史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

成田

2015年03月21日 | 千葉県
(三里塚記念公園)
 三里塚交差点の近くに三里塚記念公園があり、公園内には三里塚御料牧場記念館や貴賓館などがある。


三里塚御料牧場記念館

 三里塚御料牧場記念館は、御料牧場のありし日の姿をしのび、御料牧場の名を長くこの地にとどめることを目的として、昭和五十六年(1981)に開設されたものである。外観は当時の御料牧場の事務所の概観を復元したもの。入館無料であるが御料牧場の歴史や皇室の使用した馬車など貴重な資料が展示されている。


明治天皇御野立所

 記念館の前に明治天皇御野立所の小さな石碑がある。明治天皇は明治十四年(1881)および十五年(1882)の二回、三里塚まで行幸している。

 屋外に石碑が複数立っているが、特に注目したいのは、「獣医学実地教育開始記念碑」である。この碑は、下総御料牧場の前身である取香種畜場において、日本で初めて獣医学実地教育が行われたことを記念して建てられたものである。
 江戸時代、この辺りは幕府の放牧地であった。明治になると羊毛の需要が急増し、国産の羊毛や牛馬の生産が急務となっていた。明治八年(1875)内務大臣大久保利通は富里市十倉の「高野牧」や三里塚の「取香牧」など広大な牧草地を視察し、この地に牧羊場と種畜場を設置することを決定した。同年九月には下総牧羊場と取香種畜場が開設された。
 下総牧羊場では、綿羊の飼育を全国に普及させるために、全国から牧羊生を募集し、高度な技術を身に付けさせるための教育が実施された。貴重な輸入家畜を伝染病から守るため、陸軍に獣医の派遣を要請し、病畜の治療に当たらせていたが、やがて常勤の獣医を雇うことになった。明治十年(1877)には、牧羊生の中から適任者八人を選抜し、獣医の下で助手として教育を施した。翌明治十一年(1878)には取香種畜場に獣医科を発足させることになった。


獣医学実地教育開始記念碑


貴賓館

 貴賓館は、下総牧羊場の最高責任者として雇われたアメリカ人アップ・ジョーンズの官舎として十倉村両国高堀(現・富里市)に建てられたものである。明治十二年(1879)、彼の退職後は下総牧羊場の事務所として使用されていたが、下総牧羊場と取種畜場が合併されて宮内省下総御料牧場と改められた明治二十一年(1888)に三里塚に移築された。大正八年(1919)に新しい事務所が完成したのを機に、貴賓館として改装して、各国の公使を招く園遊会場や皇族を迎えるための宿舎として利用された。

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香取

2015年03月21日 | 千葉県
(内浜公園)
 香取市の小見川の内浜公園は、佐藤尚中の生誕地を公園として整備したものである。佐藤尚中は、前名を山口舜海といった。山口家は小見川藩主内田候の侍医を務める家で、父は山口甫僊といった。文政十年(1827)、この地に生まれた。


史蹟 佐藤尚中誕生地

 佐藤尚中は幼少期から儒学者寺門静軒、医学者安藤文澤に師事し、天保十三年(1842)十六歳のとき、シーボルトの弟子であった蘭方医佐藤泰然の門に入り、翌年には師とともに佐倉藩主堀田正睦の招きにより佐倉に移り、その偉材を認められて泰然の養子となった。
 万延元年(1860)、長崎留学してポンペに就いて蘭学を学び、外科手術には特に優れた技量を示した。文久二年(1862)佐倉に戻り、佐倉順天堂の経営に佐藤泰然とともに当たった。明治二年(1869)には西洋医学所が改まった大学東校(のちの東京大学医学部)の主宰として迎えられ、大学大丞大博士大典医となった。因みに大学大丞とは、今でいう大学総長、大典医とは明治天皇の侍医頭。さらに当時日本で唯一の大博士であった。
 明治六年(1873)には全ての官職を辞し、民間人の病院である東京順天堂(現・順天堂大学)を建て、医学界に多大な功績を残した。明治十五年(1882)七月、他界。墓は谷中の天王寺墓地にある。


