史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

本駒込 Ⅴ

2016年07月22日 | 東京都
(蓮光寺)


贈正三位最上徳内之墓

 「勝海舟と江戸東京(人をあるく)」(樋口雄彦著 吉川弘文館)によれば、蓮光寺に幕臣山口直毅(泉処)の墓があるというので、再度蓮光寺墓地を歩いた。墓地に山口姓の墓石は二つあったが、直毅の墓は確定できなかった。その代わりというわけではないが、最上徳内の墓を紹介しておく。
 最上徳内は、出羽国村山郡楯岡村の百姓の家に生まれた。天明元年(1781)、江戸に出て、本多利明らに天文・測量を学んだ。天明五年(1785)、幕府の蝦夷地踏査隊の竿取りとなったのを皮切りに、幕臣として初めて択捉、得撫に渡るなど、文化四年(1807)まで六度にわたり蝦夷地の踏査にあたった。幕吏青島俊蔵の罪に連座して投獄されたが、のち赦され箱館奉行支配調役に進んだ。蝦夷地に渡ること九回。徳内による踏査報告は、幕府の北方政策の決定に重要な役割を果たし、アイヌの社会、風俗を具体的に記しており、非常に貴重な資料となっている。大きな墓標のほかに、透明なケースに囲われた小さな古い墓石も置かれている。

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巣鴨 Ⅴ

2016年07月22日 | 東京都
(染井霊園)


巌本善治(左) 若松賤子夫妻の墓

 巌本善治は、旧幕臣の出身。中村正直の同人社や津田仙の学農社に学び、木村熊二から受洗。「女学雑誌」を創刊し、女子教育の振興や廃娼運動などに力を注いだほか、明治十八年(1885)に木村が設立した明治女学校の取締役に就き、後に校長の任を引き継いだ。勝海舟との親交が厚く、聞き書きを「海舟余話」「海舟座談」としてまとめた。【1種イ4号13側】


長華院殿鴨北日成居士(宮本小一墓)

 宮本小一(1836~1916)は、維新前、神奈川奉行支配組頭勤方を務めた。維新後は元老院議官、貴族院議員など。【1種イ3号16側】


高村氏 先祖代々之墓
(高村光雲・光太郎・智恵子の墓)

 高村光雲、光太郎とその妻智恵子の墓である。
 高村光雲は、嘉永五年(1852)、江戸に生まれた。従来の木彫に洋風彫刻の写実性を導入した。代表作に「楠木正成像」「西郷隆盛像」がある。昭和九年(1934)没。
光太郎は光雲の長男。彫刻家として活躍するが、むしろ彼の名声を高めたのは詩人としての活動であろう。中でも「智恵子抄」は光太郎の名を不動のものにした。昭和三十一年(1956)死去。

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四ツ木

2016年07月22日 | 東京都
(浄光寺)
 浄光寺は、大正時代まで現在地から西北に六百メートルほど離れた場所にあった。勝海舟もたびたびこの寺を訪れ、かつて西郷隆盛留魂碑をこの境内に建てたと伝われる(最初の建立地については、洗足池の勝海舟の墓の近くに建てられた説明によれば、四ツ木の薬妙寺とされているが、薬妙寺は現存しておらず、浄光寺の方が正解か)。


淨光寺


登美之松

 「登美の松」は三代将軍家光が手植えしたといわれる。碑の正面は勝海舟の筆。裏面の関口隆正とは、初代静岡県知事関口隆吉の養子。


風折烏帽子の碑

 風折烏帽子の碑は、山田顕義が作詞したという小唄で、この碑は山田顕義の死後、親交のあった加藤ひな子によって建立されたものである。この石碑の右手の「空斎山田伯遺墨建設者」の碑には、建立に協力した各界名士の名前が連ねられている。


