史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

熊本 花園 Ⅱ

2017年04月01日 | 熊本県
(鳴岩の湧水)


鳴岩の湧水

明治九年(1876)十月三十一日の夕刻、再挙に望みをかける敬神党の五名は、柿原の地に匿ってくれていた大矢野源水と協議の結果、再挙の見込みはないと判断し、鳴岩(なりわ)で潔く腹を斬ることに合意すると、鳴岩からほど近い大矢野宅にて決別の宴を開いた。
酒肴がふるまわれた席上、その中のひとり樹下一雄は「切腹の時に食べたものが腹から出ては見苦しい」といって丁重に食事を断ったという。それを聞いた楢崎楯雄は「では自分は立派に食い納めて見せよう」と食事し、各々が朗らかに最後の時を過ごし、大矢野氏に厚く御礼を申し述べると、五名はこの地に赴き、悠然と自刃を遂げた。


敬神党五士自刃遺蹟

 この地で自刃したのは以下の五名である。

 樹下一雄 二十五歳 六嘉神社(嘉島町)神官
 楢崎楯雄 二十六歳
 椋梨武毎(たけとし) 二十六歳
 織田寿治(すみはる) 二十歳
 井村波平 三十五歳

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熊本 横手 Ⅱ

2017年04月01日 | 熊本県
(花岡山)
今や花岡山と言えば、熊本ではエッチのメッカとなっている。山頂に至る道にはラブホテルが林立しており、山頂駐車場ではカップルが夜の更けるのを待っているのである。

中腹に官軍墓地がある。熊本には官軍墓地が多い。花岡山の官軍墓地には神風連の乱で戦死した霊が眠っている。神風連の乱で血祭りに上げられた鎮台司令長官種田政明、県令安岡良亮らの墓が並ぶ。安岡は土佐の人。当時熊本(肥後)には、神風連の乱を起こした敬神党の他、学校党、実学党、民権党などが乱立しており、慰撫に苦慮していた。敬神党の連中に対しては神職に就かせるなどの優遇を図ったが、結局彼らはちっともそんなことを恩に着ていなかったということなのである。


招魂社


殉難警察官・県吏の碑

 花岡山山頂に至る道の途中に明治維新の肥後藩出身犠牲者を祀る招魂社がある。その敷地に殉難警察官、県吏の碑がある。明治九年(1876)十月二十四日発生した神風連の暴動の際、襲撃を受けた警察官は応戦したが多勢に無勢のため敵刃に斃れた。殉難警察官を顕彰する石碑である。


陸軍少将正五位種田政明之墓

 種田政明は天保八年(1837)、鹿児島城下高麗町に生まれた。文久二年(1862)京都において中川宮付の守衛となり、そのかたわら諸藩の志士と交わった。慶応四年(1868)正月、戊辰戦争では本営付きを命じられ、宇都宮において薩摩藩六番隊長となり、白河・会津に転戦して功があった。明治二年(1869)、藩の常備隊二番大隊長、明治四年(1871)、兵部省出仕、翌年陸軍少丞に任じられた。ついで同六年(1873)、陸軍少将、東京鎮台長官に任じられ、翌年天長節諸隊分列式天覧の折、総指揮官を命じられた。明治八年(1875)には特命全権弁理大臣黒田清隆の韓国派遣に随行。のち熊本鎮台長官となったが、在任中神風連の乱により居宅を襲われ落命した。年四十。


熊本縣令正五位安岡良亮墓

 安岡良亮は、文政八年(1825)土佐中村に生まれた。壮年時には弓術、馬術、刀槍、砲術、文学、古学等を学んだ。文久・元治の頃、樋口真吉に従って国事に奔走し、慶応三年(1867)、薩土盟約の締結に参画した。慶応四年(1868)戊辰戦争に出征し、捕縛された近藤勇を斬罪に処した。新政府に仕え、明治二年(1869)、弾正少忠、同大忠、さらに集議員判官、民部少丞を歴任し、高崎県大参事、群馬県権参事、同参事、度会県参事を経て、明治六年(1873)白川県(のち熊本県と改称)権令、明治八年(1875)県令に進んだ。就任後、太田黒伴雄ら神風連の人心掌握に努め、佐賀の乱に際しては熊本士族の動揺を鎮めるなど良政を施したが、明治九年(1876)神風連の挙兵に当たり殺害された。年五十二。