大學大丞大博士 大典醫贈従五位
佐藤尚中先生誕生地


 なお、内浜公園にあった旧宅は尚中の実弟山口星海(のちに甫仙)に継がれ、その子の翁助が東京に転出する明治二十三年(1890)まで続いた。

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東庄

2015年03月21日 | 千葉県
(諏訪神社)
 東庄町は、「天保水滸伝」の舞台として知られる。諏訪神社には、天保水滸伝遺品館が併設され、「天保水滸伝」に登場する笹川繁蔵や平手造酒の遺品などが展示されている。遺品館の前には周辺の遺跡案内図があり、ここで情報を仕入れてから、市内探索に出ると良い。


諏訪神社


天保水滸伝遺品館

(延命寺)


延命寺

 諏訪神社近くにある延命寺には、笹川繁蔵や勢力富五郎の顕彰碑や平手造酒の墓などが一カ所に集められている。
 左から勢力富五郎の碑、天保水滸伝発祥之地碑、中央に笹川半蔵之碑。その手前にサイコロの形をした「笹川繁蔵乃勝負石」。そしてその右に平手造酒之墓がある。笹川繁蔵の碑には、昭和に入って銚子で発見された繁蔵の遺骨が葬られている。


勢力富五郎之碑 天保水滸伝発祥之地
笹川繁蔵之碑 平手造酒之墓

 以下、東庄町のHPより抜粋
――― 笹川繁蔵は、文化7年(1810)下総国須賀山村(香取郡東庄町)に生まれた。生家は代々醤油と酢の醸造をしてきた村きっての物持ちで、繁蔵は幼少のころから漢字や数学、剣などを著名な師について学び、人間的にも優れた人物だったと言われる。
 繁蔵はやがて相撲取りになるために江戸へ出たが、一年ほどで村へ帰る。その後賭場通いを始め、ほどなくして当時笹川の賭場を仕切っていた芝宿の文吉から縄張りを譲り受け、笹川一家を張ることになる。
 一方、相模国三浦郡公郷村(神奈川県横須賀市)に生まれた飯岡助五郎は、出稼ぎ先の飯岡の漁港で網元として成功し、繁蔵と同様、博徒の親分として下総一帯に勢力を誇っていた。繁蔵が勢力を増すに従い、助五郎も黙ってはいられなくなった。
 天保15年(1844)、飯岡側が最初の斬り込みを行った。これが大利根河原の血闘である。
 この争いは笹川方の圧勝に終わった。しかし当時助五郎は、博徒でありながら十手持ちでもあった。
 飯岡側の「御用」の二文字を前に、繁蔵は子分に金品を分け与え、自身は笹川を離れることになった。
 初秋の大利根を後に旅立ってから3年。弘化4年(1847)春、繁蔵は飄然と笹川へ帰ってきた。いっそうの風格を身につけて戻ってきた繁蔵のもとへ、ぞくぞくと昔の子分たちが集まってきた。以前にも増して勢力を持った笹川一家。しかし、飯岡助五郎は密偵を笹川に放ち、繁蔵謀殺の機会をうかがっていた。
 弘化4年7月4日。賭場帰りの繁蔵は、ビヤク橋で飯岡側の闇討ちにあい殺害された。
 笹川繁蔵、38歳の男盛りだった。

(八幡神社)


八幡神社


平手造酒ゆかりの松

 剣豪平手造酒は、八幡神社の傍らに住んでいたという。剣の腕を買われて、笹川繁蔵の用心棒として活躍した。お酒を飲んでは、八幡神社の鳥居側にある松の木に寄りかかっていたと伝わる。現在の松は、二代目のものである。

(笹川繁蔵最期の地)


笹川繁蔵最後之跡

 千葉銀行笹川支店を過ぎて最初の角を左に曲がり、道なりに数分進むと右手に「笹川繁蔵最後之跡」碑がある。
 笹川繁蔵は、飯岡助五郎一味の成田甚蔵、三浦屋孫治郎らの闇討ちに遭い、ビヤク橋のたもとで最後を迎えたという。ただし付近を見回しても、橋らしきものは見当たらない。

