日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

使命感なのか

2012年12月17日 | Weblog
大事故や大病で九死に一生を得ると、「自分は生かされた」と云う風に云いますよね。
でも自死しようとしてしくじってしまった時は、そう思わない人も相当います。
元々生きる事を辞めたいと思っていたのだから、何度も繰返してしまったり、生きる屍状態になってしまったり。
勿論そこから生きる事に前向きになれる人もいるのですが、全員丸っと含めて「生かされた」と思うって、どう云う心境なんでしょうか。

私は物凄く根性が悪いので、生きるべき人ならそもそも何も大きな事が起きなくてもいいだろうにとまず思ってしまいます。
トラブルが起きた時、問題はそれが起きた事ではなく起きた事をどうとらえるか、なのだそうです。
だからそれなりの事を起してその後の変化が大事と云うのは分からないでもありませんが、結局生まれる前に決めて来た事が起きている、それだけの事じゃないのとも思います。
「生かされた」と云う人は、世間的にそれなりの影響力のある人、或いはそうなって行く人だよなと思うんですよね。
そうじゃない人は結局死んでしまう。
死して影響を及ぼすと云う人もいますが、九死に一生を得た人がその後に変わって行き、大きく影響を与えるような事をすると云うのはよくある話です。
そう云う人になる為のイベントが九死に一生を得ると云う事、ある種のスイッチなのかなと思えて来ます。

穿った考えかもしれませんが、「生かされた」と云う人って、自信過剰とも云えない事もないなと思います。
必ず自分のなすべき使命と云うのか、そう云うものの為に生き残ったと云う思いを持ち、生きるに相応しい人間である、自分でそう思っていると云う事ですよね。
生まれて来たのだから生きるべくして生まれて来たのだとは思いますが、そこに自分だけの使命感みたいなものを直ぐ結びつけられるって、誰でもそうで、また出来るものなんでしょうか。
ただ単に生きるだけ、そうは思いたくはないでしょうからね。
でも九死に一生を得た人でも、全くそんな風に思えずしんどいまま生きなくてはならない人もいるのが現実。
「生かされた」と喜々として思え、云える人は羨ましいなと思います。