加藤ひな子の碑

 加藤ひな子は帝国劇場女優養成所副所長に就いたが、明治四十二年(1909)、演劇を学ぶために外遊中、アメリカ・ボストンで客死した。加藤ひな子の碑は、ひな子の三回忌にあたって、福沢桃介、川上貞奴らによって建てられたものである。

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日暮里 ⅡⅩⅢ

2016年07月22日 | 東京都
(谷中霊園 つづき)



石川潮叟之墓

 石川潮叟は、勘定奉行、外国奉行支配組頭などをつとめた幕臣で、勝海舟とは男谷信友門下の剣術の相弟子であり、朝川善庵にともに漢学を学んだ仲でもあった。維新後は静岡からの上京、就職を巡って仲違いし、会わなかったというが、海舟編纂の「吹塵録」には資料提供者の一人として名前が挙げられている。明治十三年(1880)十月二十三日歿。墓石には「友人海舟勝安芳書」と彫られている。【甲2号11側】


田口氏之墓(田口卯吉墓)

 田口卯吉は旧幕臣の子で、「東京経済雑誌」を主宰した経済評論家、歴史学者。姉鐙子は木村熊二の妻で、夫とともに明治女学校を設立した教育者であった。【乙7号6側】

 この日は、勝海舟が江戸城総攻撃の前夜、江戸の治安維持と焦土作戦の実行時の避難民の脱出支援を依頼したのが成川尚義である。成川尚義の墓を探して「乙5号1側」を歩いたが、見つけられず。無縁墓として処分されてしまったのだろうか。

(妙円寺)


妙円寺

 妙円寺の無縁墓石を集めた一番奥に伴鐡太郎の墓石がある。辛うじて「伴」という文字が見える。


伴鐡太郎の墓

 伴鐡太郎は、長崎海軍伝習所の第二期生として、安政三年(1856)長崎に赴き、約三年間、海軍術を学んだ。安政五年(1858)、咸臨丸に乗船して江戸に帰り、築地の軍艦操練所教授となった。万延元年(1860)、遣米使節とともに海軍士官として咸臨丸に乗り組み、米国に渡った。帰国後は、文久元年(1861)、軍艦頭取に進み、元治元年(1864)、開成所取締役を兼任した。さらに幕府海軍において軍艦頭並やイギリス海軍伝習掛等を歴任した。維新後は沼津兵学校一等教授や海軍省水路局副長などを務め、海軍大佐に任じられた。明治三十五年(1902)没。

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墨田 Ⅳ

2016年06月04日 | 東京都
(言問小学校)


依田學海旧居跡

 久しぶりに言問小学校を訪ねると、成島柳北旧居跡の隣に依田學海旧居跡を示す説明板が置かれていた。
 依田學海(1834~1909)は佐倉藩士。藩校成徳書院で漢学を学び教授となった。後に江戸藩邸留守居役などの重職を務め、維新後は東京会議所の書記官、文部省勤務に出仕し、漢文教科書の編集に携わった。五十三歳で退官し、その後は創作や文芸評論に力を注いだ。森鴎外の師としても知られ、「ヰタ・セクスアリス」の中では文淵先生として登場している。向島の隅田川の土手を臨む辺り(現・言問小学校辺り)に居を構え、若い妻と幸せな日々を送っていたと書かれている(実際は妾宅であったが、若い鴎外は気づかなかった)。鴎外十五歳のことであったが、その後も二人の交流は続き、鴎外のドイツ留学に際しては送別の漢詩を贈っている。學海が五十年以上にわたって書き続けた日記「學海目録」には多くの文化人との交流が記され、明治文化史の貴重な資料となっている。

(山本や)