(西福院)


西福院


義大英空信士
(笹川繁蔵の遺髪墓)


 笹川繁蔵は、本名を岩瀬繁蔵という。西福院は岩瀬家の菩提寺で、裏の墓地には岩瀬家一族代々の墓に並んで繁蔵も葬られている。
 墓石に一番右に「義大英空信士」と記されているのが繁蔵の法名である。側面には「弘化四年 七月四日 三男岩瀬繁蔵行年三十八歳」とある。この墓には繁蔵の元服の際、剃り落した前髪を埋めたと言い伝えられる。

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2015年03月21日 | 千葉県
(玉崎神社)
 旭市の飯岡地区は、『天保水滸伝』で知られる飯岡助五郎の出身地である。助五郎ゆかりの史跡が点在している。


玉崎神社

 玉崎神社の祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)と日本武尊(やまとたけるのみこと)。社伝によれば景行天皇紀の四十年、西暦111年、日本武尊が東征の際、玉の浦の東端、玉が崎に創祀されたという。中世には龍王崎の地にあったが、天文年間に兵火に遭い、積年の海触を避けるために現在地に移された。とにかく古い歴史を持つ神社である。
 上総一宮(玉前神社)とともに九十九里浜を鎮護する神社として広く崇められ、国学者の平田篤胤や大國隆正らも参拝している。境内には飯岡助五郎の碑や力石のほか、本殿の裏には平田篤胤の歌碑がある。


飯岡助五郎之碑

 講談や浪曲で語られる飯岡助五郎は、笹川繁蔵と血みどろの抗争を繰り広げた侠客であるが、地元では堤防工事など地元振興や漁業の発展に尽くした名士でもあった。
 玉崎神社の飯岡助五郎の碑の前の力石は、助五郎が力比べや雇用の際に使用したものと伝えられる。


平田篤胤歌碑

 磐楠(いわくす)に 常盤の松の
 より副(そ)ひて
 千世(ちよ)を契りし ことの畏さ

 この歌は、夫婦木(めおとぎ)と称され、楠の大樹に松の木がくっついた御神木を、文化十三年(1816)五月、平田篤胤が当神社を参詣したときに詠んだものである。この御神木は安政三年(1856)八月の大風で倒れてしまった。
 歌碑は御神木の跡に、子息銕胤が書き、門人が建立したものである。


遊侠奇談 座頭市物語 子母沢寛執筆の宿

 玉崎神社の門前には、「子母沢寛執筆の宿」の碑がある。勝新太郎演じる座頭市の映画は、子母沢寛の『座頭市物語』が原作とされる。

(定慶寺)
 定慶寺には、飯岡助五郎が討ち果たした笹川繁蔵の首塚がある。


定慶寺


笹川繁蔵之首塚

(光台寺)


光台寺


飯岡(石渡)助五郎の墓

 光台寺には飯岡助五郎の墓がある。
 飯岡助五郎は、相模国三浦に生まれ、若い頃、飯岡へ来て漁師をしていた。義理人情に厚く、度胸が良いので人々にたてられ、やがて関東屈指の大親分と言われるようになった。笹川繁蔵との大利根河原における決戦は「天保水滸伝」として世に知られる。天保年間、この浦で海南事故が相次ぎ漁夫が全滅しかけたとき、自費で生地の三浦から漁夫を集め復興の礎を築き、飯岡町再生の恩人として町民から感謝された。安政六年(1858)四月、当町自宅で死去した。六十七歳。
 墓石には本姓である「石渡助五郎」と刻まれている。

