあるように思います。

「相手が間違っている」という想いを手放すことができなくても、相手を憎む想いは手放せるかもしれません。