お掃除をしようと思いながら・・・
昨日から考えていることを先に書き留めておこう。
昨日、司会の原稿のWord入力が終わった。
なんの司会か・・・というと、琵琶の演奏会の司会だ。
司会というよりナレーションに近い。
下手袖の影マイクで、曲ごとの説明をする。
琵琶がたりは、詩吟に似ている。
演奏しながら吟じてゆく。
この言葉が、現代人には、結構わかりづらい。
簡単な内容を演奏前にお伝えするわけだ。
演奏者のみなさんから、お預かりした原稿をWordに入力し直す。
句読点、語尾などを調整し、言葉のチェックをする。
自分で作った原稿を今日は、声に出して繰り返し読んでみる。
文字で表していれば理解できることも、
音(声)にしたときに、わかりにくいことがよくある。
そして、耳で聞いている言葉が理解できないと、脳は少しだけそこで立ち止まる。
すると、全体の意味がつかみづらくなる。
琵琶がたりのナレーション原稿は・・・厄介だ。
例えば、「途次」と書いてある。「とじ」と読む。
平家が都落ちするその道中(途中)という意味で使われている。
文字で見れば、たとえ読み方が分からず読み飛ばしても、意味はなんとなくわかる。
が、これが音になるとそうはいかない。
こういう類が、そこここに出てくるわけだ。
吟じる内容を説明するナレーションが、わかりずらくては意味がない。
ところが、場の雰囲気からいって、話し言葉ではそぐわない。
この塩梅が難しい訳である。
さらに言えば、影マイクの難しさもある。
見えない状態で、言葉を伝えるのは、難易度が少しあがる。
会場の人の反応が見えないこと、自分を見てもらえていないこと。
人間は、言葉を発する(聞く)ときに「音(聴覚)」だけでなく視覚も使う。
大袈裟に言えば、無意識のうちにすべての感覚を総動員している。
だから、昔の「ラジオドラマ」なんて、いや~~~凄い!と思う。
さて、ここで、シャンソン(歌)を唄っているのだから、
歌の言葉についても少しだけ触れておこう。
私は、基本フランス語では唄わない。
基本と書いたのは、モナム~ルとか、ジュテェ~ムとか、
なかにはフランス語の部分もあるからで(笑)
日本語で唄っている。(フランス語が、からっきしわからないだけなんですけど)
ここで、厄介なのは、言葉が音として伝わり、
感情をある程度メロディーが表現しているという「落とし穴」だ。
ナレーションの時とは少し違うのだが、必ず言葉のチェックをする。
何故? 誰に? 悲しいの? 嬉しいの? 怒ってるの?
そして、感情が高ぶった時、それをうちに押し込めて淡々と語ることだってある。
などなど、様々考える。
言葉があるから、メロディがあるからと、そこに頼ると自分の中の真実がなくなる。
現実の中で、表出してくるもの・・・その裏に何があるのか・・・
「言葉」を「表現」として発するものとして、常に試行錯誤している。
そんな私にとって、琵琶の司会の仕事は、とても勉強になっている。
そういえば、私の信頼できる舞台関係者が、私に話してくれた。
「邦子が、シャンソンかぁ。
吟遊詩人だからね。
なによりも言葉を大切にするんだよ。
うまく唄おうなんて考えないでね。」
あっ、家事で筋トレしなくっちゃ(笑)
今日も、楽しい試行錯誤は続きます。
昨日から考えていることを先に書き留めておこう。
昨日、司会の原稿のWord入力が終わった。
なんの司会か・・・というと、琵琶の演奏会の司会だ。
司会というよりナレーションに近い。
下手袖の影マイクで、曲ごとの説明をする。
琵琶がたりは、詩吟に似ている。
演奏しながら吟じてゆく。
この言葉が、現代人には、結構わかりづらい。
簡単な内容を演奏前にお伝えするわけだ。
演奏者のみなさんから、お預かりした原稿をWordに入力し直す。
句読点、語尾などを調整し、言葉のチェックをする。
自分で作った原稿を今日は、声に出して繰り返し読んでみる。
文字で表していれば理解できることも、
音(声)にしたときに、わかりにくいことがよくある。
そして、耳で聞いている言葉が理解できないと、脳は少しだけそこで立ち止まる。
すると、全体の意味がつかみづらくなる。
琵琶がたりのナレーション原稿は・・・厄介だ。
例えば、「途次」と書いてある。「とじ」と読む。
平家が都落ちするその道中(途中)という意味で使われている。
文字で見れば、たとえ読み方が分からず読み飛ばしても、意味はなんとなくわかる。
が、これが音になるとそうはいかない。
こういう類が、そこここに出てくるわけだ。
吟じる内容を説明するナレーションが、わかりずらくては意味がない。
ところが、場の雰囲気からいって、話し言葉ではそぐわない。
この塩梅が難しい訳である。
さらに言えば、影マイクの難しさもある。
見えない状態で、言葉を伝えるのは、難易度が少しあがる。
会場の人の反応が見えないこと、自分を見てもらえていないこと。
人間は、言葉を発する(聞く)ときに「音(聴覚)」だけでなく視覚も使う。
大袈裟に言えば、無意識のうちにすべての感覚を総動員している。
だから、昔の「ラジオドラマ」なんて、いや~~~凄い!と思う。
さて、ここで、シャンソン(歌)を唄っているのだから、
歌の言葉についても少しだけ触れておこう。
私は、基本フランス語では唄わない。
基本と書いたのは、モナム~ルとか、ジュテェ~ムとか、
なかにはフランス語の部分もあるからで(笑)
日本語で唄っている。(フランス語が、からっきしわからないだけなんですけど)
ここで、厄介なのは、言葉が音として伝わり、
感情をある程度メロディーが表現しているという「落とし穴」だ。
ナレーションの時とは少し違うのだが、必ず言葉のチェックをする。
何故? 誰に? 悲しいの? 嬉しいの? 怒ってるの?
そして、感情が高ぶった時、それをうちに押し込めて淡々と語ることだってある。
などなど、様々考える。
言葉があるから、メロディがあるからと、そこに頼ると自分の中の真実がなくなる。
現実の中で、表出してくるもの・・・その裏に何があるのか・・・
「言葉」を「表現」として発するものとして、常に試行錯誤している。
そんな私にとって、琵琶の司会の仕事は、とても勉強になっている。
そういえば、私の信頼できる舞台関係者が、私に話してくれた。
「邦子が、シャンソンかぁ。
吟遊詩人だからね。
なによりも言葉を大切にするんだよ。
うまく唄おうなんて考えないでね。」
あっ、家事で筋トレしなくっちゃ(笑)
今日も、楽しい試行錯誤は続きます。