山本や

 毎年、花見のシーズンになると賑わいを見せる隅田川の桜は、享保二年(1717)、八代将軍吉宗の命によって植樹が始められたのがその起源である。その後も多くの人の尽力によって植樹が続けられ、完成を見たのは明治十六年(1883)のことである。
 有名な長命寺の桜もちは、銚子出身の山本新六によって創業された。隅田川の花見に多くの人が集まるのをみた新六が考案したのが名物「桜もち」である。
 「山本や」(墨田区向島5‐1‐14)は美貌の看板娘を輩出することで有名で、特に二代・金五郎の娘おとよは、田安家当主徳川慶頼(松平春嶽の異母弟)と時の筆頭老中阿部正弘が争ったというほどの美貌であった。結局、軍配は容姿端麗な阿部正弘にあがった。阿部正弘は三十九歳の若さで亡くなったため、二人の生活は僅か二年で終止符を打ったが、当時から阿部の急死については、「若い妾を寵愛するあまり腎虚になった」との噂があった。維新後おとよは「山本や」に戻り、大正の世まで生きた。
 その後も「山本や」の姉妹がオランダ公使と書記官に見初められてその愛妾となったとか、維新後もオランダ公使が「山本や」の看板娘に一目惚れし、三条実美や岩倉具視らが説得してようやく承諾したとか、「山本や」には美人伝説が残る(「江戸東京幕末維新グルメ」三澤敏博著 竹書房)。
 ちょっと期待して店内に入ったが、二人の老女がせわしなく働いているだけであった。


長命寺の桜もち
ウマイ!


 向島界隈には維新後、森鴎外や正岡子規ら多くの文人が居住した。彼らの旧居跡を巡れば楽しい散策ルートになるだろう。最近になって向島町おこしの会が各所に観光案内板を設置し、まさにそのルートが整備されることになった。


三浦乾也旧居・窯跡

 「山本や」の隣接地は三浦乾也の旧居・窯跡である。
 三浦乾也(けんや)は、若くして乾山焼六代を襲名。陶芸家としての道を歩む一方、谷文晁に絵を習い、小川破笠が編み出した破笠細工の蒔絵も学び、彫刻も手掛けた、多芸多才の士であった。嘉永六年(1853)の黒船来航に驚愕した乾也は、幕府に造艦を建白し、雄藩にもその必要性を説き回った。これが認められ、安政元年(1854)、勝海舟とともに長崎で建造技術の習得を命じられ、伝習所に赴いた。安政三年(1856)、仙台藩に造艦惣棟梁として招聘され、洋式軍艦「開成丸」を進水させ、一躍名を知られるところとなった。この功業により厚遇され、同藩には万延元年(1860)まで滞在した。この間、焼物の技術も伝授し、地元の陶工にも影響を与えた。明治に入って居を東京に移し、近県で創窯、焼物の復興に努めた。明治八年(1875)、五十四歳のとき向島長命寺に移り、境内の一隅に築窯し、創作に励んだ。

(ライオンズマンション言問)


榎本武揚旧居跡

 ライオンズマンション言問(墨田区向島5‐12‐14)辺りは、明治三十八年(1905)から明治四十一年(1908)、七十三歳で亡くなるまでの最晩年、榎本武揚が住んでいた旧居の跡である。墨堤を馬で毎日散歩する姿が見られたという。この間、墨堤植桜之碑や牛嶋小学校の篆額に揮毫している。


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北千住 Ⅱ

2016年06月04日 | 東京都
(千住宮元町)


千葉灸治院跡

 千住宮元町の交差点の北東側の駐車場にNPO法人千住普及協会の設置した説明書がある(足立区千住仲町1‐1)。
 説明によれば、坂本龍馬の婚約者千葉佐那が千住中組(現・千住仲町)に明治十九年(1886)からこの地で過ごしたという。佐那はこの地で千葉灸治院を開業していた。同説明によれば、「龍馬の死を知った後も龍馬の事を想い続け、一生独身で過ごしたと伝えられている」とあるが、歴史研究家のあさくらゆう氏によれば、明治七年(1875)に元鳥取藩士山口菊次郎と結婚し、約十年後に離婚したという。


千葉灸治院古写真

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高円寺 Ⅴ

2016年05月27日 | 東京都
(宗延寺)


