本当に自信満々でいるのだろうなと云うビックリな表現をする人っていますが、「自分も人間だから完璧ではない云々」と云う云い分にビックリしてしまいました。
これって、周囲から自分が完璧と思われていると云う前提ありきの云い分ですよね。
そうでなければこう云う表現にはならないはず。
凄い、凄過ぎる、この自信、一体何処から来るんだろう。
自慢と自信って紙一重のかなり危ないところで重なり合っているんだなと思えて来ます。
多分こう云うタイプって、自分が原因で何か文句や嫌味を云われている事に対しても、それはあくまでも嫉妬されていると思う口ですよね。
自分じゃ幸せのシェアのつもりでも、結局突き詰めれば自分自慢しか語ってないと云うの、少し敏感に感じる人なら直ぐ分かる事ですが、当の本人が全くそれに気付いていない。
長く虐げられた人や元々が注目されたり人の上に立ちたいと思っている人が急に上手く行き出すと、かなり勘違いな人になってしまう事はよくある話です。
私もろくでもない人生が長いので、この先まかり間違ってよい状態になった時、イキナリ鼻がぐんぐん伸び始めて、今以上に鼻持ちならない人間になってしまうかもと云う情けない恐怖を抱えています。
自分がよくなるときっとそう云うバカになり下がると予測出来ると云うか。
でもよくなる事は絶対ないと思うので、必要のない心配とも云えるかもしれませんが。
沢山の人にメッセージを伝える役目のある人と云うのは、それなりに世間への影響力のある人だと思います。
そうでなければ、どれだけ凄い事を語っていたとしても伝わる人なんて限られているし、何云ってんの?でスルーって事だってある訳で。
その辺の人や自分に縁がある人にだけ伝わればいいと云う事もあるかもしれませんが、結局人の口を通さないと伝わらない事って、どれだけのもんなんだろうと思ってしまいます。
信じる人は救われるそうですから、信じる人だけが信じていればいいのかもしれませんが。
その人にだけ必要な事ですら、何かの介入なくては知る事が出来ない一般人には、どれだけ大事な事でも伝わらない人もいると云う事で、それは淘汰されたと云う事にもなる気がするのですけどね。
よく、そんなつもりで云ってないと云う人がいますが、じゃあどんなつもりで云ったの?と聞きたくなります。
幾ら誤解だと云っても、そう思ってしまう何かがあるからそう受け取られてしまうと思うのですが、受取った側に問題があると云わんばかりの云いよう、ずるいよなと思います。
どんなに私のように捻くれた人だって、何もないところに何か無理矢理作ってまで悪意に捉えるような事はしませんよ。
ってか、そんな無駄な労力、勿体なくて使ってられないって~の。
誰かを傷つけている事に気付かず、自分はいい事だけをしていると信じ、ワクワクうきうき過ごしている人は幸せ街道まっしぐらなんでしょうね。
自分に自覚がない(無神経・無意識どっちも)と云う事は罪悪感なんてものを感じる必要もないし反省する必要もない。
自分を省みると云う事をしなくていい訳で、スピ的にはそう云う人がどんどんよくなるらしいです。
後悔は必要ない事かもしれませんが、反省はマストな事だと思うのですけどね、どんな人にとっても。
人の心に深く関わるのに特別な資格も必要なく、幾らでも自称で出来てしまうのが癒しの仕事。
特にサイキックな能力を活かす時は、効果がなくても文句は云いませんと云うような事を約束させられたり、何か違うと思う事を云われてもキッパリ違うと否定できない雰囲気があったり、何かとクライアントに不利な状態だったりします。
逆に云えば当たれば凄いけれどそうでなければ身も蓋もないとも云える訳で。
基本は感謝されて先生なんて云われる事もあり、自分で設定した額にみんな文句も云わずに支払いをし、余程出来た人でもなければ、自分は特別な存在、偉くなったと勘違いするのも無理はないのかも。
そう云うところだけが余りに人間臭いと云うのも変な感じですけれど、それがサイキックな癒しの仕事をしている人に多い現実だと感じられて仕方ありません。
1人を死ぬほど傷つけても何人かを幸せにすれば、傷つけた事はチャラになるのでしょうか。
