(花岡山)
今や花岡山と言えば、熊本ではエッチのメッカとなっている。山頂に至る道にはラブホテルが林立しており、山頂駐車場ではカップルが夜の更けるのを待っているのである。
中腹に官軍墓地がある。熊本には官軍墓地が多い。花岡山の官軍墓地には神風連の乱で戦死した霊が眠っている。神風連の乱で血祭りに上げられた鎮台司令長官種田政明、県令安岡良亮らの墓が並ぶ。安岡は土佐の人。当時熊本(肥後)には、神風連の乱を起こした敬神党の他、学校党、実学党、民権党などが乱立しており、慰撫に苦慮していた。敬神党の連中に対しては神職に就かせるなどの優遇を図ったが、結局彼らはちっともそんなことを恩に着ていなかったということなのである。
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招魂社
殉難警察官・県吏の碑
花岡山山頂に至る道の途中に明治維新の肥後藩出身犠牲者を祀る招魂社がある。その敷地に殉難警察官、県吏の碑がある。明治九年(1876)十月二十四日発生した神風連の暴動の際、襲撃を受けた警察官は応戦したが多勢に無勢のため敵刃に斃れた。殉難警察官を顕彰する石碑である。
陸軍少将正五位種田政明之墓
種田政明は天保八年(1837)、鹿児島城下高麗町に生まれた。文久二年(1862)京都において中川宮付の守衛となり、そのかたわら諸藩の志士と交わった。慶応四年(1868)正月、戊辰戦争では本営付きを命じられ、宇都宮において薩摩藩六番隊長となり、白河・会津に転戦して功があった。明治二年(1869)、藩の常備隊二番大隊長、明治四年(1871)、兵部省出仕、翌年陸軍少丞に任じられた。ついで同六年(1873)、陸軍少将、東京鎮台長官に任じられ、翌年天長節諸隊分列式天覧の折、総指揮官を命じられた。明治八年(1875)には特命全権弁理大臣黒田清隆の韓国派遣に随行。のち熊本鎮台長官となったが、在任中神風連の乱により居宅を襲われ落命した。年四十。
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熊本縣令正五位安岡良亮墓
安岡良亮は、文政八年(1825)土佐中村に生まれた。壮年時には弓術、馬術、刀槍、砲術、文学、古学等を学んだ。文久・元治の頃、樋口真吉に従って国事に奔走し、慶応三年(1867)、薩土盟約の締結に参画した。慶応四年(1868)戊辰戦争に出征し、捕縛された近藤勇を斬罪に処した。新政府に仕え、明治二年(1869)、弾正少忠、同大忠、さらに集議員判官、民部少丞を歴任し、高崎県大参事、群馬県権参事、同参事、度会県参事を経て、明治六年(1873)白川県(のち熊本県と改称)権令、明治八年(1875)県令に進んだ。就任後、太田黒伴雄ら神風連の人心掌握に努め、佐賀の乱に際しては熊本士族の動揺を鎮めるなど良政を施したが、明治九年(1876)神風連の挙兵に当たり殺害された。年五十二。
乃木氏恒子之墓
安岡良亮の墓の近くに、乃木恒子の墓がある。明治十八年(1885)熊本に赴任した乃木希典は長女恒子を得るが、生後わずか三か月で夭折した。
花岡山官軍墓地
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明治九年神風連之変
軍官民戦死者追福碑
薩軍砲座の址
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薩軍砲台跡から熊本城を望む
官軍墓地に隣接して薩軍砲台跡がある。ここから熊本城を砲撃した。掲載した写真はここから熊本城を撮影したもの。
仏舎利塔
花岡山の山頂には仏舎利塔があるが、その南側の少し小高い丘の上に熊本バンド奉教の碑が建てられている。我が国のキリスト教プロテスタント教会の歴史には、内村鑑三を中心とした札幌バンド、植村正久を中心とした横浜バンドと熊本バンドの三源流がある。熊本バンドは、同志社の宣教師が、熊本から来た青年たちを「熊本のグループ」という意味を込めて呼び始めたことから用いられるようになった。彼らは明治四年(1871)に設立された熊本洋学校で、アメリカ退役軍人ジェーンズ教師の感化によってキリスト教を受け入れた。彼らはその思いを「奉教趣意書」という文章にまとめ、これに署名した三十五人と後に仲間に加わった者で、その大部分が創立直後の同志社に転校卒業し、同志社のみならず、日本の近代市民社会形成に大きな貢献を残した。
「奉教趣意書」は明治九年(1876)一月三十日、花岡山で行われた祈祷会で朗読され、署名された。この「奉教の碑」は同志社創立九十年に寄贈され、昭和四十年(1965)に建立されたものである。
熊本バンド 奉教之碑
(安国寺)
安国寺の境内には四基の慰霊塔が建っている。その中の一つが小倉戦死各霊の墳墓である。
安国寺
小倉戦死各霊之墳