乃木氏恒子之墓

 安岡良亮の墓の近くに、乃木恒子の墓がある。明治十八年(1885)熊本に赴任した乃木希典は長女恒子を得るが、生後わずか三か月で夭折した。


花岡山官軍墓地


明治九年神風連之変
軍官民戦死者追福碑


薩軍砲座の址


薩軍砲台跡から熊本城を望む

官軍墓地に隣接して薩軍砲台跡がある。ここから熊本城を砲撃した。掲載した写真はここから熊本城を撮影したもの。


仏舎利塔

 花岡山の山頂には仏舎利塔があるが、その南側の少し小高い丘の上に熊本バンド奉教の碑が建てられている。我が国のキリスト教プロテスタント教会の歴史には、内村鑑三を中心とした札幌バンド、植村正久を中心とした横浜バンドと熊本バンドの三源流がある。熊本バンドは、同志社の宣教師が、熊本から来た青年たちを「熊本のグループ」という意味を込めて呼び始めたことから用いられるようになった。彼らは明治四年(1871)に設立された熊本洋学校で、アメリカ退役軍人ジェーンズ教師の感化によってキリスト教を受け入れた。彼らはその思いを「奉教趣意書」という文章にまとめ、これに署名した三十五人と後に仲間に加わった者で、その大部分が創立直後の同志社に転校卒業し、同志社のみならず、日本の近代市民社会形成に大きな貢献を残した。
 「奉教趣意書」は明治九年(1876)一月三十日、花岡山で行われた祈祷会で朗読され、署名された。この「奉教の碑」は同志社創立九十年に寄贈され、昭和四十年(1965)に建立されたものである。


熊本バンド 奉教之碑

(安国寺)
 安国寺の境内には四基の慰霊塔が建っている。その中の一つが小倉戦死各霊の墳墓である。


安国寺


小倉戦死各霊之墳


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熊本 段山

2017年04月01日 | 熊本県
(段山)


戦死者慰霊塔

段山と書いて「だにやま」と読む。熊本城の西方、熊本城を巡る攻防戦で最も激戦が繰り広げられた。熊本の路面電車の段山町駅の目の前に段山公園がある。ここが激戦区跡である。
ここからJRの踏み切りを越えて井芹川まで行くと段山橋に至る。そのすぐ近く、民家の前に薩軍戦死者慰霊塔が建つ。

段山は、堅塁熊本城の数少ない脆弱部で、ここに橋頭堡を設けるべく薩軍が殺到した。城を守る鎮台側もこの地を死守すべく、精鋭で鳴る第十三連隊第三大隊を派兵した。二月二十二日、早朝両軍が激突した。
 慰霊塔の向かって右手に建つ墓碑は、鹿児島藩士岩重隆五郎のもの。墓碑によれば三月十三日、八幡山にて戦死。十七歳。


鹿児島県士族岩重隆五郎墓


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熊本城 Ⅱ

2017年04月01日 | 熊本県
(熊本県護国神社)
 熊本県護国神社は、維新以来の殉国志士の偉霊を花岡山招魂社に斎祀したのを起源とし、明治七年(1874)三月、官祭招魂社となり、昭和十四年(1939)、内務省令により熊本県護国神社と公称することになった。


熊本護国神社


熊本護国神社内 神風連挙兵本陣跡

(熊本医療センター)


大田黒伴雄終焉の地

 熊本医療センターの裏口辺りに太田黒伴雄終焉の地碑が建立されている。
 明治九年(1876)十月二十四日の夜、太田黒伴雄を総帥として熊本鎮台を襲撃した神風連(敬神党)は、奇襲が奏功して砲兵営から歩兵営に進んだが、鎮台側の砲火による反撃を受けて太田黒は重傷を負った。この地まで退いたところで自刃した。四十三歳。

