静岡県島田市住の詩人、井上尚美さんから第5詩集『蒲の穂わたに』をご恵投いただいた。
井上さんの詩に初めて出会ったのは丁度一年前、詩誌『穂』第43号掲載の「わたしの庭」(当詩集所収)
であった。次号の43号に発表された「叩く」を当ブログで紹介させてもらったが、その時の印象は構成力
が際立っている作品だということ。
この度の詩集は5章にまとめ上げた全25編の作品が収録されている。
「さみしい癖」
引いていく闇の中に残光を放つ星
を 見つけると少し嬉しい
切っ先の鋭い残月がひとつ
という朝 それも少しだけ嬉しい
目覚めて直ぐ窓を開け今日の気運を占う
それが日常になってしまった さみしい癖
夜明けの匂いが静かに寄せてくる
午前五時 今日は雨
痩せた木々の黒い影がぬらっと立っている
寄り合って何かを密談しているらしい
夜のまんまの庭
訳のわからない腹立たしさが押し寄せてくる
濡れしょぼれた心で台所へ
その時 男の部屋から力の抜けた声がかかる
雨だね しとしと冷たい雨だね
男は女より先にあの影を見ていたのだ
おいしい朝ごはんつくるから 待っていてね
芝居じみた明るい声で おいしいごはんだなんて
今までそんなこと一度も言ったことないのに
小細工はとっくに見破られているだろう
男の切なさを女が透視しているように
五日後男は抗がん剤治療を始める
放っておけば三ヶ月の命
医師が見積もる男の余命
雨脚が強まる
——さあ かかっておいで
腕まくりをして
切れあじ抜群の包丁を握りしめて
今日の前に 立つ
当詩集の冒頭に配された作品。物事を捉える、本質を捉えて表現するということはこういうことか、と思
った。「切れあじ抜群の包丁を握りしめて/今日の前に 立つ」「女」。抗がん剤治療を始める五日前の朝、
何もしなければ余命三ヶ月と宣告されている「男」との心的な交感が短い会話の中で成立している。「ぬめ
らっと立っている」「痩せた木々の黒い影」に気付いているが、口に出すことはない。男が気付いているは
ずだと思うことで今日が始まるのだから。「目覚めて直ぐ窓を開け今日の運気を占う」「日常になってしま
った」「さみしい癖」は、男ががんと診断されてからの癖なのであろうか。
第3連と4連は「女」、つまり妻の心理が見事に活写されている。しめった感情ではなく、からりとした
気丈を表出している。だからこそ逆に、妻の心の揺れが読み手に伝わってくる。独白的な流れを少し距離感
を入れての心情表現。巧さを感じた。
この作品を、そんな勝手な読み方をした。最初に読んだ時の箇条書きのメモは「男、女という書き方をす
ることでの冷静な位置づけ」「ガツンと来る本質表現の巧さ」「物事を直截にではなく全体で表現すること
の構成」「言葉遣いの緩急」「第2連一行目”午後五時”は”午前五時”の誤植か?詩集通りでいいとなると、
時間の隔たりがありすぎて、うまく伝わってこない気がするが」など・・・・。
※第2連一行目”午後五時”は”午前五時”の誤植とご本人から連絡あったので、引用作品も午前に変更した。
代表して「さみしい癖」に触れてみたが、その他では「温泉」「日記」「夢の中で」「窓」「また あし
た」「葉桜の頃」などに心揺らされた。
発 行 2023年10月31日
著 者 井上尚美(いのうえ なおみ)静岡県島田市
日本現代詩人会、静岡県詩人会、静岡県文学連盟の各会員。詩誌『穂』発行人。
第22回白鳥省吾賞最優秀賞受賞
発行所 土曜美術社出版販売
定 価 2,200円(税込み)