ピカソは、素晴らしい!という人たちを、私は理解できなかった。
同じような絵を保育園の頃、うちの子も描いていた・・・といつも思っていた。
もちろん、うちの子は、ピカソのようにデッサンできるわけでなし、
絵も描かないし、彫刻も陶器も縁がない。
でも、ピカソの作品を観るたびに、うちの子もこういう絵描いてた・・・子どもの頃。
ピカソ館を歩きながら、3回くらいは、そう思ってしまう私がいることは、間違いない。
つまり、彫刻の森が好きなのは、ピカソ館があるからではない。
大好きなロッソを観たいわけで、ムーアが創り出す空間を感じたいわけで、
ピカソ館には、あまり強い興味を持てなかった。
天邪鬼でもあり、多くの人が絶賛するものをあまり好まなかったりもする。
私は、芝居をあまり観ない。
私は、歌をあまり聴かない。
それは、観るもの、聴くものではなく、
自分が表現する側の人間だからかもしれない。
芝居も出来上がってしまったものには、興味がない。
できれば、稽古を覗きたいと思う。
そんな私は、絵画は描けないし、彫刻は造れない。
だからなのか、鑑賞することができるし、感じることができる。
私なら、こう描きたいとか、こう造りたいという雑念が生まれない。
だから、それらの作品とじっと対峙できるし、その時間が好きだ。
ところがだ、ピカソは、ダメだ。
全く、私の琴線に触れない。
そんな私も、ピカソが造った小さなブロンズ『腕を上げた女』は、好き。
というわけで、ピカソの良さが、ほとんどわからなかった。
今回、初めて、少しだけ、ピカソが、見えた、気がした。
ピカソ館を歩きながら、
大人になって、子どものような絵が描けること、その凄さを感じ、
常に、創造すること、
つまり、その内面を表出させる作業のため、闘い、もがいていることを感じた。
晩年まで精力的に描き続けたその理由は、創造に終わりはないことを教えてくれる。
初めて、少しだけ、ピカソの空気が私の身体を吹き抜けていった。
ピカソが素晴らしいかどうか、まだ、よくわからない。
ただ、ほんの少しだけ、今までと違うピカソが私のそばに佇んでいた。
そんなことを感じた今回の彫刻の森美術館。
良い時間を過ごすことができました。
明日は、少しだけ、写真でもアップするとしましょう。
同じような絵を保育園の頃、うちの子も描いていた・・・といつも思っていた。
もちろん、うちの子は、ピカソのようにデッサンできるわけでなし、
絵も描かないし、彫刻も陶器も縁がない。
でも、ピカソの作品を観るたびに、うちの子もこういう絵描いてた・・・子どもの頃。
ピカソ館を歩きながら、3回くらいは、そう思ってしまう私がいることは、間違いない。
つまり、彫刻の森が好きなのは、ピカソ館があるからではない。
大好きなロッソを観たいわけで、ムーアが創り出す空間を感じたいわけで、
ピカソ館には、あまり強い興味を持てなかった。
天邪鬼でもあり、多くの人が絶賛するものをあまり好まなかったりもする。
私は、芝居をあまり観ない。
私は、歌をあまり聴かない。
それは、観るもの、聴くものではなく、
自分が表現する側の人間だからかもしれない。
芝居も出来上がってしまったものには、興味がない。
できれば、稽古を覗きたいと思う。
そんな私は、絵画は描けないし、彫刻は造れない。
だからなのか、鑑賞することができるし、感じることができる。
私なら、こう描きたいとか、こう造りたいという雑念が生まれない。
だから、それらの作品とじっと対峙できるし、その時間が好きだ。
ところがだ、ピカソは、ダメだ。
全く、私の琴線に触れない。
そんな私も、ピカソが造った小さなブロンズ『腕を上げた女』は、好き。
というわけで、ピカソの良さが、ほとんどわからなかった。
今回、初めて、少しだけ、ピカソが、見えた、気がした。
ピカソ館を歩きながら、
大人になって、子どものような絵が描けること、その凄さを感じ、
常に、創造すること、
つまり、その内面を表出させる作業のため、闘い、もがいていることを感じた。
晩年まで精力的に描き続けたその理由は、創造に終わりはないことを教えてくれる。
初めて、少しだけ、ピカソの空気が私の身体を吹き抜けていった。
ピカソが素晴らしいかどうか、まだ、よくわからない。
ただ、ほんの少しだけ、今までと違うピカソが私のそばに佇んでいた。
そんなことを感じた今回の彫刻の森美術館。
良い時間を過ごすことができました。
明日は、少しだけ、写真でもアップするとしましょう。