史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

長崎 鳴滝

2015年07月11日 | 長崎県
(鳴滝)
 江戸時代、この付近は景勝地として有名で、「長崎名勝絵図」にも崎陽十二景の一つ「鳴瀧浣花」とあり、辺りには桃の木が多く、春は桃の花が川を流れて錦繍を洗うが如しという風情であった。また長崎の有力者の別荘地でもあった。
 延宝年間(1673~1681)、第二十四代長崎奉行牛込忠左衛門が、京都洛北の鳴滝をしのび、この地を鳴滝と命名した。


鳴滝

(シーボルト宅跡)
 シーボルト通りと名付けられた道を溯ると、シーボルト宅跡とそれに隣接したシーボルト記念館に出会う。


シーボルト先生之宅址


シーボルト宅跡

 ちょうどシーボルト記念館では、特別展「シーボルトとオタクサ」展を開催していたが、シーボルトがアジサイの和名に愛する妻の名前からオタクサ(お滝さん)を名付けたことはよく知られている。その縁もあってシーボルト宅にはたくさんのアジサイが植えられている。
 文政六年(1823)に出島和蘭商館医として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や門弟への教育活動、日本研究などを行った。日本全国各地から集まった門弟は、西洋の進んだ学問や科学的な思考を学び、やがて蘭学医などとなって我が国の近代化に大きく貢献した。その一方で、シーボルトは動物や植物を始めとする日本のあらゆるものを対象として、科学的に調査研究を行い、後年その成果をまとめ、ヨーロッパにおいて日本を正しく紹介することに努めた。
 開国後の安政六年(1859)、再来日を果たしたシーボルトは、この地を住居と定め、日本各地の植物を取り寄せて植物園を作るなど、再び鳴滝を拠点として日本研究を継続した。


シーボルト像

(シーボルト記念館)


シーボルト記念館


若き日のシーボルト像

 シーボルトは、1796年、ドイツのバイエルン公国ヴュルツブルグ生まれた。父は大学教授。長じてヴュルツブルグ大学に医学、植物、動物、地文、人種の諸学を学んだ。1822年、和蘭東インド会社に入り、1823年、長崎出島に商館付医員として着任した。医学・博物学の研究の傍ら、日本人を診療し、医学生の教授に当たった。文政九年(1826)、商館長スツルレルの江戸参府に随行して日本人との交友を深めた。文政十一年(1828)八月、帰任に当たり、いわゆるシーボルト事件により国外追放を受け、オランダに帰った。帰国後は日本関係の著作の執筆に従事した。日蘭修好条約、通商条約が結ばれてからは、日本の外交政策について種々画策して、安政六年(1859)七月、和蘭商事会社評議員として再来日を果たした。文久元年(1861)幕府より顧問として招聘を受け、江戸に上って種々建言し、また学術面でも教導に当たったが、必ずしも彼の熱意を満たすものではなく、幾ばくもなくして解職。同年十二月、長崎に帰り、翌文久二年(1862)、日本を去った。翌年、オランダ政府の官職を辞し、1866年、ミュンヘンで没した。年七十。

 シーボルトが追放された翌年、天保元年(1830)に滝がシーボルトに送った嗅ぎ煙草入れで、黒漆の表面に滝の肖像、裏面に娘のイネが描かれている。イネは当時三~四歳と思われ、碧い瞳が印象的である。通常は複製品の展示だが、今回、幸いにして実物展示を見ることができた。


シーボルト家の紋章

 二階のステンドグラスは、シーボルト家の紋章となっている。

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長崎 南山手

2015年07月11日 | 長崎県
(グラバー商会跡)


グラバー商会跡

 グラバー商会のあった辺りである。グラバーが上海を経て長崎に来たのは、長崎開港直後の安政六年(1859)のことであった。グラバー、二十一歳のときである。グラバーは大浦にグラバー商会を設立し、薩摩、長州などの西南雄藩に、小銃、大砲、艦船など大量の武器を売り込み、巨利を得た。グラバーはただの武器商人ではなく、尊王倒幕運動にも理解があった。母国の立憲君主制に倣った、天皇を中心とした近代国家の誕生を期待していたといわれる。

(グラバー園)


南山手居留地跡 長崎電信創業の地 国際電信発祥の地

 寺町の寺院を回り終えた私は、電動自転車でグラバー園に向かった。この石碑の横に自転車を乗り捨て、あとは人の波に乗ってグラバー園を目指す。


大浦天主堂


ボウリング日本発祥地

 グラバー園に至る道の両側には、ぎっしりとお土産を売る店が並び、その前を観光客がひっきりなしに行きかう。その道端にボウリング日本発祥地と記した石碑を発見した。実は、私はこれまでボーリング発祥の地と書かれたモニュメントに、神戸と横浜で出会っている。いずれも外国人の居留地のあった場所で、外国人がレクレーションとしてボーリングを持ち込んだことは理解できる。それにしても発祥の地が三カ所もあるというのは、いかにも不自然ではないか。


グラバー像

 安政六年(1859)の開港と同時にスコットランドから来日したグラバーが南山手の丘の上に住居を建設したのは、文久三年(1863)のことであった。幕末の激動の時代に、薩摩藩士らの英国留学を支援するなど、多大な援助を惜しまなかった。維新以降も経済人として我が国への近代技術の導入に大きな役割を果たした。


グラバー邸

 グラバー園内には、動く歩道が稼働しており、来園者はベルトコンベア式に園内の施設を見て回ることになる。グラバー邸など人気の施設には長蛇の列ができており、時間を失いたくなかった私はここもパス。また、旧鵜三菱第二ドックハウスの建物も改修中で見ることはできなかった。


高島和砲

 グラバー園に置かれている高島和砲は、高島秋帆の指導のもと、鉄砲鍛冶の野川清造によって造られたものと言われている。


自由亭


西洋料理発祥の碑

 自由亭の前には西洋料理発祥の碑がある。自由亭は、江戸時代末期、我が国で初めての西洋料理レストランとして伊良林の神社前にオープン。創立者の草野丈吉は、出島のオランダ人のもとで修業し、大いに料理の腕を上げたといわれる。現在、二階は喫茶室として営業している。


旧リンガー邸

 フレデリック・リンガーは、イングランド出身。元治元年(1864)頃、来日し、グラバー商会に勤務後、明治元年(1868)、ホーム・リンガー商会を設立し、貿易、ホテル業、製茶、製粉、上水道、発電など、幅広い事業を行った。