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山武

2015年03月21日 | 千葉県
(松尾中学校)
 寒い朝のことであった。駅に向かう道路も所々凍結していたので、嫁さんに「子供たちも注意するように」とメールをした。
 会社で仕事をしていると、携帯電話に嫁さんから連絡があった。自動車がスリップしてガードレールに激突。幸いにして嫁さんに怪我はなかったが、マイカーは前部がぐしゃぐしゃになってしまったというのである。
 翌日には息子のセンター試験というタイミングであった。最も滑ってはいけないときにスリップ事故を起こした嫁さんは、「身代わりで滑った」と弁解しているが…。
 「修理は可能だが、かなり高額」とのことで、悩んだ末、修理は諦め新車を買い替えることにした。思わぬ出費であった。
 新しい車が届いた翌週の土曜日、早朝五時に家を抜け出し、千葉県の山武、旭、東庄、香取、成田、芝山を日帰りで回ってきた。
 カーナビやETCは使い回しなので、機能的には代わり映えしない。しかし、この六年間で燃費は飛躍的に改善していることを実感することができた。

 この日の最初の訪問地は山武市松尾である。松尾は、明治元年(1868)、徳川家が駿府に移封されたことを受け、掛川藩主太田家が転封されて成立した藩である。
 幕末の藩主は太田資美(すけよし)。大老井伊直弼の時に間部詮勝とともに老中に抜擢された五代藩主資始の子である(六代藩主資功(すけかつ)の子という説もある)。


松尾中学校

 太田資美は当初芝山に藩庁を置いて芝山藩と称したが、明治四年(1871)正月に藩庁を松尾に移し、松尾藩と改称した。なお、松尾という地名は、掛川城の別称「松尾城」に因むものである。
 資美は、藩学教授で算学者の磯辺泰(たい)に城郭の設計を命じた。磯辺は西欧風の稜堡式の四稜郭を計画した。稜堡式というのは、箱館の五稜郭をイメージすれば分かりやすいが、複数の稜堡(三角形の突起)を持ち、それぞれがお互いをカバーするように設計されている。強力な火砲に対抗するために西洋で生み出された築城法である。
 要するにこの時代の最先端の築城法を取り入れたのであろう。しかし、実際に築城地として選ばれた台地は歪な形をしており、当初予定されていたような左右対称の綺麗な四稜郭にはならなかった。
藩主や磯辺泰の意気込みとは裏腹に、明治四年(1871)七月、廃藩置県により松尾城は築城から半年でその役割を終えてしまう。時代の流れは、彼らの想像を越えていたのである。
松尾城は「最後の城郭」と呼ばれているが、実は城郭も完成を見ないままであった。現在ほとんど遺構らしきものは残っていないが、松尾中学校を入って直ぐの植え込みの中に「太田城趾」と記された小さな石碑を見ることができる。


太田城趾

(松尾自動車学校)


松尾藩公庁跡

 古図面と照らし合わせると、松尾中学校がある辺りには藩主(知藩事)の御住居が置かれていたらしい。
 少し離れた松尾自動車学校辺りに、藩の公庁があった。教習コースの中に「松尾藩公庁跡」の石碑が建てられている。教習が始まってしまうと近寄って写真を撮ることはできないので、ここを訪問するのであれば、できるだけ早い時間の方が良いだろう。

(大堤)
 国道126号線大堤交差点の北の民家の前に、松尾城の長屋門が移設されている。松尾城の数少ない遺構である。


松尾城長屋門

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佐倉 Ⅲ

2014年06月01日 | 千葉県
(佐倉城址公園)


タウンゼント・ハリス像

 日米修好通商条約締結から百五十年目の平成二十年(2008)、佐倉城址の堀田正睦像の隣に、盟友タウンゼント・ハリスの像が建立された。前々からハリス像を訪ねたいと思っていたが、ようやく実現した。
 ハリスは、安政三年(1856)七月に来日し、度重なる交渉の末、安政五年(1858)六月、ようやく日米修好通商条約の締結にこぎつけた。実際に交渉に当たったのは、岩瀬忠震と井上清直が中心となったが、彼らを指揮したのが、時の老中堀田正睦であった。


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銚子 Ⅱ

2014年06月01日 | 千葉県
(良福寺)


