須原一秀。
少し前にもここで書いたけれど、彼は「自死という生き方」という本を世に送り出し、その後自らの命を絶った孤高の哲学者である。
その「自死という生き方」は素晴らしい名著だ。
須原一秀は、哲学的な苦悩や、厭世思想、悲観主義的な考えに立ち、自らの心を縛り上げ、絶望から死を選択したわけではない。
僕は、この本の中に漂う、とても前向きで建設的(死をもって人生を完結しようとした人間に対してこういう表現は確かに違和感があるとしても)な生き方思考がとても不思議でならなかった。
自らが死を選択する行為というのは、生きてゆくことそれ自体に深く絶望し、究極の諦観とも言うべき思いから為す、最終的な選択肢だと考えていたからである。
しかし、彼は言う。
いずれ誰にでも訪れる「死」は、悲惨な闘病生活、突発的な事故等によって派生する肉体的欠落、医師によって宣告される「死」に纏わる様々な苦悩と苦痛などを伴い、ゆっくりと坂道を転がるように進んでゆくのだと。ならば、死を積極的に、自分の意志に則って迎えるべきではないか。
これはあくまでも、「自死という生き方」という書物のある一部分でしかない。要約でしかない。そういう意味で、この本は危険極まりない本である。
短絡的に「死」を容認しているものでもない。あとは、じっくりとその微妙な差異を読んでもらって理解していただくしかないのだが。
その須原一秀が、「自死という生き方」を書く基本となったのが、この「高学歴男性におくる弱腰矯正読本―男の解放と変性意識」だと思われる。
しかし、この本もまた一筋縄ではいかない。
別に難解だというわけではない。この本は、よくある哲学書のような小難しい用語を一切使っていない。作者の、出来るだけ分かり易くという趣旨はこの本でも活かされていて、難なくすらすら読んでいける。
例えば、こんな経験はないだろうか?
絶壁に一人立ち、そこから下をじっと眺めていると、すーっと吸い込まれそうになる。でもその瞬間、不思議と恐怖感はなく、逆に奇妙な恍惚感に包まれることがある・・・。
また、例えば、こんな経験はないだろうか?
何らかの災害に見舞われているその最中、心が妙に落ち着いていて、動揺もない。それより逆に、冷静沈着に周りが見渡せていて、居直りとも違う平静心が覆っている・・・。
変性意識。
何かをきっかけに、感覚が日常的な感覚と著しく変わってしまい、恍惚感や幻惑感、開放感や自発性の放棄に陥る事。
つまり、普段感じている日常的な感覚からの逸脱、簡単に言い切れば「気持ちよさ」だろうか。
人間には、この意識を潜在的に有している。
この感受能力は、普段抱いている「自己保全能力」(絶えず自分を意識し、反射的に己を守ろうとする能力と言えばいいだろうか)とは反比例する。ということは、一方が強くなれば他方が弱くなる。
それを「逆比例の法則」と呼ぶ。
須原一秀はこうも言い切る。
日常がつまらないのは、この自己保全能力が強すぎるからだと。
自分という意識を捨てる、無我になる、それがないからいつも中途半端なのだと。
うーん。
確かに目から鱗ではある。
男を解放する。すべてを解き放つ。自由になる。「自己」を意識しない。そこから始める。
頭ではすんなり入るのだが・・・。そこから先がね・・・。
今、凄く苛ついている人、人生が何か中途半端だと思っている人、この本は意外にキクかもしれない。
少し前にもここで書いたけれど、彼は「自死という生き方」という本を世に送り出し、その後自らの命を絶った孤高の哲学者である。
その「自死という生き方」は素晴らしい名著だ。
須原一秀は、哲学的な苦悩や、厭世思想、悲観主義的な考えに立ち、自らの心を縛り上げ、絶望から死を選択したわけではない。
僕は、この本の中に漂う、とても前向きで建設的(死をもって人生を完結しようとした人間に対してこういう表現は確かに違和感があるとしても)な生き方思考がとても不思議でならなかった。
自らが死を選択する行為というのは、生きてゆくことそれ自体に深く絶望し、究極の諦観とも言うべき思いから為す、最終的な選択肢だと考えていたからである。
しかし、彼は言う。
いずれ誰にでも訪れる「死」は、悲惨な闘病生活、突発的な事故等によって派生する肉体的欠落、医師によって宣告される「死」に纏わる様々な苦悩と苦痛などを伴い、ゆっくりと坂道を転がるように進んでゆくのだと。ならば、死を積極的に、自分の意志に則って迎えるべきではないか。
これはあくまでも、「自死という生き方」という書物のある一部分でしかない。要約でしかない。そういう意味で、この本は危険極まりない本である。
短絡的に「死」を容認しているものでもない。あとは、じっくりとその微妙な差異を読んでもらって理解していただくしかないのだが。
その須原一秀が、「自死という生き方」を書く基本となったのが、この「高学歴男性におくる弱腰矯正読本―男の解放と変性意識」だと思われる。
しかし、この本もまた一筋縄ではいかない。
別に難解だというわけではない。この本は、よくある哲学書のような小難しい用語を一切使っていない。作者の、出来るだけ分かり易くという趣旨はこの本でも活かされていて、難なくすらすら読んでいける。
例えば、こんな経験はないだろうか?
絶壁に一人立ち、そこから下をじっと眺めていると、すーっと吸い込まれそうになる。でもその瞬間、不思議と恐怖感はなく、逆に奇妙な恍惚感に包まれることがある・・・。
また、例えば、こんな経験はないだろうか?
何らかの災害に見舞われているその最中、心が妙に落ち着いていて、動揺もない。それより逆に、冷静沈着に周りが見渡せていて、居直りとも違う平静心が覆っている・・・。
変性意識。
何かをきっかけに、感覚が日常的な感覚と著しく変わってしまい、恍惚感や幻惑感、開放感や自発性の放棄に陥る事。
つまり、普段感じている日常的な感覚からの逸脱、簡単に言い切れば「気持ちよさ」だろうか。
人間には、この意識を潜在的に有している。
この感受能力は、普段抱いている「自己保全能力」(絶えず自分を意識し、反射的に己を守ろうとする能力と言えばいいだろうか)とは反比例する。ということは、一方が強くなれば他方が弱くなる。
それを「逆比例の法則」と呼ぶ。
須原一秀はこうも言い切る。
日常がつまらないのは、この自己保全能力が強すぎるからだと。
自分という意識を捨てる、無我になる、それがないからいつも中途半端なのだと。
うーん。
確かに目から鱗ではある。
男を解放する。すべてを解き放つ。自由になる。「自己」を意識しない。そこから始める。
頭ではすんなり入るのだが・・・。そこから先がね・・・。
今、凄く苛ついている人、人生が何か中途半端だと思っている人、この本は意外にキクかもしれない。