旧オルト邸

 ウィリアム・オルトはイングランドの人。安政の開港と同時に来日し、オルト照会を設立した。大浦けいと提携して、九州一円から茶を買い求め、製茶輸出業を通じて日本茶を世界に広めた。特に土佐藩との関係が深く、土佐藩はオルト商会から多くの艦船や武器を購入している。慶応三年(1867)四月のいろは丸事件でも、オルトに相談したことがあったという。岩崎弥太郎の日記によれば、同年五月二十二日の聖福寺における談判のあと、坂本龍馬は後藤象二郎、岩崎弥太郎らとオルトを訪ねている。

(旧英国領事館)


旧英国領事館跡

 長崎英国領事館の建物は現存している。かつてここにホーム・リンガー商会が隣接していた。ホーム・リンガー商会は、フレデリック・リンガーらが設立した貿易商社で、茶や石炭、海産物の取引のほか、銀行業、保険業等も行っていた。前面の道路は大浦バンド(海岸通り)と呼ばれ、長崎外国人居留地のメインストリートとして、多くの人が行き交っていた。


旧英国領事館の建物

(旧香港上海銀行)


旧香港上海銀行

 香港上海銀行長崎支店は、明治三十七年(1904)の竣工。明治三十一年(1898)に開業した長崎ホテルと並んで、大浦バンドおよび長崎港の象徴的な景観を形成していた。ベランダを備えた居留地スタイルの長崎ホテルは、在留の外国人たちの出資により、当時の居留地における最大規模のホテルとして開業し、ビリヤード台や電話など、当時の最新の設備を備えていた。また香港上海銀行の北隣りにはロバート・ネール・ウォーカーの設立したウォーカー商会の事務所があった。前面の海岸には、数々の小船(サンパン)が停泊し、この地は居留地の中でも上等地であった。

(長崎市民病院)
 運上所というのは、安政五年(1858)、長崎開港により、税関の事務、外国船からの税金徴収や荷改めを行うために設置されたもので、当初は「湊会所」と呼ばれていた。万延元年(1860)、第一次居留地工事の際、築町の俵町役所内に移転した。文久三年(1863)に運上所と改められ、慶応二年(1866)には庁舎を石碑のある場所に新築・移転した。明治六年(1873)、運上所は長崎税関と改称された。
 イカルス号事件で海援隊士が嫌疑を受けると、高知における談判では結論が出ず、場所を長崎に移して裁判が続けられた。慶応三年(1867)八月十八日は長崎奉行立山会所にて、翌十九日は運上所での裁判となった。坂本龍馬(このときは才谷梅太郎との変名を使用)も裁判で糾問に立ち会っている。


運上所跡 我が国鉄道発祥の地

 運上所石碑と並んで「我が国鉄道発祥の地」という石碑も立っている。
 慶応元年(1865)、イギリス人商人グラバーが、ここから松ヶ枝橋の方向にレールを敷いて、イギリス製の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせた。集まった人々は驚きの歓声を上げて見物したという。この運転は営業を目的としたものではなかったが、我が国における最初の蒸気機関車の運行であった。

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長崎 丸山 Ⅱ

2015年07月10日 | 長崎県
(佐古小学校)


養生所趾

 佐古小学校は、養生所の跡地に当たる。構内に入れば養生所の石碑があるのではないかと思われるが、例によって私がここを訪れたのは早朝六時過ぎで、正門は固く閉じられたままであった。

(佐古招魂社)


軍人軍属合葬之碑

 佐古招魂社は、明治七年(1874)の台湾の役の戦没者ならびに当地で戦病死した五百四十七柱の英霊を奉祀したことに始まり、明治十年(1877)の西南戦争(熊本城付近の戦闘)における戦歿者、さらに大正七年(1918)、靖国神社合祀者のうち長崎県在籍者で県下の各招魂社の祭神以外の千二百四十二柱の英霊を合祀したものである。また明治元年(1868)の戊辰戦争(奥州および箱館)の犠牲者を奉祀する梅が崎招魂社を合併し、合計千九百十三柱の英霊が眠る。


西南戦争戦死者の墓

(唐人屋敷跡)
 唐人屋敷は、元禄元年(1688)に密貿易を取り締まるため、この地に造成され、同二年(1689)に完成した。敷地は八千十五坪(のちに九千三百七十三坪に拡張)という広大なもので、煉塀と竹矢来で二重に囲まれ、その中に二階建ての瓦葺き長屋が二十棟あり、およそ二千人から三千人の中国人を収容することができたといわれる。


唐人屋敷跡

 嘉永三年(1850)九月九日、吉田松陰は、唐人屋敷を訪れている。松陰は、長崎で唐通事鄭勘介に教えを乞い、中国語を学んでいる。


天后堂

 安政六年(1859)、日本が開国されると、来航した唐人は大浦の外国人居留地や新地・広馬場などへ住むようになった。明治元年(1868)、唐人屋敷は解体され、現在、跡地は住宅街となっている。往時の建物としては東南の隅に天后堂が、東北の隅に観音堂が残されている。


観音堂

(新地中華街)


新地中華街

 私が長崎で宿泊したホテルは、新地中華街のすぐ近くにあった。市内の主要な史跡を歩いて訪ねるには極めて便利であったが、夜更けまで賑やかな場所であった。


新地蔵跡

 中華街のちょうど真ん中辺りに新地蔵跡がある。
 江戸時代、新地の南側(湊川公園のある方)には四つの水門があり、荷役の際には荷物の種類に応じて水門が開かれた。また新地から唐人屋敷へは新地橋と呼ばれる木造の橋がかけられていた。新地橋の手前に門があり、新地を出る中国人には探番(さぐりばん)によるボディチェックが行われていた。

(薩摩藩蔵屋敷跡)


薩摩藩蔵屋敷跡

 正保四年(1647)、ポルトガル船二隻が長崎に来航し、幕府はこれを拿捕するために、西国諸藩に計四万八千人の動員を命じた。これ以降、各藩では長崎に専用の蔵屋敷を設置して、聞役その他を常駐させ、長崎奉行との連携を密にした。銅座町周辺には薩摩藩の蔵屋敷があり、長崎には小松帯刀、五代友厚、寺島宗則らが往来したが、薩摩藩名義で物資の購入に来た長州藩の伊藤博文、井上馨もこの屋敷に匿われていたという。

(五島藩蔵屋敷跡)


五島藩蔵屋敷跡

 これも銅座町にある五島藩蔵屋敷跡である。五島藩は有事に対応するため、自藩の領海警備を担当していた。

(久留米藩蔵屋敷跡)


久留米藩蔵屋敷跡

 同じく銅座町の久留米藩蔵屋敷跡である。久留米藩は幕府から有事の際の長崎警備等を命じられていた。
 まだまだ探せば、諸藩の蔵屋敷跡が見つけられると思うが、これくらいで勘弁してください。

(銅座跡)