因明院受炮發性信士(大森金六郎の墓)

 前回、良福寺を訪ねた時、探し当てられなかった水戸藩諸生党の大森金六郎の墓に、二度目にしてやっと出会うことができた。正面には戒名、左側面にはこの墓を建てた「町内 年寄中」、右側面には「慶應四辰十月五日」という没年月日が刻まれている。

(川口神社)


川口神社

 銚子市川口町の川口神社は海を臨む小高い丘の上に建てられている。階段の途中に吉田松陰がこの地を訪ねたことを記念した石碑がある。表面の「松陰先生曾遊之地」の文字は、徳富蘇峰によるものである。


松陰先生曾遊之地

 裏面には、嘉永五年(1852)五月、松陰が当地を訪れた時に詠んだ漢詩が刻まれている。

銚子港
抵銚子浦戸口殷盛 然港口沙游 不便通船
其守備軍弱 亦恃地利者歟

巨江汨汨流入海 商船幾隻銜尾泊
春風吹送糸竹声 粉壁紅楼自成郭
吾来添繿壬子年 倚檣一望天地廓
遠帆如鳥近帆牛 潮去潮来煙漠漠
欧羅亜墨知何処 決眦東南情懐悪
眉山之老骨己朽 何人復有審敵作
仄聞身毒与満清 宴安或被他人掠
杞人有憂豈得己 閑却袖中綏邊略
強開樽酒発浩歌 滄溟如墨天日落
右吉田松陰先生之詩 嘉永五年正月八日銚子客次有此作

 銚子の地が外敵に対して無防備なことを嘆いたものである。


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九十九里

2014年06月01日 | 千葉県
(真忠組志士鎮魂碑)


真忠組志士鎮魂碑

 真忠組志士鎮魂碑には、三浦帯刀と楠音次郎という二人の真忠組副首領、首領の辞世が刻まれている。

三浦帯刀有国
国のため民のためとて捨てる身は
これぞ日本の人のたましひ

楠音次郎正光
虚々実々不争功 真忠義士頗義勇
一夜忽驚千里軍 誠忠吹起大平国

(作田川河口付近の墓地)


三浦帯刀 楠音次郎 墓

 作田川河口付近の墓地に、三浦帯刀、楠音次郎の墓がある。五十センチくらいの小さな墓であるが、その後ろに楠音次郎の曽孫の方が記した墓碑が置かれている。
 真忠組首領の楠音次郎は、もともと三河国岡崎に生まれたといわれるが、父は熊本藩士だった。音次郎は尾張藩や烏山藩に出仕したが、放浪することが多かった。文久元年(1861)には九十九里の井之内村に住み付き、ここで寺小屋を開き、また変の前には浜民の良き相談相手になっていたという。拠点としていた大村屋を襲撃されて討死。
 三浦帯刀は、佐原村に知行地を持つ旗本津田栄次郎の家来で、佐原村に住んでいた。安政六年(1859)には津田栄次郎地頭所から所村の百姓平右衛門に預け身分となった。安政の大獄に関連した処罰であったともいわれる。文久三年(1863)には「座敷住居」に変わり、彼の行動も自由が与えられることになった。三浦は一宮藩に捕縛されて、打首獄門となった。
 彼らは尊攘浪士というだけでなく、挙兵以前からこの地方民との接触しており、真忠組の挙兵には地方民の困窮からの解放を運動の梃子にしていたのである。(高木俊輔著「明治維新草莽運動史」)

(真忠組浪士屯所跡)


真忠組浪士屯所(大村屋)跡

 真忠組の活動は、直接的には文久三年(1863)十一月十二日、当時九十九里地方の一漁村であった小関村にあった大村屋伊八方に楠音次郎を首領とする数名がやってきたことに始まる。宿主伊八に対し「当分借り受け度」という一札を入れ、門先には弓・槍・鉄砲などを飾りたて、「真忠組義士旅館」という板札をかかげた。この日以降、浪人体の輩が集まってきて、同月二十四日には、二十人余りに膨れ、この場所が実質的に真忠組の本部となった。現在、大村屋跡には木製の碑が建てられているだけである。


