CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

少しだけ、ピカソのこと

2016-01-09 09:51:47 | 表現にからむ様々なこと
ピカソは、素晴らしい!という人たちを、私は理解できなかった。
同じような絵を保育園の頃、うちの子も描いていた・・・といつも思っていた。
もちろん、うちの子は、ピカソのようにデッサンできるわけでなし、
絵も描かないし、彫刻も陶器も縁がない。
でも、ピカソの作品を観るたびに、うちの子もこういう絵描いてた・・・子どもの頃。
ピカソ館を歩きながら、3回くらいは、そう思ってしまう私がいることは、間違いない。

つまり、彫刻の森が好きなのは、ピカソ館があるからではない。
大好きなロッソを観たいわけで、ムーアが創り出す空間を感じたいわけで、
ピカソ館には、あまり強い興味を持てなかった。

天邪鬼でもあり、多くの人が絶賛するものをあまり好まなかったりもする。

私は、芝居をあまり観ない。
私は、歌をあまり聴かない。
それは、観るもの、聴くものではなく、
自分が表現する側の人間だからかもしれない。
芝居も出来上がってしまったものには、興味がない。
できれば、稽古を覗きたいと思う。

そんな私は、絵画は描けないし、彫刻は造れない。
だからなのか、鑑賞することができるし、感じることができる。
私なら、こう描きたいとか、こう造りたいという雑念が生まれない。
だから、それらの作品とじっと対峙できるし、その時間が好きだ。

ところがだ、ピカソは、ダメだ。
全く、私の琴線に触れない。
そんな私も、ピカソが造った小さなブロンズ『腕を上げた女』は、好き。
というわけで、ピカソの良さが、ほとんどわからなかった。

今回、初めて、少しだけ、ピカソが、見えた、気がした。

ピカソ館を歩きながら、
大人になって、子どものような絵が描けること、その凄さを感じ、
常に、創造すること、
つまり、その内面を表出させる作業のため、闘い、もがいていることを感じた。
晩年まで精力的に描き続けたその理由は、創造に終わりはないことを教えてくれる。

初めて、少しだけ、ピカソの空気が私の身体を吹き抜けていった。
ピカソが素晴らしいかどうか、まだ、よくわからない。
ただ、ほんの少しだけ、今までと違うピカソが私のそばに佇んでいた。

そんなことを感じた今回の彫刻の森美術館。
良い時間を過ごすことができました。

明日は、少しだけ、写真でもアップするとしましょう。