銅座跡

 現在、銅座町という地名に名残が見られるように、この辺りには享保十年(1725)、銅代物貿易の棹銅等を鋳造するための銅吹所が設置されていた。棹銅は大阪銅座で製錬され、長崎に搬送されたが、長崎の銅座でも製錬されていた。銅座の敷地は千七百二十八坪であった。元文三年(1838)に銅座が廃止されると、以後は銅座跡と称されることになった。

 棹銅は、およそ直径二センチ、長さが七十センチ程度であった。右の写真は、出島に展示されている、別子銅山産で産出され、大阪の住友で製錬された棹銅である。


棹銅
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長崎 丸山 Ⅰ

2015年07月10日 | 長崎県
(丸山)


丸山公園

 日本三大花街の一つと言われた丸山は、寛永十九年(1642)に市中に散在していた遊女屋を官命により一箇所に集めたのが始まりという。丸山は江戸時代、海外貿易の発展とともに栄華を極め、上方などから多くの貿易商や知名士が集まり、元禄時代に全盛期を迎えた。丸山の遊女の数は、元禄五年(1692)には千四百四十三名を数えた。また江戸時代後期には、日本を代表する漢学者で歴史家の頼山陽や、坂本龍馬らも当地を訪れている。という次第でここにも坂本龍馬像がある。


坂本龍馬之像

 慶應三年(1867)七月六日の夜、丸山の寄合町の路上で、イギリス軍艦イカルス号の水夫二人が殺害され、その疑いが海援隊士にかけられた。イギリス側の強硬な主張により、高知や長崎で度々取調べが行われ、坂本龍馬も才谷梅太郎という変名を用いて、長崎運上所での取調べに出席している。その結果、海援隊士への嫌疑は晴れた。当時、犯人は不明であったが、明治になって犯人は福岡藩士であり、事件の二日後に自殺していたことが判明している。


オランダ坂

 今ではオランダ坂といえば、東山手の旧外国人居留地辺りの坂をいうが、どうやら丸山のオランダ坂こそ、本家本元のオランダ坂らしい。鎖国時代、出島商館への出入りを許されていた丸山の遊女がこの坂を通って、玉帯川(今の電車通り)のところから船で行き来していたという説、或いは明治時代、西洋料理の「福屋」へ居留地の外国人(長崎では外国人は全て“オランダさん”と呼ぶ)が、丸山の遊里を避けて、この坂を通ったとする説、両説があるが、いずれにせよ、長崎で最初にオランダ坂と呼ばれたのはこの場所だそうである。

(梅園身代り天満宮)


梅園身代天満宮

 丸山にある天満宮は、元禄十三年(1700)、丸山町の乙名安田治右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神として親しまれてきた。元禄六年(1693)、安田治右衛門が二重門にて梅野五郎左衛門に襲われた。治右衛門は自邸に担ぎこまれたが、不思議なことにどこにも傷が無く、代わりに庭の天神様が血を流して倒れていた。以来、この天神様を身代わり天神と呼ぶようになった。花街に接していることから、遊女や芸者が多く参拝していたという。また第二次世界大戦の際には、丸山町で出征を命ぜられた者は、必ずこの神社に参拝し、そのご利益で無事に帰還できたという。


梅園身代天満宮

(西洋料理「福屋」跡)
 福屋は西洋料理のさきがけの一つで、創業者は中村藤吉。建物は明治二年(1869)上棟の日本家屋と明治八年(1875)上棟の洋館の組み合わせとなっていて、擬洋風の細部装飾が施されていた。馬町の自由亭、西浜町の精洋亭とともに長崎三大洋食屋と呼ばれた。孫文が国賓として来日した際や、グラント将軍(第十八代アメリカ大統領)が来崎の際には、食事を提供した。明治四十年代に閉店し、現在は庭園の一部や石垣、階段等を残すのみとなっている。


西洋料理「福屋」跡

(史跡 花月)
 寛永十九年(1642)、それまで市内に散在していた遊女屋を一箇所に集め、遊里丸山町・寄合町が形成された。料亭引田屋もこの頃の創業といわれる。花月は、文政元年(1818)前後、引田屋の庭園内に作られた茶室の名称である。長崎奉行の巡視の際には休憩所としても使用された。この地には、向井去来や太田蜀山人、頼山陽といった文人墨客のほか、多くの幕末の志士が訪れた。明治十二年(1879)、丸山の大火で花月は類焼したが、花月の名称は庭園、建物に引き継がれ、現在、料亭「花月」として営業している。


史跡 花月

 花月には、坂本龍馬がいろは丸事件で揉めている頃、怒って床柱に斬りつけた刀痕が残されているというが、残念ながら花月の門は堅く閉ざされており、見ることはできなかった。


花月


頼山陽先生故縁之處


(高島秋帆宅跡)


高島秋帆宅跡

 高島秋帆は、寛政十年(1798)の生まれ。町年寄高島家の十一代目。荻野流砲術を父から学び、鉄砲や砲弾の鋳型をオランダから輸入し、西洋式砲術を研究した。また、「天保上書」を幕府に上申し、海防等の備えと西洋の軍事技術の導入を説いた。そして武蔵国徳丸原(現・板橋区高島平)にて西洋式軍事訓練を実施するなど実績を挙げたが、天保十三年(1842)、無実の罪で十二年間の幽囚生活を送った。その後、後進の指導に当たり、江戸で没した。
 長崎市内にも墓があるが、残念ながら今回は訪ねることはできなかった。

 秋帆宅は、秋帆の父、茂紀が別邸として文化三年(1806)に建てたもので、瓦葺二階建ての建物で、二階にあった客室から眺める、盛夏の雨垂れ光景に因んで、秋帆によって「雨声楼」と名付けられた。秋帆は天保九年(1838)に大村町(現・万才町)からこの地に移り住み、天保十三年(1842)に捕えられるまでの約五年間をここで過ごした。

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長崎 風頭山

2015年07月10日 | 長崎県
(亀山社中跡)


亀山社中跡

 長崎の三日目は、電動自転車にまたがって駅周辺の史跡からシーボルト記念館、寺町の墓を訪ね、継いで風頭公園、グラバー邸を中心とした南山手、そして出島を回るといった、どう考えても無謀な計画であった。一刻のロスも許されないし、とても昼食を取っている時間などなかった。
 想定外だったのは、亀山社中で長蛇の列ができていたこと。ここまで来て亀山社中の中を実見できないのは悔しいが、行列に並んで時間を無駄にするわけにはいかない。
 行列の先頭の方にお願いして、ちょっと下がってもらい、亀山社中の門の写真のみ撮影。


