ねぶた祭りの笛や太鼓や「ラッセラー」という威勢のいい音が、静かな部屋の中まで聞こえて来る。
家から数百メートルも行くと、もうそこは熱狂する祝祭で湧きかえっているはずだ。あいにくの雨にもかかわらず、その異様な熱気は、独りでパソコンを打ちこんでいるこの部屋の中にまで伝わって来る。
時計は夜の8時40分。
あともう少しで、ねぶた祭りの終了を告げる花火がなるだろう。
今日は祭り初日。明日から7日まで夏の火祭りは続いてゆく・・・。
それにしても今日は肌寒かった。
風が冷たく、まるで9月下旬のような涼しさだった。
少し日中は晴れ間もあったけれど、午後からだんだん崩れ出し、夕方からは雨に変わった。本当に、今夏は暑さが感じられない。
午前中のんびり家で過ごし、午後からはスポーツ・ジムで汗を流した。
4キロほど軽く走り、あとは腹筋と胸を厚くするマシンを繰り返した。
ねぶた祭りだからなのか、日曜日の昼下がりのジムはひっそりとしている。いつもなら満杯状態のランニング・マシンも、今日は数人程度が使っているだけだ。
ジムのお風呂に入って汗を流し、どこにも寄らずに帰宅した。
最近、矢沢永吉が頻繁にメディアに露出している。久方振りにニューアルバムを出すことから、そのプロモーション活動の一環らしい。
当然、彼の歌がテレビやラジオでかかるので、そうなると、こっちも古いアルバムを引っ張り出し、改めて聴き直す羽目になる。
そういう訳で、今日も車の中は永ちゃんの曲のオンパレード。やっぱりいいね。
家に帰り、火照った体を鎮めながら、何気なく雑誌を捲っていたら、とても興味ある記事が載っていた。
作家の、なだいなださんのコラムである。
最近とみに多くなっているのが、死んだあと、土の中に埋葬するのではなくて、海上に灰を撒いたり、山の山頂からばら撒いて欲しいという遺言なのだとか。
日本で、墓地などに埋めるという儀式が始まったのは、江戸時代に入ってからで、その昔は、鳥葬さえ執り行われていたらしい。
ただ、鳥についばませて死者の霊を弔うという厳粛な行為も中々難儀のいることで、厳かに空飛ぶ鳥に運んでもらうためには、その硬くて大きな骨格をちゃんと細かく砕かなければならず、そこから「骨折り損」とか「骨の折れる」という言葉が生まれたという。
死んだら僕も、どこか南の美しい島に灰を撒いてほしいと切に思う。
なだいなださんもエッセーの中で言っていたけれど、暗くてジメジメした土の中にずーっと埋められたままなんて、圧迫感と閉塞感で息が詰まりそうな気がする。
まあ、お墓に入るのは、単に魂の抜け殻でしかないのだとしても、何となく嫌悪感を感じてしまうのだ。
などと、ぼんやり考えていたら、急に映画が観たくなって、ペン・キングズレーとペネロペ・クルスの「エレジー」を部屋で独り観てしまった。
この映画、実は映画館で観たいと思っていたのだが、見逃していたのだ。
原作は、アメリカの作家フィリップ・ロスの「ダイング・アニマル」で、僕は既に読んでいる。
初老の大学教授と、30才以上も年下の女性との切ないラブ・ストーリーである。
ベン・キングズレーが、人生の秋を迎えたその主人公たる孤独な男を演じていて、雨の降っている外を眺めるファースト・シーンで、老いてゆくこと、死んでゆくことについて寂しく独白するのだが、こういう恋愛もかなり苦しいと思う。
ただし、映画自体はそれほどでもなかった。
原作のほうが、数段凄味があった。
・・・そうして僕も、窓から小雨に濡れる夜の街を眺めている。
少し前に、ねぶた運行終了を告げる花火が鳴った。
家の前を、祭りを観終えた観客たちが列をなして歩いて来る。
囃子の音も、太鼓の響きも、ハネトたちの掛け声も今はもう何も聞こえない。
とても静かな雨降る日曜日の夜の街が、この部屋にも戻って来た。
それにしても、いつからだろう。