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白子

2014年06月01日 | 千葉県
(真光寺)


真光寺


真忠組矢野重吾郎終焉之地碑

 文久四年(1864)一月十七日早朝、小関村の真忠組旅館に討手(福島藩兵)が押し寄せ、楠音次郎他七名が討ち取られた。ここを脱出した里見忠次郎、首東大九郎、斎藤市之助は、関東取締出役に捕縛された。八日市場に頓集していた山内額太郎他十七名は、小関村に救援に向かったが、既に壊滅していたため、彼らも逃げ去った。茂原東光院に拠点を置いた三浦帯刀らも小関村に向ったが、その途中上総一宮藩兵百五十と遭遇。剃金中の台で包囲されて三浦以下五名は捕縛された。しかし矢野重吾郎は、最後まで抵抗したため討ち取られた。ここに真忠組は壊滅した。真光寺墓地の一角に矢野重吾郎終焉の地と書かれた石碑が置かれている。

(法性寺)


法性寺

 白子町中里の法性寺が真忠組壊滅の地となった。


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一宮

2014年06月01日 | 千葉県
(一宮城址)


一宮城 大手門

 一宮城は、標高三十メートルの台地の上に構築された山城で、築城時期は南北朝時代から十六世紀といわれるが、詳細は不明である。北条氏と里見氏の勢力圏の境目にあったため、しばしば城主が変わったが、小田原征伐の際、本多忠勝に攻め落とされて廃城となった。江戸時代に入って、大多喜藩の支配下にあったが、のちに伊勢八田藩加納氏の飛領地となった。文政九年(1826)に加納遠江守久?がこの地に陣屋を築き、初代上総一宮藩主となった。


加納公紀徳碑銘

 現在、一宮城跡は城山公園として整備されている。山頂には加納藩の武道所振武館が再建され、今も剣道や柔道場として利用されている。また大手門や崇文門も建てられているが、いずれもコンクリート製で、やや風情に欠ける。
 振武館の前には、加納久宜(ひさよし)の顕彰碑が建てられており、さらに公園の一番奥には久宜の墓がある。


加納久宣公の墓

 加納久宜は、二代久徴(ひさあきら)、三代久恒(ひさつね)のあとを継いで、筑後柳川藩から養子に入って加納藩主となった人で、維新後は一宮藩知事に就いたほか、大審院検事、鹿児島県知事などの要職を務め、貴族院議員を三期務めた後、初代一宮町長に就任した。本墓は東京谷中にあるが、威徳を慕う町民の要望により、分骨して当地にも墓が設けられることになった。大正八年(1919)、七十二歳で逝去。

(旧加納藩砲台跡)


舊加納藩砲台跡

 加納藩が海岸に砲台を築いたのは、天保十五年(1844)というから、幕府が品川台場を築いたのより八年も早い。一宮藩主加納久徴は、大砲を鋳造し、海岸線に五カ所の砲台を築いた。大砲は火縄式のものであったが、各砲台に一つずつ設置された。付近に武士溜り陣所を配置していた。久徴の治世は、和宮の降下の供奉総奉行に任命されたり、真忠組の鎮圧に出兵したりと多端であった。静かな一宮にも波乱の時代が押し寄せることになった。

(東漸寺)


東漸寺

 東漸寺に和宮が東下した際に使用した駕籠が保管されているというので、立ち寄ってみた。残念ながら駕籠は本堂外箪の天井に保存されており、簡単に見ることはできないようである。
 和宮が江戸に下ったのは文久二年(1862)のことである。当時の一宮藩主加納久徴は、幕府の命により供奉総奉行を務めた。その労をねぎらうために、豊後国長盛の刀一振、鞍鐙一具、打掛などとともに、江戸への旅で使用した駕籠を賜った。その縁で、当地の東漸寺に和宮の駕籠が伝わることになったのである。


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