(蓮光寺)
贈正三位最上徳内之墓
「勝海舟と江戸東京(人をあるく)」(樋口雄彦著 吉川弘文館)によれば、蓮光寺に幕臣山口直毅(泉処)の墓があるというので、再度蓮光寺墓地を歩いた。墓地に山口姓の墓石は二つあったが、直毅の墓は確定できなかった。その代わりというわけではないが、最上徳内の墓を紹介しておく。
最上徳内は、出羽国村山郡楯岡村の百姓の家に生まれた。天明元年(1781)、江戸に出て、本多利明らに天文・測量を学んだ。天明五年(1785)、幕府の蝦夷地踏査隊の竿取りとなったのを皮切りに、幕臣として初めて択捉、得撫に渡るなど、文化四年(1807)まで六度にわたり蝦夷地の踏査にあたった。幕吏青島俊蔵の罪に連座して投獄されたが、のち赦され箱館奉行支配調役に進んだ。蝦夷地に渡ること九回。徳内による踏査報告は、幕府の北方政策の決定に重要な役割を果たし、アイヌの社会、風俗を具体的に記しており、非常に貴重な資料となっている。大きな墓標のほかに、透明なケースに囲われた小さな古い墓石も置かれている。
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贈正三位最上徳内之墓
「勝海舟と江戸東京(人をあるく)」(樋口雄彦著 吉川弘文館)によれば、蓮光寺に幕臣山口直毅(泉処)の墓があるというので、再度蓮光寺墓地を歩いた。墓地に山口姓の墓石は二つあったが、直毅の墓は確定できなかった。その代わりというわけではないが、最上徳内の墓を紹介しておく。
最上徳内は、出羽国村山郡楯岡村の百姓の家に生まれた。天明元年(1781)、江戸に出て、本多利明らに天文・測量を学んだ。天明五年(1785)、幕府の蝦夷地踏査隊の竿取りとなったのを皮切りに、幕臣として初めて択捉、得撫に渡るなど、文化四年(1807)まで六度にわたり蝦夷地の踏査にあたった。幕吏青島俊蔵の罪に連座して投獄されたが、のち赦され箱館奉行支配調役に進んだ。蝦夷地に渡ること九回。徳内による踏査報告は、幕府の北方政策の決定に重要な役割を果たし、アイヌの社会、風俗を具体的に記しており、非常に貴重な資料となっている。大きな墓標のほかに、透明なケースに囲われた小さな古い墓石も置かれている。