祭りがやって来ることでの、恍惚感や胸の高まりがまったく無くなってしまったのは・・・。
家から数百メートルも行くと、もうそこは熱狂する祝祭で湧きかえっているはずだ。あいにくの雨にもかかわらず、その異様な熱気は、独りでパソコンを打ちこんでいるこの部屋の中にまで伝わって来る。
時計は夜の8時40分。
あともう少しで、ねぶた祭りの終了を告げる花火がなるだろう。
今日は祭り初日。明日から7日まで夏の火祭りは続いてゆく・・・。
それにしても今日は肌寒かった。
風が冷たく、まるで9月下旬のような涼しさだった。
少し日中は晴れ間もあったけれど、午後からだんだん崩れ出し、夕方からは雨に変わった。本当に、今夏は暑さが感じられない。
午前中のんびり家で過ごし、午後からはスポーツ・ジムで汗を流した。
4キロほど軽く走り、あとは腹筋と胸を厚くするマシンを繰り返した。
ねぶた祭りだからなのか、日曜日の昼下がりのジムはひっそりとしている。いつもなら満杯状態のランニング・マシンも、今日は数人程度が使っているだけだ。
ジムのお風呂に入って汗を流し、どこにも寄らずに帰宅した。
最近、矢沢永吉が頻繁にメディアに露出している。久方振りにニューアルバムを出すことから、そのプロモーション活動の一環らしい。
当然、彼の歌がテレビやラジオでかかるので、そうなると、こっちも古いアルバムを引っ張り出し、改めて聴き直す羽目になる。
そういう訳で、今日も車の中は永ちゃんの曲のオンパレード。やっぱりいいね。
家に帰り、火照った体を鎮めながら、何気なく雑誌を捲っていたら、とても興味ある記事が載っていた。
作家の、なだいなださんのコラムである。
最近とみに多くなっているのが、死んだあと、土の中に埋葬するのではなくて、海上に灰を撒いたり、山の山頂からばら撒いて欲しいという遺言なのだとか。
日本で、墓地などに埋めるという儀式が始まったのは、江戸時代に入ってからで、その昔は、鳥葬さえ執り行われていたらしい。
ただ、鳥についばませて死者の霊を弔うという厳粛な行為も中々難儀のいることで、厳かに空飛ぶ鳥に運んでもらうためには、その硬くて大きな骨格をちゃんと細かく砕かなければならず、そこから「骨折り損」とか「骨の折れる」という言葉が生まれたという。
死んだら僕も、どこか南の美しい島に灰を撒いてほしいと切に思う。
なだいなださんもエッセーの中で言っていたけれど、暗くてジメジメした土の中にずーっと埋められたままなんて、圧迫感と閉塞感で息が詰まりそうな気がする。
まあ、お墓に入るのは、単に魂の抜け殻でしかないのだとしても、何となく嫌悪感を感じてしまうのだ。
などと、ぼんやり考えていたら、急に映画が観たくなって、ペン・キングズレーとペネロペ・クルスの「エレジー」を部屋で独り観てしまった。
この映画、実は映画館で観たいと思っていたのだが、見逃していたのだ。
原作は、アメリカの作家フィリップ・ロスの「ダイング・アニマル」で、僕は既に読んでいる。
初老の大学教授と、30才以上も年下の女性との切ないラブ・ストーリーである。
ベン・キングズレーが、人生の秋を迎えたその主人公たる孤独な男を演じていて、雨の降っている外を眺めるファースト・シーンで、老いてゆくこと、死んでゆくことについて寂しく独白するのだが、こういう恋愛もかなり苦しいと思う。
ただし、映画自体はそれほどでもなかった。
原作のほうが、数段凄味があった。
・・・そうして僕も、窓から小雨に濡れる夜の街を眺めている。
少し前に、ねぶた運行終了を告げる花火が鳴った。
家の前を、祭りを観終えた観客たちが列をなして歩いて来る。
囃子の音も、太鼓の響きも、ハネトたちの掛け声も今はもう何も聞こえない。
とても静かな雨降る日曜日の夜の街が、この部屋にも戻って来た。
それにしても、いつからだろう。
祭りがやって来ることでの、恍惚感や胸の高まりがまったく無くなってしまったのは・・・。