(山崎菅原神社)
 当初菅原山天満宮と称された当社は、やがて山崎村近辺の田畑を寄進され、その地に遷座された。江戸時代の地図によると、現在地よりもやや西に鎮座していたらしい。林櫻園は、一日も欠かさず当社を参拝していたと伝えられている。
 明治十年(1877)の西南戦争に際し、社殿はことごとく焼失してしまった。その後、熊本鎮台開設の際に境内地を収用され、明治十二年(1879)に山崎新道に遷座された。これ以降、山崎菅原神社あるいは山崎天神と称されるようになった。現在地に移ったのは、大正四年(1915)のことである。


山崎菅原神社

(西南戦争激戦地碑)
 平成五年(1993)、当時の熊本市長により建立されたもの。熊本城が西南戦争の緒戦の舞台となったことを記録したものである。


西南の役 激戦地跡

(日本郵政グループ熊本ビル)
 城東一丁目の日本郵政ビルの前に文教回顧の碑がある。この一帯は熊本における文教の一中心地であった。西南戦争の直後にはこの地に県立師藩学校や熊本中学校等が建てられた。その後、文学館、春雨黌、法律学校や濟々黌が合同して九州学院を設立した。


藪ノ内文教回顧の碑
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大津

2016年04月23日 | 熊本県
(大願寺)


大願寺山門

 大津町の大願寺山門には西南戦争時の弾痕が残る。山門を観察したが、確かに小さな穴は空いているものの、これが弾痕という確信は得られなかった。


弾痕?

 今回の熊本の旅はここまで。今回は、玉名や山鹿の史跡を巡ることができて、満足度は高かった。予報では雨となっていたが、何とか終日雨には祟られずに済んだ。雨は降らなかったが、三月というのに真夏のような暑い日であった。春も近い。

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菊陽

2016年04月23日 | 熊本県
(菊陽杉並木公園)


頼山陽記念碑

 県道337号線沿い、菊陽町のバス停、その名も頼山陽記念碑前からJR線を越えたところに杉並木公園がある。その南東出口付近にお目当ての頼山陽記念碑が建てられている。
 文政元年(1818)三月、下関から九州各地を巡る旅に出た山陽は、十月肥後熊本から豊後竹田に向かった。その途中、大津街道の杉並木に感動して詠んだ漢詩が刻まれている。

 大道平々砥不如(だいどうへいへいともしかず)
 熊城東去総青蕪(ゆうじょうひがしにさればすべてせいぶ)
 老杉夾路無他樹(ろうさんみちをはさんでたじゅなし)
 欠所時々見阿蘇(かくるところときどきあそをみる)

(蘇古鶴神社)
 蘇古鶴(そこづる)神社は、寛永十二年(1635)、熊本藩主細川忠利がこの地に鬼門の厄を払うために勧請したものである。境内に西南戦争の殉難者慰霊碑がある。


蘇古鶴神社


西南戦争殉難碑

 殉難之碑は明治十三年(1880)に建立されたもので、池辺吉十郎ら熊本隊士の名前が刻まれている。

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合志

2016年04月23日 | 熊本県
(二子山石器製作所遺跡跡)


二子山石器製作所遺跡


一号墳 薩軍砲台跡

合志市野々島の二子山石器製作所遺跡跡は、縄文時代後・晩期(約二千五百年から三千五百年前)の遺跡で、石斧などの石器が大量に発掘されている。その名のとおり、大小二つの丘があり、大きい方が一号墳、小さい方が二号墳とされている。一号墳丘上の凹状の溝は、西南戦争時、この辺り一帯が激しい戦闘となった際、薩軍が築造した砲台の跡である。

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菊池 泗水

2016年04月23日 | 熊本県
(菅原神社)
 菅原神社には西南戦争時の塹壕が残っているというので、境内を探してみたが、周囲は鬱蒼たる森になっており、それらしいものは発見できなかった。


菅原神社

(光徳寺)
 泗水町南田島の光徳寺には、官軍第三旅団の会計本部が置かれていた。本営跡がこのちかくにあるはずだが、探しても見付けられなかった。次の宿題である。


光徳寺

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菊池

2016年04月23日 | 熊本県
(菊池神社)


菊池神社

 田原坂、山鹿口における戦闘に敗れた薩軍は、三月二十四日、隈府(現・菊池市)まで後退してここでの守備を決めた。中町に本陣を置き、菊池本城跡や羽手ノ木、赤星口、花房、高塚袈裟、尾原西郷坂、米原、玉祥寺などに陣を敷き、薩隊や熊本協同隊、貴島隊等が守った。四月十日早朝、大津方面に撤退するまで、戦いは熾烈を極め、多くの戦死者を出した。


