日々、土器実測(仮)

発掘された遺物の図化作業メインのお仕事ブログのはずが、日々の徒然・スピ話ばっかりになっちゃってる日記。

そんな事云われても

2010年10月28日 | Weblog
今迄何度か、あなたは東京に出て来た方がいんだよね、と云うような事を、スピ関連の方々に云われました。
が、出て行けるならとっくに出て行っている訳で……。
そう出来ない状況で、現状をどう良くするかを知りたいんですけどね。
またあるヒーラー(とは思いたくない人だったけど)からは、住んでいる場所の(県)のエネルギーが重過ぎる
から、必然で住んでいる人もそうなる、だから本当はそう云う場所にいない方がいい、と云うような事も云われた。
が、それって随分とそこに住んでる人に対して失礼な云い分じゃないかと思いました。
んじゃ引っ越せない人はどうしろって云うんだよって話。
こう云う人の思い込みって凄いから、反論しても理不尽にやり込められて不快になるだけ。
2度と会う事がないと思ってテキトーに流してしまいますが、自分に関係ないと思うと、無責任に云いたい事を云う
スピ関連の方は多いです。
でもこの業界の人にこんな事云われたら、云われた方は悩みますよね、だからよくないのかって。
引っ越せる人はいいでしょうが、そう出来ない人が殆どだと思うし、こう云う事ってそうそう簡単に口に出して欲しく
ないのですが、云うんだよねえ、動けば変わるから、とか何とか簡単に。
でも動くきっかけ作り以前の問題のような気がしますが。

乗り越えられない試練しか訪れないとか云う人もいますが、乗り越えられなくて死んじゃった人は人でなし?
乗り越える前に世を儚んじゃって消える人もいる訳ですが、そう云う人は何と云われるのだろう。
この世は学びと云う考え方がありますが、私は全くそうは思いません。
人は神に似せて作られし者、本質は神と一緒と云う考え方がありますが、それで行けば、本来人間の本質は
完璧と云う事になります。
であれば、わざわざ人間になり下がってまで、何を学ぶ必要があるかと云う話です。
神様は知っているけれど経験していないから、経験する為に人間として云々(どうして人間としてかは長くなるので
省きますが)と云われていて、私はこの考えに方になら賛同出来るかなと思います。
学ぶのではなく体験・経験の為に生まれる、そう思えば救われる人も随分といるのでは。
と云っても、目の前にニンジン100本ぶら下がっていても、私は生まれ変わるのだけはもう勘弁して欲しいです。

で、そんな事云われても、と云う話ですが、無理だと思う事を云われてもやってみればいいのか、分かりません、
私には。
劇的に変わるかもしれません、と云うか、変わるでしょうね、いいか悪いかはともかく確実に。
でもそれだけの変化を起こす事がどうしても出来ない事情があっても、やっぱり行動を起こすべきなのか、
起さないから変わらない、変わりたければ無理でもやれと云う事なのか、どうしたらいいんでしょうね。
こう云う事、セラピストやヒーラーに云われると、ホントにどうしていいのか分からなくなります。
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