淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

「誰か故郷を想はざる」

2005年06月16日 | Weblog
 若い頃、ずっと東京に憧れていた。
 高校生の時は、アルバイトをして金を貯め、夏休みと冬休みは必ずと言っていいほど東京に行った。板橋と大船と蕨の親戚の家を転々と泊まってあるいた。
 高校を出たら、こんな憂鬱な街は飛び出すのだと、毎日それだけを考えていたのである。
 都会は、僕にとって「約束の地」であった。
 あそこに行ったら、僕は輝くことが出来るという、ただそれだけを想って生きていたのだ。何の根拠もなかったのだけれど。
 僕の中に息づく東京は、いつも快晴で、そこは何故か暖かい空気が漂っている。それから、上手く言えないけれど、恋の匂いも・・・。
 
 寺山修司は、「私は、『東京』という言葉を聞くだけで、胸が熱くなった」と言っている。
 凄く解る気がする。
 でも寺山修司は、東京という街に暮らすと同時に、今度は逆に猛烈な望郷の念に駆られた。それは彼の映画や前衛劇や言葉の隅々に流れている(「戦後60年の透視図ー朝日新聞」)。
 
 僕もそうだったから。
 僕は、東京の板橋区大山という街の8畳の木造モルタル造のアパートの2階に住み、今度は激しい望郷の念に囚われたのである。
 そして毎月のように青森の街に帰った。
 夜の11時30分(だったと思う)の上野発青森行きの最終急行列車に乗り込むのだ。
 車内はがらんとしていて、懐かしい津軽弁が聞こえてきた。僕は、四人掛けの座席を一人で占領して、そこで眠った。いつも荷物は持たなかった。
 青森駅には11時半ごろに着いた。約半日の旅。
 浅虫温泉が見え、高架線を上ると街が覗いた。そこから僕の家が少しだけ見える。
 がらんとした、そしてのんびりとした風景。
 僕は、そこで朝方まで地元の仲間と遊び呆け、金が無くなると、友達の家でアルバイトをし、飽きるとまた東京に戻った。いい加減な生活。
 勿論、学校へはほとんど行かなかった。

 僕は今、青森駅までの道を走っている。ジョギングするために。プラットホームと平行する道路を青函連絡船まで走り、海沿いに抜けるのである。
 今でも時々、胸がきゅんとなる。ここを走るたびに。

 でも、そのまま駅の改札口を抜け、列車に乗り込むことはもうない。
 東京の街は、僕の中で、前よりもずっとずっと遠くなっている・・・。
 

 

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