亀山社中資料展示場

 亀山社中跡から若宮稲荷に至る途中に亀山社中資料展示場がある。特に史料というものは見当たらず、亀山社中の隊士の写真などが展示されているのみである。ここも凄い混雑で、早々に退散した。

(良林亭跡)


良林亭跡

 文久三年(1863)、草野丈吉(じょうきち)は我が国の西洋料理の先駆けである良林亭を開業した。草野は十八歳のとき出島和蘭商館出入の商人に雇われ、その推薦でオランダ人の洗濯係やボーイを務め、のちにオランダ人と起居をともにしながら料理の腕を磨いた。良林亭は六畳一間の部屋で、六人以上のお客様は御断りだったという。元治元年(1864)には店舗を他所に新築し、自遊亭と称した。さらに慶応元年(1865)に自由亭と改称。現在、グラバー邸内にその建物が移築されている。明治十一年(1878)には馬町の諏訪神社前に進出した。明治十二年(1879)、グラント前大統領が立ち寄った際には、コーヒーや洋酒、果物などを提供した。明治二十年(1887)廃業。

(若宮稲荷神社)


若宮稲荷神社

 若宮稲荷は勤皇稲荷とも呼ばれている。これは、当稲荷が南北朝の武将楠正成の守護神であったことに因み、幕末に来崎した諸藩の志士の多くが参詣したためと謂われている。坂本龍馬も正成を崇拝していたらしく、正成の最期の地である神戸・湊川では
月と日の むかしをしのぶ みなと川
流れて清き 菊の下水

と詠んでいる。若宮稲荷神社は、龍馬の創設した亀山社中や、盟友佐々木三四郎と会飲した料亭・藤屋にも近いことから、たびたび参詣した。


坂本龍馬像

 本殿前には高さ一メートル程度の坂本龍馬像がある。風頭公園の龍馬像の原型というが、こちらの龍馬は何だか聞かん坊の顔をしている。

(藤屋跡)


藤屋跡

 若宮稲荷神社の鳥居前に藤屋跡の説明板が設置されている。藤屋は天保元年(1830)に創業され、慶應元年(1865)から西洋料理を手掛け、福屋や自由亭と並んで幕末の長崎を代表する西洋料理屋となった。イギリス商人グラバーも得意客の一人であった。坂本龍馬も佐々木三四郎とたびたび訪れている。

(風頭公園)


坂本龍馬像

 風頭公園は、標高百五十一メートルの風頭山の山頂付近を公園にしたものである。山頂では龍馬像が長崎の市街を見下ろしている。
 私は熱心な龍馬フアンというわけではないが、それでも全国の史跡を探訪するうちに、数多の龍馬像を見て来た。(二宮尊徳を除けば)全国にこれほど像が建てられた幕末人はいないだろう。像の多さが、龍馬人気の高さを物語っている。以下のとおり、その数二十は超えている。
 北海道(函館)、東京(立会川)、京都(松源寺・岡崎公園・霊山墓地・土佐稲荷・嵐山)、高知(桂浜・高知駅前・坂本龍馬記念館・坂本家先瑩の地・龍馬歴史館・梼原)、愛媛(河辺)、香川(琴平)、鹿児島(塩浸温泉・天保山)、長崎(丸山・若宮稲荷・風頭公園・上野彦馬生誕地・新上五島)


司馬遼太郎文学碑

 龍馬像と向い合うように、司馬遼太郎先生の文学碑が建てられている。その全文。

――― 船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、
「長崎はわしの希望じゃ」
と陸奥陽之助にいった。
「やがては日本回天の足場になる」
ともいった。

 龍馬は日本全国を歩いており、各所に銅像が建てられるのも理解できる。しかし、龍馬が一番似合う街は、長崎かもしれない。龍馬のやったこと、大政奉還や薩長同盟、船中八策などは実は龍馬の独創ではない。龍馬のやったことでもっとも独創的かつ龍馬らしいのは、長崎における亀山社中の結成ではなかったか。亀山社中は、藩から独立していながら、貿易を生業とする商社的な組織であった。


上野彦馬墓

 龍馬像のある広場から少し下に墓地があり、上野彦馬を含む上野家、唐通事林・官梅家、阿蘭陀通詞加福家の墓が立ち並ぶ。
 上野彦馬を生んだ上野家は代々絵師の家で、絵画のほか鋳金などに秀でていた。初代は上野左衛門尉英傳といい、墓碑に延宝三年(1677)という年代が刻まれている。ほかに三代若元、五代若瑞、六代俊之丞(彦馬の父)などの墓碑が立つ。

(龍馬通り)


龍馬通り


龍馬のブーツ像

 龍馬通りを進むと、龍馬のブーツ像というユニークな記念碑に出会う。ここで龍馬に倣ってブーツを履いて、龍馬になった気分で長崎の街を見下ろそうという趣向である。
 このブーツ像は、「亀山社中ば活かす会」が亀山社中創設百三十年を記念して平成七年(1995)に建立したものである。龍馬がブーツを履いて長崎で新しい時代へと駆け抜けたことに想いを馳せて欲しいという願いがこめられている。

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長崎 寺町 Ⅳ

2015年07月05日 | 長崎県
(大光寺)


大光寺


堀達之翁墓

 長崎をあとにするに当たって、心残りは大光寺の堀達之助の墓であった。堀達之助は吉村昭の小説「黒船」の主人公である。この小説は、歴史の大波に翻弄される男の人生を活写した名作である。この本を読んで感動した私としては、是が非でも堀達之助の墓を訪ねておきたかった。前日、大光寺の墓地を散々歩き回ったが、見つけることはできなかった。そこで長崎最終日の早朝、再度大光寺墓地を歩くことにした。
 堀家墓所は、大光寺の墓地の中でも一番高いところにある。前日、近いところまで来ていたのだが、あと一歩上る必要があったということである。
 堀達之助は、文政六年(1823)長崎のオランダ通詞の家に生まれた。弘化二年(1845)小通詞末席となる。嘉永元年(1848)、アメリカ捕鯨船員のマクドナルドから我が国で初めて英語を学んだ。ペリー来日の際、黒船に接近してI can speak Dutch!と歴史的第一声を放ったのが堀達之助であった。ペリー二度目の来日の際、オランダ小通詞として活躍。日米和親条約の締結にも貢献した。その後、下田詰めとなったが、安政二年(1855)、ドイツ通商要求書簡を独断で没収した罪により入牢(冤罪といわれる)。在獄中は、吉田松陰と交流を持った。安政六年(1859)古賀謹一郎の尽力により赦され出獄。蕃書調所対訳辞書編輯主任に抜擢され、専ら外国新聞の翻訳刊行に当たった。文久二年(1862)、官板バタビヤ新聞を発行し、我が国新聞紙上の第一頁を飾った。文久元年(1861)西周とともに教授方に任じられ、この頃、英和対訳袖珍辞書を洋書調所から出版して我が国勃興期の英学界に大いに貢献した。のち開成所教授。維新後は函館裁判所参事席、開拓使大主典書記官に累進したが、明治五年(1872)依願退職。以後は郷里長崎に帰り、明治二十年(1894)大阪にて病没。年七十二。
 堀達之助の墓に詣でた私は大満足で長崎をあとにすることができた。


