淳一の「キース・リチャーズになりたいっ!!」

俺好き、映画好き、音楽好き、ゲーム好き。止まったら死ぬ回遊魚・淳一が、酸欠の日々を語りつくす。

俳句はポップ?映画「恋は五・七・五」を観る。

2005年06月02日 | Weblog
 しかし、何て僕はこうも仕事が速いのだろう?
 上司の指示には的確かつ迅速に従い、一切逆らうことをしない。そして、部下には絶えず笑顔で接し、上から降りて来る様々な要求にも、身を挺して守る。
 つまり、上司からも部下からも愛される、素晴らしい人間なのである。
 だから、人より早く仕事を切り上げ、こうしてゆっくりと映画館で映画を観ることが出来る。
 僕は、日本一、いや、ひょっとして世界一の幸せ者なのではないか?

 で、「恋は五・七・五」である。
 監督は、「バーバー吉野」で一躍脚光を浴びた女性監督、荻上直子。つまり、監督としての第二作目ともなる作品だ。
 しかし、これは・・・。ちょっとキツイ。
 全てが類型的・パターン化されているのだ。それを見せられるのはちょっと辛い。

 帰国子女で、日本語の漢字があまり書けない女の子。
 先生の指導もあって、俳句部なる俄仕立てのクラブに入るハメになる。学校が統廃合されてしまう危機に直面している学校は、何でもいいから全国大会なるものに出場して名前を売れと、生徒を煽っている。
 「全国俳句甲子園」なる高校生たちのイベントが開かれることになり、落ちこぼれの男女五人組生徒が、それに向かって奮闘する姿が描かれる。
 よくあるパターン。いわゆる「ジュブナイル」ものである。
 これまでも、「スウィング・ガールズ」とか、「ウォーター・ボーイズ」とか、「ロボコン」とか、この手の映画は、たくさんたくさん創られてきた。
 そして、これまでその手の映画にハズレがほとんどなかったのは、落ちこぼれのエネルギーがいい方向に流れ、そこに一種のカタルシスが生まれたからである。
 つまり「九回裏逆転満塁さよならホームラン」が、映画の中で実現できたからこそ、評価されてきたのだ。
 しかし、この「恋は五・七・五」。酷いくらいに、主役の五人組をステレオ・タイプに描くのだ。ちょっと余りな類型化。
 観ているうちに、爽快感とか面白さとかではなく、描く人物像に腹が立ってくる。
 もう少し凹凸を付けるべきだった。 淳一

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