教育勅語記念碑

(菊池公園)


頼山陽歌碑

 菊池公園には文学碑や顕彰碑などが数多く建てられている。頼山陽の歌碑は、筑後川を下った折、南北朝時代に十五代菊池武光が征西将軍懐良親王を奉じ、筑後川で武家方と戦い、勝利を治め九州を平定した情景を漢詩にしたものである。

 菊池公園内に官軍墓地がある。菊池方面における官軍戦死者数は三十八名。これに対し、薩軍戦死者は三百名近くになったという。官軍戦死者は、菊池公園内の官軍墓地に葬られたが、薩軍戦死者は渕園墓地の楠の木を墓標として埋葬されたという。


官軍墓地

(西覚寺)
 薩軍は、西覚寺を陣地本営とした。門前に「西覚寺本陣跡」と記された石碑が置かれている。また、薩軍は、中町の盆屋や音光寺、広現寺、民家等を宿営所に当てた。


西覚寺


西南ノ役西覚寺本陣跡

(西照寺)


西照寺

 薩軍は、西照寺を野戦病院とした。

(西郷公民館)
 菊池市の西郷は、西郷隆盛の祖先発祥の地である。ここは、菊池十八外城の一つ、増永城址で、初代城主西郷太郎政隆は、菊池氏初代則隆の子で菊池一族であった。その後裔二十六代西郷九兵衛昌隆のとき、薩摩に移り住んだという記録があり、西郷隆盛は初代から数えて三十二代目となる。
 西郷は奄美大島に流罪となった際、「菊池源吾」と名乗ったが、菊池氏との縁に所以したものであった。


西郷南洲先生先祖発祥の地

 西郷公民館に建立されている西郷南洲先生先祖発祥之地碑は、昭和二十七年(1952)、徳富蘇峰の筆によるもの。


増永城跡

(渕園団地)


西南の役菊池の戦い・薩軍碑

 渕園団地に「西南の役菊池の戦い・薩軍碑」が建てられている。この石碑の近くに「史文」と題した碑が置かれており、菊池における戦闘経緯が述べられている。

(辺田天満宮)


辺田天満宮

 辺田天満宮には西南戦争の絵馬が掲げられている。中央に総督有栖川宮。それを取り囲むように十人の官軍幹部の姿が描かれている。


西南戦争絵馬
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山鹿 菊鹿

2016年04月17日 | 熊本県
(あんずの丘)
 山鹿市菊鹿町のあんずの丘は、とにかく広い公園で、そこにアスレチック用具や子供用の遊具などが設置されており、県外からの来客も多い。あんずの丘の南の小高い山の上に長野家の墓地がある。K氏、E氏とともに付近を探して、発見することができた。


長野濬平之墓


顕彰 長野濬平先生


讃長野濬平老

 長野濬平(しゅんぺい)は、文政六年(1823)、現在の熊本県山鹿市菊鹿町に生まれた。桑陰と号した。藩校時習館教授近藤淡泉の塾に入り、のちに横井小楠に実学を学んだ。弘化四年(1847)、南関に長野塾を開いて子弟を養成した。『養蚕富国論』はその時に著したものである。以来、諸国を歴遊して蚕糸の得失を視察し、桑園の開闢、桑苗の移植、その経営に尽力すると同時に、養蚕試験場を設け、器械製糸場を創立するなど、日本の養蚕製糸の振興に貢献すること少なからず。その間、苦心瘁励二十有七年。その功により緑綬褒章を授与された。明治三十一年(1898)七十五歳にて逝去。


 朝から山鹿の史跡をご案内いただいたK氏とE氏とはここで別れた。平山や椿井の史跡などは自力では絶対に発見できなかったであろう。単なる史跡マニアの旅に半日も付き合っていただき、感謝に耐えない。またお二人の山鹿の史跡に対する情熱にもとても感銘を受けた。こうした地元の方の熱意によって、貴重な史跡が保存維持されていることを改めて痛感した。またお会いできる日を楽しみにしている。

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