史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

和歌山 Ⅲ

2011年01月15日 | 和歌山県
(嘉家作)

 和歌山市北郊の嘉家作(かやつくり)は、城下町の出入り口にあたり、交通の要衝になっていた。今は見る影もないが、それでも古い家屋が何軒か残っているのが嬉しい。


嘉家作り丁


春泉堂跡

 春泉堂は、藩政時代青物御納屋通称“おん善”こと村橋善平の別邸であった。藩公が岩出や粉河の別館にお成りの際に度々ここで休憩をとった。本願寺門跡や堂上公卿諸侯が紀州へ出府の際にも立ち寄ることが通例となっていた。
 廃藩置県後、この屋敷は津田出の手に渡り、津田出が上京した後は、出の実弟にして初代和歌山県令津田正臣が住んだ。

 津田出は、藩の蘭学教授として経済政事を講義し、御小姓に取り立てられた。一時、御用取次、国政改革制度調総裁に任命されたが、征長に反対したため退けられた。明治元年(1868)九月、藩執政に登用され、藩政改革に乗り出す。翌年には和歌山藩大参事となり、明治維新の原型となる改革を実施した。特に全国に先駆けて徴兵制を導入し、ドイツの士官によって近代的な軍事教練を実施した。明治新政府の注目するところとなり、廃藩置県ののち、大蔵少輔にとりたてられた。ついで陸軍省に転じ、少将に任じられた。明治二十三年(1890)には貴族院議員に勅選された。明治三十八年(1905)年七十四で没。
 津田正臣は、出の実弟。御三家の藩士でありながら尊王思想を有していた。和歌山県が生まれた時に参事に就任、まもなく権令に昇任した。明治二十九年(1896)年五十六で没。

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和歌山 Ⅱ

2010年02月02日 | 和歌山県
(海善寺)


海善寺

 海善寺には、国学者にして歌人加納諸平(もろひら)の墓がある。


加納諸平墓

 加納諸平(もろへい)は、文化三年(1806)、遠江国白須賀にて生まれた。父は国学者夏目甕麿。文政二年(1819)和歌山に移り、天保二年(1831)以降、和歌山藩の命により「紀伊風土記新撰」の編纂に関わった。その後も歌集の編纂、藩の国学所総裁などに尽した。安政四年(1857)、五十二歳にて没した。門下から、飯田年平、伴林光平ら尊攘派歌人を輩出している。

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粉河

2010年02月02日 | 和歌山県
(粉河寺)
 週明けに新居浜出張が入ったので、金曜日の夜、大阪に移動して、高槻の実家を拠点に近畿の史跡を回ることにした。初日は、和歌山県の粉河(紀の川市)、和歌山、山中渓(阪南市)、古市(羽曳野市)を、二日目に箕面と京都市内を精力的に探索した。さて、週明けに新居浜に移動しようというときに、悪寒に襲われ、高熱と嘔吐で動けなくなった。結局、新居浜出張は取り止めとなり、両親からは
「高槻に病気療養に来たのか」
と揶揄される始末。夜間診療の医者の診断によれば、ウィルス性の胃腸炎ということであったが、本当にひどい目に遭った。新居浜に行かずに、すごすごと東京に引き返すことになったが、当初計画した史跡をほぼ全て回ることができたのはせめてもの収穫であった。


粉河寺大門

 粉河は、和歌山で和歌山線に乗り換えて三十分。高槻の実家から、途中特急を利用しても、片道三時間強という時間距離である。
 粉河の駅を降りて、北側に真っ直ぐ歩くと十分ほどで朱塗りの大門が見える。ここは粉河寺の玄関に過ぎない。更に歩を進めると、天保三年(1832)に建立された中門に至る。粉河寺は、天正十三年(1585)豊臣秀吉の起こした兵乱により伽藍と寺宝を焼失したが、江戸期を通じて紀州徳川家の厚い庇護を受けて繁栄を誇った。


粉河寺本堂


粉河寺庭園


阿弥陀如来座像

尊攘浪士に命を狙われた絵師冷泉為恭は、粉河寺に潜伏した。為恭が潜居したのは、阿弥陀如来像の背後にある御池坊の庭園であるが、残念ながらこの庭園は非公開であった。

(九頭神社)
 粉河に潜伏したのは、冷泉為恭だけではない。吉田松陰、梅田雲濵、頼三樹三郎とも親交のあった森田節斎も、門下から乾十郎、原田亀太郎ら、天誅組の乱の首謀者を出したことから、幕府から追われることになり粉河荒見に身を隠した。


紀の川

 粉河駅から南に向かう。紀の川を渡れば荒見の集落である。
 実はここから森田節斎の墓まで行き着くのが苦難の道のりであった。一人の老人に尋ねると
「儂も探してるんだけど、分からないんじゃよ。九頭神社に石碑が建っているけどな。」
というので、取り敢えず九頭神社への道程を教えてもらった。地元の人でも分からないということから、この時点でかなりの難易度が予想された。
 老人のいうように、言われた道をまっすぐ行って、突き当たりを右に折れると神社の鳥居が現れた。この神社の境内に森田節斎の顕彰碑が建てられている。


節斎森田先生之碑

 石碑の前に、節斎の墓への簡単な地図があるが、これが当てにならない。ここから節斎の墓へ、尋ねるにも道に人影無く、ひたすら己の勘だけを頼りに探すしかなかった。これまで経験した中でも三本の指に入る難易度であった。

(北家墓地)
 森田節斎の墓は、彼が身を潜めた北家の墓地内にある。森田節斎は、北長左衛門の家で世話になりながら、簡塾という塾を開いて近所の子弟の教育に当たった。この墓は、門人の一人北淳太郎が建てたもので、中央に妻無弦、向かって右には長男司馬太郎の墓が並べられている。


森田節斎先生墓(左)
無弦墓(中)
森田司馬太郎墓(右)

 節斎は、慶応四年(1867)七月、この地で息を引き取った。年五十八。


北淳太郎墓

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