本木昌造(故林堂釈永久梧窓善士)墓

 本木昌造は、文政七年(1824)、新大工町乙名北島家の四男として生まれ、十二歳の時、本木家の養子となった。稽古通詞を経て、小通詞末席(二十一歳)、小通詞(三十歳)を務めている。豊かな天分に恵まれ、多方面に才能を発揮した。海軍伝習掛、通弁官、飽ノ浦製鉄所御用掛、活字板摺立所取扱掛を歴任した。明治元年(1868)には浜町と筑町の間の中島川に日本最初の鉄橋を架設した。幕末から明治にかけて、長年近代印刷の開発に情熱を傾け、明治三年(1870)、新町に新町活版印刷所を設け、活字製造と印刷を開始。近代印刷の基礎を築いた。

(崇福寺)


崇福寺楼門

 朱塗りの楼門が目立つ崇福寺は、長崎を訪れた吉田松陰も見物しており、その後、風頭山の頂上にも上って長崎の景観を楽しんでいる。

(福地櫻痴生誕の地)


福地櫻痴生誕の地

 福地櫻痴は、(1841)医師福地苞庵の長男としてこの地に生まれた。文久元年(1861)と慶応元年(1865)の二回、幕府使節の一員として渡欧。帰国後は官軍占領下の江戸で江湖新聞を発行して、新政府を批判したため逮捕され、我が国新聞史上初の筆禍事件の主役となった。明治七年(1874)、東京日日新聞に入社、のちには社長として吾曹というペンネームで多方面にわたる啓蒙的論説記事を執筆し、世論に大きな影響を与えた。君主主権論を唱え、さらに立憲帝政党を組織して、民権諸党派に対抗した。池之端の御前と称され、晩年は政治小説や歌舞伎台本まで手掛けた。

(大浦けい居宅跡)


大浦けい居宅跡

 大浦けいは、油屋町の老舗の油商大浦家に生まれたが、若い頃から油には見切りをつけ、茶貿易に着目した。安政三年(1856)、イギリス商人オルトとの間で一万斤(約六トン)の貿易に成功し、以後、日本茶を海外に輸出して莫大な利益を得た。明治四年(1871)、元熊本藩士遠山一也がオルト商会との間で行った煙草の取引の連帯保証人となったことから破産に追い込まれた。晩年は不遇であったが、明治十七年(1884)、農商務卿西郷従道より製茶貿易の功績を賞され、褒賞状と功労金二十円を下賜された。現在、住宅地跡には何も残されていないが、当時は敷地四百二十六坪を誇り、お慶屋敷と呼ばれた。長崎を代表する平庭を備えた大邸宅であったという。

(清水寺)


清水寺

 清水寺は、京都の清水寺の僧・慶順によって元和九年(1623)に開基された。当初は京都の清水寺に倣って木造懸造の舞台を持つ構成であった。


聖天堂

 清水寺聖天堂には、大浦けいが信仰していた歓喜天が祀ってあり、熱心に参拝していたという。歓喜天とは、頭が象、身体が人間の姿で表される秘仏で、事業の成功を祈るために祀られたという仏教守護神の一つである。

(大浦家墓地)


是則院心慶妙精日法大姉(大浦けいの墓)

 清水寺の脇の坂道を二百メートルほど上がったとことに、大浦家の墓所がある。この場所は、代々八坂神社の神職を務める小西家の所有地である。明治時代初期に八坂神社の宮司を務めていた小西成則は博学で、大浦けいはさまざまなことを相談していたと伝えられる。
 大浦けいは、明治十七年(1884)五十七歳で世を去った。

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長崎 寺町 Ⅲ

2015年07月05日 | 長崎県
(皓臺寺つづき)


幣振坂

 皓臺寺と大音寺の間の細い坂道を幣振坂(へいふりざか)と呼ぶ。昔、諏訪神社の鳥居に使用するため石材を麓に下す際、人夫たちを鼓舞するために御幣を振ったことに由来するという。この急な坂を、息を切らせて上ると、その途中に楠本滝、楠本イネ、二宮敬作らの功績を称えた顕彰碑がある。さらに坂を進むと、左手に楠本家の墓所がある。


顕彰碑


楠本家之墓(楠本イネ墓)

 楠本家の墓に楠本イネが合葬されている。場石の側面に「実相院法林恵空大姉」という法名とともに、「明治三十六年八月二十六日歿 楠本イネ 七十七才」とある。
 楠本イネは、シーボルトと滝との間に生まれた。滝がシーボルトに宛てた手紙に「イネは器量よしで利発な子」と書いたように、筋の通った高い鼻に碧い目、さらには色白のすらっとした長身で、なかなかの美人だったという。
 二宮敬作の勧めもあり、弘化二年(1845)以降、宇和島の二宮敬作のもとで医業の修業に励んだ。さらに、同じくシーボルトの門人で岡山の石井宗謙のもとで産科を学んだ。その後も宇和島で蘭学者村田蔵六(のちの大村益次郎)についてオランダ語を学んだほか、長崎では医学伝習所の教官ポンぺや精得館教頭ボードウィン、その後任のマンスフェルトなどについて、最新のオランダ医学を学んだ。
 イネの履歴によれば、明治三年(1870)二月から同十年(1877)二月まで東京京橋区築地一番地で産科医を開業とある。明治六年(1873)には宮内省から産科医として御用掛に任命されている。
 イネは我が国最初の女医と言われる。女医の第一号は、明治十八年(1885)、医術開業試験に合格した荻野吟子であるが、イネが開業した当時、このような開業試験制度はなかったため、宮内省の任命をもって、イネが我が国最初の女医と称されることになった。
 明治十年(1877)、築地の病院を閉じて一旦長崎に帰ったが、のちに再び東京で開業した。明治三十六年(1903)八月、没。


