(嘉家作)
和歌山市北郊の嘉家作(かやつくり)は、城下町の出入り口にあたり、交通の要衝になっていた。今は見る影もないが、それでも古い家屋が何軒か残っているのが嬉しい。
嘉家作り丁
春泉堂跡
春泉堂は、藩政時代青物御納屋通称“おん善”こと村橋善平の別邸であった。藩公が岩出や粉河の別館にお成りの際に度々ここで休憩をとった。本願寺門跡や堂上公卿諸侯が紀州へ出府の際にも立ち寄ることが通例となっていた。
廃藩置県後、この屋敷は津田出の手に渡り、津田出が上京した後は、出の実弟にして初代和歌山県令津田正臣が住んだ。
津田出は、藩の蘭学教授として経済政事を講義し、御小姓に取り立てられた。一時、御用取次、国政改革制度調総裁に任命されたが、征長に反対したため退けられた。明治元年(1868)九月、藩執政に登用され、藩政改革に乗り出す。翌年には和歌山藩大参事となり、明治維新の原型となる改革を実施した。特に全国に先駆けて徴兵制を導入し、ドイツの士官によって近代的な軍事教練を実施した。明治新政府の注目するところとなり、廃藩置県ののち、大蔵少輔にとりたてられた。ついで陸軍省に転じ、少将に任じられた。明治二十三年(1890)には貴族院議員に勅選された。明治三十八年(1905)年七十四で没。
津田正臣は、出の実弟。御三家の藩士でありながら尊王思想を有していた。和歌山県が生まれた時に参事に就任、まもなく権令に昇任した。明治二十九年(1896)年五十六で没。
和歌山市北郊の嘉家作(かやつくり)は、城下町の出入り口にあたり、交通の要衝になっていた。今は見る影もないが、それでも古い家屋が何軒か残っているのが嬉しい。
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嘉家作り丁
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春泉堂跡
春泉堂は、藩政時代青物御納屋通称“おん善”こと村橋善平の別邸であった。藩公が岩出や粉河の別館にお成りの際に度々ここで休憩をとった。本願寺門跡や堂上公卿諸侯が紀州へ出府の際にも立ち寄ることが通例となっていた。
廃藩置県後、この屋敷は津田出の手に渡り、津田出が上京した後は、出の実弟にして初代和歌山県令津田正臣が住んだ。
津田出は、藩の蘭学教授として経済政事を講義し、御小姓に取り立てられた。一時、御用取次、国政改革制度調総裁に任命されたが、征長に反対したため退けられた。明治元年(1868)九月、藩執政に登用され、藩政改革に乗り出す。翌年には和歌山藩大参事となり、明治維新の原型となる改革を実施した。特に全国に先駆けて徴兵制を導入し、ドイツの士官によって近代的な軍事教練を実施した。明治新政府の注目するところとなり、廃藩置県ののち、大蔵少輔にとりたてられた。ついで陸軍省に転じ、少将に任じられた。明治二十三年(1890)には貴族院議員に勅選された。明治三十八年(1905)年七十四で没。
津田正臣は、出の実弟。御三家の藩士でありながら尊王思想を有していた。和歌山県が生まれた時に参事に就任、まもなく権令に昇任した。明治二十九年(1896)年五十六で没。