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日々の体験や思ったことを綴ります(by 涼風)。

「16・7世紀におけるヨーロッパの魔女熱狂」 H.R.トレヴァー=ローパー(著)

2006年07月02日 | Book
英国の歴史学者H.R.トレヴァー=ローパーの『宗教改革と社会変動』(未来社)には3本の論文が収められていますが、これまでそのうちの2本「宗教・宗教改革・社会変動」「啓蒙主義の宗教的起源」を取り上げましたが、今日ご紹介する「16・7世紀におけるヨーロッパの魔女熱狂」は最後の3本目の論文です。

歴史学者にとって著者のスタイルはジャーナリスト的かつ論争的で、評価はさまざまだそうですが、この1972年に出された論文集はなかなか興味深かったです。

もともと私がこの本を手に取ったのは、中井久夫さんの『分裂病と人類』でこの本が参考文献として言及されていたからです。中井さんは『分裂病と人類』のなかで、宗教改革とピューリタニズムが西欧のエートスと思考パターンに及ぼした影響を重視しているので、トレバー=ローパーのこの本がどれほど中井さんの参考になったのかを確認しようと思って私は読みました。

前の2論文「宗教・宗教改革・社会変動」「啓蒙主義の宗教的起源」で著者が強調していたのは、(中井さんと異なり)ピューリタニズム・カルヴィニズムは近代経済人という新しい企業人のエートスを作ったわけではないし、また啓蒙主義をもたらしたわけではないということです。この事実は歴史学者にとっては当たり前すぎるテーゼかもしれませんが、私にとっては自分の不勉強を思い知らされた指摘でした。

3つ目の論文「16・7世紀におけるヨーロッパの魔女熱狂」も、前2論文と同様に、ピューリタニズムへの批判的指摘を行っています。つまり、3つの論文を読むと、この本の主な主張は、啓蒙主義という点でも資本主義的エートスという点でも近代の形成に大きく与ったと考えられていたピューリタニズムが、じつはカソリックと同様の硬直的な教条主義・権威主義に染まっており、そこから新しい動的な社会運動は発生したわけではないこと、むしろ民衆に対する圧殺的な行動を取り続けたことを指摘することにあったようです。

この「魔女熱狂」論文では、16・7世紀に「魔女」とされた中欧山岳地帯の異教徒が裁判にかけられ火あぶりの刑などで大量に処刑された事件(「魔女狩り」)に関して、その処刑運動にはカソリックのみならずプロテスタントも同じぐらいの情熱を傾けて参加していた事実が指摘されていきます。

上で述べた中井久夫さんの論文『西欧精神医学背景史』では、「魔女」の処刑運動は、キリスト教にとって母性信仰を現す山岳地帯の土着宗教は、彼らにとって親殺しの意味をもっていたことが指摘されています。

トレバー・ローパーの論文では、この魔女裁判にカソリックとプロテスタント共に積極的に関わっていた事実が指摘されると同時に、同時代の「魔女裁判」への批判も紹介されます。

しかしこの批判が紹介される目的は、当時にも理性的な判断力を具えた賢人がいたことを示すのではなく、むしろそれらの「魔女裁判」批判者ですら魔女信仰を共有していたことを示すことです。つまり、当時の欧州の思想世界では、どれほど合理的・進歩的な思想の持ち主であろうと、「魔女」というものが存在すること自体を疑う人は存在しなかったそうです。

しかし同時に、「魔女」というものの存在自体は疑いえなくとも、裁判における無理なこじつけによる証拠提出で多くの無実の民が処刑されていくことには多くの知識人が批判的でした。

ですからトレバー・ローパーが着目しているのは、魔女裁判の知的後進性と批判者の進歩性・合理性ではなく、魔女裁判への批判者ですら魔女信仰者と共有していた世界観がいかに強固なものであったかということです。それは、「魔女」を摘発した教会側だけではなく、「魔女」と疑われた者ですら、自分と魔女とのかかわり、サバトへの自身の参加を信じ込んでしまった事例の存在にも窺えます。

この強固な世界観の存在のゆえに、魔女狩りへの批判は、裁判手続きの非合理性に向けられても、魔女信仰自体に向けられることはありませんでした。むしろ魔女狩り批判者は、「魔女」という神秘の存在は、そのような俗世間的な手続きによって安易に把握できるものではないと主張していました。

このような強固な世界観の存在に思いを至らすとき、魔女狩り・魔女信仰を「非合理的」なものと決めつける後世の歴史家の態度を著者は批判します。たとえそれが非合理なものに見えても、その非合理なものがどれほど強固な信念としてエリート知識人にも疑われずに共有されていたかを理解しなければ、魔女信仰を支えた世界観を掘り崩した近代的世界観の構築の努力の意味もまた理解することはできないと著者は主張したいのだと思います。

著者は、当時の世界観が誰にとってもどれほど強固であったかを指摘し、その強固さの中では、「魔女は存在するかどうかという魔女信仰だけを問題としていたのでは、社会の常識を覆す発想を生むことはできなかったことを指摘します。

「16・7世紀の人たちの困難さは魔女信仰を全体のコンテクストから切り離しえないということにあった。ドミニコ会の人たちの神話は、農民の迷信、女のヒステリー、聖職者の妄想をかりた宇宙論体系の延長であった。それはまた持続的な社会的態度に根ざすものであった。このグロテスクな精神の建造物を取り壊すには、それを構成している諸観念を切り離して検討するだけでは充分ではなかったし、またふかのうでもあった。それらは切り離しえないものであるし、また、それら全体をおおうコンテクストから切り離された独立の《理性》などというものはありないものなのだ」(229頁)。