二宮敬作墓

 二宮敬作は、伊予国宇和島郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれた。文政二年(1819)、医学修行のため長崎に遊学。同六年(1823)、シーボルトが来日すると、以後約六年間シーボルトに師事した。シーボルトの信頼厚く、文政九年(1826)、シーボルトが商館長ステュルレルの江戸参府に同行すると、敬作もシーボルトの助手として随行してシーボルトの日本研究を助けた。文政十一年(1828)、シーボルト事件に連坐して、敬作も入牢の上、江戸と長崎の追放刑に処された。天保元年(1830)、郷里の宇和島に帰ると、外科医および種痘医として開業。安政二年(1855)には宇和島藩の藩医に任じられた。高野長英や村田蔵六とも交友があり、嘉永二年(1849)、高野長英が宇和島に遁れてきた際には自宅に匿ったといわれる。安政六年(1859)、シーボルト再来日の際には長崎に赴き、シーボルトとの再会を果たした。その後、長崎で開業したが、文久二年(1862)、諏訪町で病没した。五十九歳。
 二宮敬作の墓碑は、イネによって皓臺寺後山の墓地に建立されたが、のちに楠本家墓地内に移設された。


白巖妙滝信女(楠本滝の墓)

 楠本滝は、長崎の銅座町の商人楠本左平、きよ夫婦の四女に生まれた。父左平は、初めは手広く商売を手掛けていたが、次第にうまくいかず、ついには長女のツネや四女の滝を丸山の遊女にした。
 丸山の遊女には、日本人、唐人、阿蘭陀人の三段階があった。ツネは阿蘭陀行となり、源氏名を千歳といった。ツネも美人であったが、滝はそれ以上に美人だったという。滝は十五歳のとき丸山の引田屋(現・料亭「花月」)の遊女となり、其扇という源氏名で阿蘭陀行となった。十六歳のときオランダ商館医シーボルトに呼び入れられた。シーボルトと滝の仲は睦ましく、文政十年(1827)にはイネが生まれた。シーボルト事件が起こると、滝も厳しい取り調べを受けたが、シーボルトをかばい通した。明治二年(1869)、六十三歳で亡くなった。
 滝と同じ墓には、シーボルト帰国後、滝が再婚した時治郎(法名「釋 是念信士」)が葬られている。


山本晴海墓

 山本晴海は、文化元年(1805)の生まれ。高島秋帆に砲術を学び、高弟となった。長崎にて私塾柿陰古屋(しいんこや)を開いた。慶応三年(1867)二月、死去。六十三歳。航海術開拓者竹内貞基は実弟、明治時代に活躍したフランス学者山本松次郎は子である。


得應月潭居士(竹内貞基の墓)

 竹内卯吉郎貞基は、文化十年(1813)の生まれ。兄晴海の跡を継いで海警を司る船番役となった。天保三年(1832)から十二年(1841)まで高島秋帆に西洋砲術を学び、さらに中島広足に師事して国学。和歌を修めた。安政元年(1854)、船番触頭大木藤十郎の指揮下に蘭人グファビュース反射炉使用法、汽船操法等の直伝習を受けて、佐賀藩に出講。安政二年(1855)から幕臣、諸藩士とともに海軍伝習を受けた。安政四年(1857)、観光丸運用長として江戸へ廻航、軍艦教授所教授となり、航海術の普及に貢献し、翌年帰国した。文久二年(1862)家督を山本晴海の子に譲って隠居。文久三年(1863)、五十一歳にて死去した。


天山先生阪本君之墓

 墓地を歩いていて偶然阪本天山の墓に出会った。どうして長崎に天山の墓があるのだろうか。天山は高遠藩を脱藩した後、長州藩や大村藩に招かれて砲術を指南しており、さらに平戸藩でも藩士の教育に当たっている。享和三年(1802)長崎で病没したため当地に墓が設けられたものと思われる。嘉永三年(1850)、吉田松陰は九州遊歴の旅に出る。この時、阪本天山の墓に詣でている。

 この辺りは急な斜面にこびりつくように墓が広がる。その気になって探せば、もっといろいろな人物の墓が見つかるかもしれない。

(大音寺)


大音寺

 大音寺には、フェートン号事件で責任を負って自刃した松平康英の墓がある。また中山家墓所には、シーボルトの高弟美馬順三の墓がある。


長崎奉行松平康英墓所

 松平康英は第八十一代の長崎奉行。初め康秀または康平ともいい、任官して図書頭を名乗った。康英の在職当時、欧州ではナポレオン戦争のさなかでオランダとイギリスは交戦状態にあった。文政五年(1808)八月十五日、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に不法入港し、オランダ商館員二名を人質にとり、燃料、食糧、水を要求した。康英はイギリスの要求を全て飲み、結果、フェートン号は二日後に立ち去った。康英は責任を痛感して、始末を記述した遺書を残して自殺した。享年五十一。市民は深く哀悼の意を表し、諏訪神社内に康平社(図書明神)を祀った。


中山家墓地

 オランダ通詞中山家の墓地には、中山氏の一族二十五基の墓とシーボルトの高弟美馬順三の墓がある。中山家は始祖作左衛門が寛文三年(1663)に稽古通詞(のちに小通詞)任じられて以来、八代にわたってオランダ通詞を務めた。六代作三郎武徳は御用和蘭字書翻訳認掛として、ヘンリック・ドゥフの指導で行われた蘭日対訳辞典「ドゥフ・ハルマ」の編纂に従事し、これを完成させた。


密山即順居士(美馬順三の墓)

 美馬順三は、寛政七年(1795)阿波羽ノ浦で生まれた。長じて学問を志し先ず京に出て、その後長崎で学んだ。ジーボルトが来日するとその門下に列し、シーボルトが開いた鳴滝塾の初代塾頭となった。シーボルトが多くの門人から美馬順三を塾頭に選んだのは、勿論優れた学才もあったろうが、彼の人望の厚さが際立っていたこともあったのであろう。美馬は、賀川玄悦の「産論」をオランダ語に訳して西洋に紹介、ジェンナーの種痘法を日本語訳するなど、多大な功績があった。しかし文政八年(1825)コレラに罹り急逝した。


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長崎 寺町 Ⅱ

2015年07月05日 | 長崎県
(三宝寺)


三宝寺

箕作阮甫が長崎滞在中の宿泊先として利用していたのが、三宝寺である。

(禅林寺)
禅林寺には長崎先人の墓が数多い。幕末維新に関係している人物の墓を紹介しよう。


禅林寺


香月薫平翁

 香月薫平は文政九年(1826)の生まれ。長崎製鉄所勘定役、海軍伝習所掛を経て、明治十二年(1879)、長崎戸長役所を務めた。長崎郷土史に興味を持ち、明治十七年(1884)からその死に至るまで「長崎古事集覧」三十八刊を執筆脱稿。明治二十六年(1893)「長崎地名考」を発刊。また有志とともに長崎の古文書収集保存に努め、長崎文庫として明治二十七年(1894)に設立した。これが現在の長崎県立図書館の前身である。明治二十八年(1895)没。


