日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

考え方

2013年10月26日 | Weblog
九死に一生を得た場合、生かされたと思うのはありなのかなと思います。
が、死んでしまおうと思ってそう出来なかった時はどうなんだろう。
死ねなかった=生かされた、だからから生きようと思えるんだろうか……。

死なせて貰えないとは思うけれど、それが生かされたからの結果とはちょっと思えません。
生かされたと云う風に変換できる人は、そこから違う人生を生きて行けるのかもしれない。
でも死なせて貰えない意味を、生かされたとはとれない、死んでしまえば楽になるのだから死なせてなるものか、と云う風にしか思えない場合……。

自分で成そうとした事がそうならなかった時、死のうとして死ねなかったと云う時も、見えないものにコントロールされているのではと思う事があります。
自分の責任(と云うと語弊ありですが)ではないと云うか、何処をどう考えてもダメな理由が見当たらないとか。
一生懸命であればあっただけ、コントロールされたと云う思いに支配されます。

でも、コントロールされて望まない結果になったとしても、前を向いて行けるならいいでしょう。
そうはならない時、そこまで見越してコントロールしているのか、コントロールミスなのか、どっちなのでしょう。
人生に無駄はないそうです。
であれば、何もかもが見通された結果なのだろうと思うしかありません。

自分が引き寄せる、人間には自由意思があって何ものも介入できないと云われます。
でも、行く道が違う時は見えない存在が登場して来るらしい。
予定外に死にそうな時もそうならないようすると云うのですが、これって大いに矛盾していると思います。
全く自由意思の尊重なんてされていないと云う事ですよね。
頼まなければ助ける事が出来ないのが見えない存在らしいのですが、自由意思で決めた事が違うとなれば(本人が知らない人生を見えない存在が知っていると云う事になりますがね)手を出して来る。
どう云う事なんでしょう。
結局自由意思と思った事も見えない存在の介入も、何もかも決められた事としか思えないのですが。

自分の人生とか生きていると云う事って、何なんだろうと思います。
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