このように述べた後で著者は、当時の理性的な人にとって課された使命は、たんに魔女が存在するかいなかを判定する理性ではなく、魔女信仰を可能ならしめた強固な世界観、「農民の迷信、女のヒステリー、聖職者の妄想をかりた宇宙論体系」そのものに挑戦する世界観の構築であることを指摘します。

「魔女に関する彼らの見解を変えようというのであれば、その見解のコンテクスト全体をかえるのでなければならなぬ」(230頁)。

「知的レベルで最後的に魔女熱狂を打ち破ったのは懐疑主義者のもろ刃の議論ではなかったし、新しい思想体系のなかでのみ成立しえた近代《合理主義》でもなかった。・・・それ(魔女熱狂を打ち破った試み)は新しい哲学であり、自然とその作用につき概念全体を変えた哲学革命である。この革命は狭い悪魔学の分野のなかで起こったものではなく、したがってこの分野に限定した研究では十分に扱うことはできない。この革命はそれよりはるかに広い分野で起こったのであり、革命を実行した人たちは悪魔学という全くの自然の辺境から攻撃を始めることをしなかった。悪魔学はしょせん中世思想の付録、スコラ哲学のおくればせの精製にすぎないものであった。攻撃は本丸に向けられた。中心部で勝利を収めたとき、外塁で戦う必要はなく、外塁は戦わずしておちてしまった」(233頁)。


それゆえ、現代から見て当時の一級の知識人たちが魔女信仰に対して声を荒げて批判するのではなく、より慎重な態度を取っていたのだと著者は説明します。

「17世紀初期の偉大な思想家、自然科学、自然法、世俗史の哲学者たちがまったく沈黙していた理由はここにあったように思われる。・・・ベーコン、グロチウス、セルデンは魔女について沈黙していたろうし、デカルトも同様であった。二次的で末梢的な争点をめぐりなにゆえ法廷闘争をする必要があろうか。中心的な争点について彼らは沈黙していないし、彼らの基本哲学こそ彼らが戦っていた闘争、魔女の世界を最終的に衰退させてしまう闘争であることを見究めねばならないのである」(233頁)。

著者によれば、この強固な悪魔信仰の世界観は、モンテーニュなどに代表される当時の懐疑主義などではびくともしないものだったと述べます。懐疑主義は相手の思想のみならず自らの知的基盤をも疑うものだったため、狂信的な思想には対抗する力を持ちえませんでした。求められているのは、単なる知的な議論ではありませんでした。それは現実の狂信に対抗する力をもたないからです。

著者は、悪魔信仰を成立せしめた世界を駆逐する新しい世界観の成立までの経過を次のように述べます。

まずルネサンスのネオ・プラトニズム、<自然魔術>。これは「宇宙を(魔女信仰と同様に 引用者)《悪霊》でみたしたのではあるが、同時に、悪霊を調和ある自然に従属させ、これによって調和ある自然の仕組みに仕えさせ、自然の法則を作用せしめ」ました(234頁)。

このプラトニズムが起こした知的運動はベーコン、デカルトなどの哲学者によって継承されたと著者は言います。「ベーコンは悪霊を必要としない《純化された魔術》によって、デカルトも悪霊を必要としない普遍的な《機械的》自然法則によって進んだ。トマジウスと彼の友人たちが認めるように、西ヨーロッパの魔女熱狂にとどめの一撃を加えたのはデカルトであった」(234頁)。

このデカルトがもたらした知的運動により魔女信仰への戦いは勝利を収めたということです。それは「英国の理神論者とドイツの敬虔主義者」がもたらしたそうです。「この二つのものは17世紀プロテスタントの異端者の継承者であり、ヘブライの神と中世の悪魔との間に戦われた自然をめぐる抗争にかえ、近代の科学《神》の恩恵的専制政治をつくり出す18世紀啓蒙主義の生みの親であった」(235頁)。


魔女狩りが発生した背景には、やはり当時の経済不安とペストの流行が人々の不安を煽った事実が大きいのでしょうが、それらの不安を大量の処刑運動へと向かわしめた推進力は、当時の強固な世界観にあったこと、またこれらの世界観はカソリック・プロテスタントを問わず密接にキリスト教と結びついており、その世界観を打ち壊す知的運動は決してプロテスタンティズムによってもたらされたのではないこと、このことが再三著者によって主張されています。

このようにこの本では一貫してプロテスタンティズム・宗教改革の知的後進性・民衆への圧殺的作用が強調され、それはいか程もカソリシズムと異なることがなかったと著者は述べます。

それ自体は重要な指摘だと思うのですが、それではなぜ「宗教改革」という運動が起こったのかという問題がここで持ち上がります。旧来の教会への闘争という説明がプロテスタンティズムに適用し得ないのであれば、それがいかに知的には粗野な運動だったとしても、なぜヨーロッパ全体を巻き込んだ宗教闘争が起こったのかが問われます。

それとも、プロテスタンティズム自体には、著者が何度も指摘していたエラスムスの先進的な思想によって生まれたのだけれども、それがルター、カルヴァンを経由してあっという間にカソリックと変わることのない狂信的な集団に変わったということなのでしょうか?





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