中村嘉右衛門の墓(左)

 中村盛右衛門(仲熙)、嘉右衛門(茂斉)父子は、唐人屋敷出入の薬種商で、私費で石橋を架け、石畳を寄進。災害の際には多大な寄附を献上するなど、慈善事業に尽くした豪商であった。


池原日南墓

 池原日南は、天保元年(1830)の生まれ。名を香稺(かわか)という。吉田松陰から影響を受けた勤王家であり、国学や和歌にも通じ、長崎本河内で眼科医を開業する傍ら、医業と国学の塾を開いた。本木昌造の活版印刷を支え、印刷の文字も日南が書いた。さらに明治九年(1876)、明治天皇宮内庁文字御用掛として奉仕した。明治十七年(1884)没。


木下逸雲墓

 木下逸雲は、寛政十二年(1800)、代々八幡町の乙名(名主)を務める家に生まれ、乙名を継いだものの、三十歳のとき辞職し、医業の傍ら画業に専念した。画を石橋融思に学び、南画や狩野、土佐などの諸派を会得。画だけではなく医術、射芸、国雅、管弦、煎茶、篆刻などにも極めた多芸多才な文化人であった。名は相宰。字は公宰。物々子、養竹山人などの号を用いた。慶応二年(1866)没。


吉雄耕牛墓

 吉雄幸左衛門耕牛は、享保九年(1724)オランダ語通詞の家に生まれ、オランダ語だけでなく、天文、地理、医術、本草学にも長け、耕牛から学んだ蘭学者、医師は多い。中でも前野良沢、杉田玄白との交流は深く、「解体新書」に序文を寄稿した。日本の医学界を躍進させた吉雄流外科の開祖でもある。寛政十二年(1800)没。通詞の仕事は子の吉雄権之助に引き継がれた。

(皓臺寺)
 皓臺寺の小曾根家の墓所に、近藤長次郎の墓がある。


皓臺寺


梅花書屋氏墓(近藤長次郎墓)

 近藤長次郎は、幼い頃から学問・武術を好み、江戸に遊学して高島秋帆のもとで砲術を学んだ。勝海舟の門下に入り、神戸海軍操練所でも修行を続けた。慶応元年(1865)、亀山社中結成に参加し、龍馬の片腕となった。薩摩藩の名義を借りて長州藩の軍艦・武器購入の計画が起こると中心的役割を果たした。その直後、英国への単独渡航の計画が露見し、盟約違反を問われて。長崎小曾根邸内にて自刃した。それを知らされた龍馬は「おれがいたら殺しはせぬのじゃった」と妻お龍に語ったという。墓に刻まれている「梅花書屋」は自刃した小曾根邸の部屋に因んだもの。


服部源蔵の墓

 近藤長次郎の墓の横には、亀山社中に属した小曽根英四郎の墓がある。同じく小曾根家の墓域に津藩士服部源蔵なる人物の墓もあるが、この人物については詳細不明。

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長崎 寺町 Ⅰ

2015年07月05日 | 長崎県
(眼鏡橋)


眼鏡橋

 長崎を代表する観光スポットの一つである眼鏡橋は、我が国最古の石造りアーチ橋で、寛永十一年(1634)、興福寺唐僧黙子(もくす)禅師によって架設された。川面に映るその姿から、古来「めがね橋」と呼ばれていたが、明治十五年(1882)、正式に眼鏡橋と命名された。「めがね」を見ようと思ったら、晴れた日の方が良い。

(近藤昶次郎顕彰碑)


近藤昶次郎顕彰碑

近藤昶次郎(長次郎)の顕彰碑である。平成二十三年(2011)に建立された、比較的新しい碑である。表には義父に送った歌が刻まれている。

うき雲の立ちおほふなるうきよなり
きへなばこれをかたみともみよ

(玉川亭跡)


玉川亭跡

 現在、八幡町の友愛八幡町保育園のある辺りに玉川亭という料亭があった。安政二年(1855)頃、藤井利平という人が西上町で創業し、のちにこの場所に移った。川魚料理で有名な店だったという。二代目の藤井静治は包丁道に通じ、四條家から包丁免許鑑札を授けられたほどであった。慶応三年(1867)八月二十日、坂本龍馬、佐々木三四郎(土佐藩士)は長州の桂小五郎、伊藤博文と会い、政治情勢に関して意見交換したと伝えられる。このとき桂から船修理の資金不足について相談を持ち掛けられた龍馬は、土佐商会に掛け合い調達している。
 長崎の街を歩いて感心するのは古い料亭やその跡地を示す説明が多く存在していることである。それだけ幕末の長崎には多くの人が集まり、盛んに情報交換をしていたのであろう。

(上野彦馬生誕地)


上野彦馬生誕地

 眼鏡橋から一本南の筋を数分歩くと、しもむら産婦人科という病院がある。まさかこの産婦人科で生まれたわけではなかろうが、ここが上野彦馬の生誕地である。彦馬と龍馬が並ぶユニークなモニュメントは、かつて中島川沿いにあったが、いつの間にかこの場所に移転している。
 上野彦馬は天保九年(1838)、銀屋町に生まれた。父俊之丞(しゅんのじょう)は、長崎奉行所の御用時計師で、ダゲレオタイプ・カメラ(銀板写真機)を日本で初めて輸入した人物である。彦馬は十六歳のとき、広瀬淡窓の私塾咸宜園で漢学を学び、その後長崎に戻ってポンぺのもとで舎密学(化学)を学んだ。このとき湿板写真術に興味を示し、津藩士堀江鍬次郎とともにフランス人ロッシェについて写真術を学んだ。彦馬は多くの著名人の写真を残すとともに、写真技術の発展に大きな足跡を残した。

(清風亭跡)


清風亭跡

 万屋町の商店街から少し脇に入った駐車場の前に清風亭があったことを示す説明がある。
 慶応三年(1867)一月、坂本龍馬が、土佐藩士溝渕広之丞と松井周助の斡旋により、土佐藩参政後藤象二郎と料亭清風亭で会談を持った。龍馬と後藤象二郎は、仇敵同志であったが、この会談で意気投合した。以後、共同して政治活動に邁進することを約束し、その一つの成果として同年四月には海援隊が成立した。また同年十月には大政奉還へと結び付いたことから、清風亭会談は幕末史上重要なものと位置づけられている。会談の後、亀山社中の同志が龍馬に後藤象二郎のことを尋ねると「近頃の上士の中では珍しい人物だった」と語り「彼と我とは昨日までは刺せば突くという敵同志であったのに、あえてこれまでのことには触れずに、ただ前途の大局のみを話す。これは人物でなければできない。また話題を常に自分にひきつけ、他人に引きずられないところは、全く才物である」と話した(「維新土佐勤皇史」より)。なお、この会談には、後藤象二郎の計らいで、龍馬の馴染みの芸妓であるお元も同席していた。お元は、大江卓の追憶談「長崎見聞」に龍馬馴染みの芸妓と紹介されている。
 清風亭は、佐々木三四郎の日記にもしばしば登場しており、土佐藩とは関係の深い料亭であった。また、明治初年、大隈重信が長崎から上京する際には、ここで送別の宴が開かれている。