宗延寺

 宗延寺は、天正年間に小田原城下で開創されたといわれる。天正十九年(1591)、江戸に移り、下谷車坂(現・台東区東上野)の地に寺地を賜り、江戸中期には塔頭五坊をおく大寺に発展したといわれる。維新後、火災などで本堂、客殿、庫裡を失い、大正八年(1919)、区画整理のため現在地に移転した(杉並区堀ノ内3‐52‐19)。


穀里馬場先生之墓

 宗延寺墓地に蘭学者馬場穀里の墓がある。宗延寺墓地は、宗延寺の境内から少し離れた場所にある。この墓地さえみつかれば、馬場穀里の墓はすぐ分かる。
 馬場穀里は、天明七年(1787)、長崎の生まれ。父は和蘭陀通詞栖谷馬場敬平。佐十郎と称し、穀里は雅号である。オランダ語を志筑忠雄(中野柳圃)に学んだ。文化五年(1808)、天文方に地誌御用の一局が設けられると、江戸に招請され、世界地図編纂の調査にあたった。文化八年(1811)には「厚生新編」の訳述にあたるなど西洋学術書の翻訳に従事した。文化十年(1813)、魯西亜辞書取扱取調掛となり、松前に拘束されていたロシア人ゴローニンからロシア語を学んだ。また、文化十一年(1814)には師・柳圃のオランダ文法書を改編し、オランダ文法の基礎を築いた。文政五年(1822)、三十六歳で亡くなったが、短い生涯にかかわらず多くの著書、訳書を残した。

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外苑前 Ⅱ

2016年05月27日 | 東京都
(青山熊野神社)


青山熊野神社

 青山熊野神社は、もと紀州徳川家の屋敷内(現在、赤坂御所)にあったもので、正保元年(1644)現在地に移遷したものである(渋谷区神宮前2‐2‐22)。

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水天宮前 Ⅲ

2016年05月27日 | 東京都
(水天宮)


水天宮

 安産や子授けの神として庶民の尊崇を集める水天宮は、久留米有馬家の上屋敷に勧請された邸内社で、維新後一時赤坂に移ったが、明治五年(1872)に現在地に移転した(中央区日本橋蛎殻町2‐4‐1)。長らく改修工事中であったが、この春(平成二十八年四月)、新しい社殿や神札所、待合室が完成した。これまで戌の日には境内を取り囲むように行列ができていたらしいが、快適な待合室が整備され、利用者には有り難い改善であろう。ただし、長い歴史は感じられない。

(有馬小学校)


有馬小学校

 現在、有馬小学校周辺が久留米藩邸跡地である(中央区蛎殼町2‐10‐23)。隣接する蛎殻町公園前に近くで発掘された大名庭園で景石として使用されていた石が置かれている。出土した場所から、伊予大洲藩加藤家の屋敷のものと推定されている。


大名庭園の景石
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芝公園 Ⅳ

2016年05月21日 | 東京都
(日本女子会館)


和宮像

 「銅像歴史散歩」(墨威宏著 ちくま新書)によれば、芝の日本女子会館に和宮像があるという。事前に日本女子会館に連絡をしておけば、見学させてもらえる。昼休みに日本女子会館まで往復して、和宮像を拝見してきた。
 この和宮像は、神戸の篤志家で、県会議員なども務めた中村直吉氏が、日本女子会館の創立時に寄贈したものである。日本で最初の宿泊を伴う女子の研修施設として日本女子会館が建てられたのは戦前昭和十二年(1937)のことであるが、その後昭和四十九年(1974)に現在の建物に建て替えられた。その際に和宮像は移設され、現在も事務所に置かれている。
 中村直吉氏は二宮尊徳を尊崇しており、神戸周辺で三十体以上もの二宮尊徳像を寄付したという。和宮像も「日本女性の鑑」として数体が作成され、そのうちの一つが日本女子会館に寄贈されたということらしい。

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