CuniCoの徒然・・・岩下邦子の独り言

日々の暮らしの中で、立ち止まったり、すれ違ったり。私の中のアレコレを思いつくまま、気の向くまま。

言葉による表現

2012-10-17 08:39:22 | 表現にからむ様々なこと
お掃除をしようと思いながら・・・
昨日から考えていることを先に書き留めておこう。

昨日、司会の原稿のWord入力が終わった。
なんの司会か・・・というと、琵琶の演奏会の司会だ。
司会というよりナレーションに近い。
下手袖の影マイクで、曲ごとの説明をする。
琵琶がたりは、詩吟に似ている。
演奏しながら吟じてゆく。
この言葉が、現代人には、結構わかりづらい。
簡単な内容を演奏前にお伝えするわけだ。

演奏者のみなさんから、お預かりした原稿をWordに入力し直す。
句読点、語尾などを調整し、言葉のチェックをする。
自分で作った原稿を今日は、声に出して繰り返し読んでみる。

文字で表していれば理解できることも、
音(声)にしたときに、わかりにくいことがよくある。
そして、耳で聞いている言葉が理解できないと、脳は少しだけそこで立ち止まる。
すると、全体の意味がつかみづらくなる。

琵琶がたりのナレーション原稿は・・・厄介だ。

例えば、「途次」と書いてある。「とじ」と読む。
平家が都落ちするその道中(途中)という意味で使われている。
文字で見れば、たとえ読み方が分からず読み飛ばしても、意味はなんとなくわかる。
が、これが音になるとそうはいかない。

こういう類が、そこここに出てくるわけだ。
吟じる内容を説明するナレーションが、わかりずらくては意味がない。
ところが、場の雰囲気からいって、話し言葉ではそぐわない。
この塩梅が難しい訳である。

さらに言えば、影マイクの難しさもある。
見えない状態で、言葉を伝えるのは、難易度が少しあがる。
会場の人の反応が見えないこと、自分を見てもらえていないこと。
人間は、言葉を発する(聞く)ときに「音(聴覚)」だけでなく視覚も使う。
大袈裟に言えば、無意識のうちにすべての感覚を総動員している。

だから、昔の「ラジオドラマ」なんて、いや~~~凄い!と思う。

さて、ここで、シャンソン(歌)を唄っているのだから、
歌の言葉についても少しだけ触れておこう。

私は、基本フランス語では唄わない。
基本と書いたのは、モナム~ルとか、ジュテェ~ムとか、
なかにはフランス語の部分もあるからで(笑)
日本語で唄っている。(フランス語が、からっきしわからないだけなんですけど)

ここで、厄介なのは、言葉が音として伝わり、
感情をある程度メロディーが表現しているという「落とし穴」だ。
ナレーションの時とは少し違うのだが、必ず言葉のチェックをする。
何故?  誰に?  悲しいの?   嬉しいの?   怒ってるの?
そして、感情が高ぶった時、それをうちに押し込めて淡々と語ることだってある。
などなど、様々考える。
言葉があるから、メロディがあるからと、そこに頼ると自分の中の真実がなくなる。

現実の中で、表出してくるもの・・・その裏に何があるのか・・・

「言葉」を「表現」として発するものとして、常に試行錯誤している。

そんな私にとって、琵琶の司会の仕事は、とても勉強になっている。

そういえば、私の信頼できる舞台関係者が、私に話してくれた。

「邦子が、シャンソンかぁ。
    吟遊詩人だからね。
      なによりも言葉を大切にするんだよ。
         うまく唄おうなんて考えないでね。」

あっ、家事で筋トレしなくっちゃ(笑)
今日も、楽しい試行錯誤は続きます。