(光永寺)
 光永寺門前に「福沢先生留学址」と記された石碑がある。


光永寺


福沢先生留学址

 福沢諭吉は、安政元年(1854)、十九歳のとき来崎し、中津藩家老の子、奥平壱岐の世話で光永寺に一時寄宿し、その後、出来大工町にあった高島秋帆門下の砲術家山本惣次郎の家に移り、長崎で約一年蘭学を学んだ。滞在中は、勉学に励むため接客時以外は酒を飲まなかったといわれる。福沢は安政五年(1858)、江戸に出て築地で蘭学塾を開いた。これが慶應義塾の前身である。

(光源寺)


光源寺

 光源寺墓地には亀山社中に所属した二宮又兵衛の墓碑があるらしい。今回は時間がなくて割愛した。機会があれば、次回挑戦したい。

(延命寺)


延命寺

 延命寺の山門は、長崎奉行所立山役所の門扉を移築したものである。

(長照寺)


長照寺

嘉永六年(1853)、ロシア使節プチャーチンの応接掛を拝命した筒井政憲は長崎に入ると、長照寺を宿泊先とした。

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長崎駅南側 Ⅱ

2015年07月05日 | 長崎県
(長崎県庁)


イエズス会本部
奉行所西役所
長崎海軍伝習所跡

 長崎県庁の正門前には、「イエズス会本部 奉行所西役所 長崎海軍伝習所跡」と記された石碑が立っている。
 長崎海軍伝習所は、安政二年(1855)、幕府が海軍士官の養成のために設立したもので、築地の軍艦操練所が整備されたため、安政六年(1859)に閉鎖された。幕臣のみならず、佐賀藩士、薩摩藩士も参加していた。
 安政二年(1855)、勝海舟は長崎奉行西役所内に設立された長崎海軍伝習所に一期生として派遣され、オランダ人から西洋技術、航海術、砲術など多くの近代的知識を習得した。
 海軍伝習所の二期生には、榎本武揚がいる。榎本武揚は、安政三年(1856)長崎に派遣され、航海術、舎密学などを学んだ。二年後の安政五年(1856)には東京の軍艦操練所の教授となり、文久元年(1861)には幕府の軍艦開陽丸の建造監督を兼ねてオランダに留学し、造船術、船舶運用術、砲術のほか、国際法規も学んだ。


楢林鎮山宅跡

 県庁の裏口?付近に楢林鎮山宅跡石碑がある。楢林鎮山は、寛文九年(1669)小通詞、貞享二年(1685)に大通詞に任じられ、その傍らオランダ商館医ホフマンらから医学を学び、のちに楢林流外科を創始した。楢林家は以降十二代にわたって阿蘭陀通詞を務めた。また楢林流外科は鎮山の子、栄久が別家を立てて相続し、六代にわたって外科を業とした。五代目がシーボルトに学んだ楢林宗建で、我が国にジェンナー式の種痘を普及させるために大いに貢献した。

(土佐商会跡)


土佐商会跡

 西浜町アーケード前電停に土佐商会の石碑がある。
 土佐商会は、開成館貨殖局と呼ばれ、その長崎出張所は、慶應三年(1867)二月頃、西浜町に開設された。最初は後藤象二郎が、後には岩崎弥太郎が主任となり、辣腕を振った。長崎出張所の目的は、大砲や弾薬、さらには艦船等を調達することにあったが、そのための資金は、土佐の樟脳や鰹節などを売却して捻出した。坂本龍馬率いる海援隊には、隊員それぞれに月々五両を支給するなどの援助をした。海援隊は土佐藩の保護のもとにあったので、海援隊旗は土佐藩旗と同様に「赤白赤」の二曳と呼ばれるものであった。明治二年(1869)正月、岩崎弥太郎は大阪商会(旧開成館大阪出張所)に転出し、以後大阪を拠点に活躍したが、長崎での経験がその後の九十九商会、三菱商会へと発展する原動力となった。


夕顔丸

 土佐商会の石碑のすぐ近くに夕顔丸の模型が置かれている。夕顔丸は、1863年にイギリスで建造された鉄製の蒸気船(約六百トン)で、慶應三年(1867)、イギリス商人オルトから購入した土佐藩は夕顔と命名して運用した(夕顔丸は通称)。同年六月、この船で長崎から上方へ向かった坂本龍馬は、航行中に船中八策を考案したとされる。

(出島)
 出島は、市内に分散して居住していたポルトガル人を収容するために、出島町人二十五人に命じて造らせた人工の築島である。寛永十一年(1634)に着工し、二年後に完成した。その規模は東西二百十メートル、南北六十メートル。面積は一万三千㎡(ほぼ東京ドームと同等)であった。寛永十四年(1637)に起こった島原の乱を契機にポルトガル人の来航が禁じられ、出島からもポルトガル人が追放された。幕府は寛永十八年(1641)に平戸の和蘭商館を移転し、西欧との窓口を長崎の出島に集約した。


史跡 出島和蘭商館跡
(背後のゆるキャラは「さるく君」)

 出島に居住するオランダ商館員は、カピタン(商館長)以下十数人で、雇い人を入れて総員三十人程度であり、唐人屋敷とは比較にならないほど少人数であった。周囲は土塀で囲まれ、中央に一箇所だけ橋が架けられ、橋を渡ったところには番所が置かれていた。出島への出入は、役人と通詞と遊女、それに特定の商人だけに許されていた。商館員は妻の同伴も認められなかった。



 平成十六年~平成十七年(2004~5)に行われた発掘調査により、十段から十一段に及び石垣が発見された。この石垣は出島の南側護岸石垣の中央部分に当たる。使用された石材や石積み工法などから大きく三期に分けられることが分かった。できるだけ当時の工法を用いて復元されている。


護岸石垣


出島外景

 出島は、その名の通り、かつて海に突き出た島であった。明治十八年(1885)に始まる中島川の変流工事で一部を削り取られ、周囲を埋め立てられてしまった。今では島であったことは実感しにくい。外から見ると、綺麗な円弧を確認することができる。これによって辛うじて我々は教科書で見た扇型の出島を想像することができよう。
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