こう云う事、一体何処でバランスが取れ、誰がジャッジしているのでしょう。
これって、周囲から自分が完璧と思われていると云う前提ありきの云い分ですよね。
そうでなければこう云う表現にはならないはず。
凄い、凄過ぎる、この自信、一体何処から来るんだろう。
自慢と自信って紙一重のかなり危ないところで重なり合っているんだなと思えて来ます。
多分こう云うタイプって、自分が原因で何か文句や嫌味を云われている事に対しても、それはあくまでも嫉妬されていると思う口ですよね。
自分じゃ幸せのシェアのつもりでも、結局突き詰めれば自分自慢しか語ってないと云うの、少し敏感に感じる人なら直ぐ分かる事ですが、当の本人が全くそれに気付いていない。
長く虐げられた人や元々が注目されたり人の上に立ちたいと思っている人が急に上手く行き出すと、かなり勘違いな人になってしまう事はよくある話です。
私もろくでもない人生が長いので、この先まかり間違ってよい状態になった時、イキナリ鼻がぐんぐん伸び始めて、今以上に鼻持ちならない人間になってしまうかもと云う情けない恐怖を抱えています。
自分がよくなるときっとそう云うバカになり下がると予測出来ると云うか。
でもよくなる事は絶対ないと思うので、必要のない心配とも云えるかもしれませんが。
沢山の人にメッセージを伝える役目のある人と云うのは、それなりに世間への影響力のある人だと思います。
そうでなければ、どれだけ凄い事を語っていたとしても伝わる人なんて限られているし、何云ってんの?でスルーって事だってある訳で。
その辺の人や自分に縁がある人にだけ伝わればいいと云う事もあるかもしれませんが、結局人の口を通さないと伝わらない事って、どれだけのもんなんだろうと思ってしまいます。
信じる人は救われるそうですから、信じる人だけが信じていればいいのかもしれませんが。
その人にだけ必要な事ですら、何かの介入なくては知る事が出来ない一般人には、どれだけ大事な事でも伝わらない人もいると云う事で、それは淘汰されたと云う事にもなる気がするのですけどね。
よく、そんなつもりで云ってないと云う人がいますが、じゃあどんなつもりで云ったの?と聞きたくなります。
幾ら誤解だと云っても、そう思ってしまう何かがあるからそう受け取られてしまうと思うのですが、受取った側に問題があると云わんばかりの云いよう、ずるいよなと思います。
どんなに私のように捻くれた人だって、何もないところに何か無理矢理作ってまで悪意に捉えるような事はしませんよ。
ってか、そんな無駄な労力、勿体なくて使ってられないって~の。
誰かを傷つけている事に気付かず、自分はいい事だけをしていると信じ、ワクワクうきうき過ごしている人は幸せ街道まっしぐらなんでしょうね。
自分に自覚がない(無神経・無意識どっちも)と云う事は罪悪感なんてものを感じる必要もないし反省する必要もない。
自分を省みると云う事をしなくていい訳で、スピ的にはそう云う人がどんどんよくなるらしいです。
後悔は必要ない事かもしれませんが、反省はマストな事だと思うのですけどね、どんな人にとっても。
人の心に深く関わるのに特別な資格も必要なく、幾らでも自称で出来てしまうのが癒しの仕事。
特にサイキックな能力を活かす時は、効果がなくても文句は云いませんと云うような事を約束させられたり、何か違うと思う事を云われてもキッパリ違うと否定できない雰囲気があったり、何かとクライアントに不利な状態だったりします。
逆に云えば当たれば凄いけれどそうでなければ身も蓋もないとも云える訳で。
基本は感謝されて先生なんて云われる事もあり、自分で設定した額にみんな文句も云わずに支払いをし、余程出来た人でもなければ、自分は特別な存在、偉くなったと勘違いするのも無理はないのかも。
そう云うところだけが余りに人間臭いと云うのも変な感じですけれど、それがサイキックな癒しの仕事をしている人に多い現実だと感じられて仕方ありません。
1人を死ぬほど傷つけても何人かを幸せにすれば、傷つけた事はチャラになるのでしょうか。
こう云う事、一体何処でバランスが取れ、誰がジャッジしているのでしょう。