(鳴滝)
江戸時代、この付近は景勝地として有名で、「長崎名勝絵図」にも崎陽十二景の一つ「鳴瀧浣花」とあり、辺りには桃の木が多く、春は桃の花が川を流れて錦繍を洗うが如しという風情であった。また長崎の有力者の別荘地でもあった。
延宝年間(1673~1681)、第二十四代長崎奉行牛込忠左衛門が、京都洛北の鳴滝をしのび、この地を鳴滝と命名した。
鳴滝
(シーボルト宅跡)
シーボルト通りと名付けられた道を溯ると、シーボルト宅跡とそれに隣接したシーボルト記念館に出会う。
シーボルト先生之宅址
シーボルト宅跡
ちょうどシーボルト記念館では、特別展「シーボルトとオタクサ」展を開催していたが、シーボルトがアジサイの和名に愛する妻の名前からオタクサ(お滝さん)を名付けたことはよく知られている。その縁もあってシーボルト宅にはたくさんのアジサイが植えられている。
文政六年(1823)に出島和蘭商館医として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や門弟への教育活動、日本研究などを行った。日本全国各地から集まった門弟は、西洋の進んだ学問や科学的な思考を学び、やがて蘭学医などとなって我が国の近代化に大きく貢献した。その一方で、シーボルトは動物や植物を始めとする日本のあらゆるものを対象として、科学的に調査研究を行い、後年その成果をまとめ、ヨーロッパにおいて日本を正しく紹介することに努めた。
開国後の安政六年(1859)、再来日を果たしたシーボルトは、この地を住居と定め、日本各地の植物を取り寄せて植物園を作るなど、再び鳴滝を拠点として日本研究を継続した。
シーボルト像
(シーボルト記念館)
シーボルト記念館
若き日のシーボルト像
シーボルトは、1796年、ドイツのバイエルン公国ヴュルツブルグ生まれた。父は大学教授。長じてヴュルツブルグ大学に医学、植物、動物、地文、人種の諸学を学んだ。1822年、和蘭東インド会社に入り、1823年、長崎出島に商館付医員として着任した。医学・博物学の研究の傍ら、日本人を診療し、医学生の教授に当たった。文政九年(1826)、商館長スツルレルの江戸参府に随行して日本人との交友を深めた。文政十一年(1828)八月、帰任に当たり、いわゆるシーボルト事件により国外追放を受け、オランダに帰った。帰国後は日本関係の著作の執筆に従事した。日蘭修好条約、通商条約が結ばれてからは、日本の外交政策について種々画策して、安政六年(1859)七月、和蘭商事会社評議員として再来日を果たした。文久元年(1861)幕府より顧問として招聘を受け、江戸に上って種々建言し、また学術面でも教導に当たったが、必ずしも彼の熱意を満たすものではなく、幾ばくもなくして解職。同年十二月、長崎に帰り、翌文久二年(1862)、日本を去った。翌年、オランダ政府の官職を辞し、1866年、ミュンヘンで没した。年七十。
シーボルトが追放された翌年、天保元年(1830)に滝がシーボルトに送った嗅ぎ煙草入れで、黒漆の表面に滝の肖像、裏面に娘のイネが描かれている。イネは当時三~四歳と思われ、碧い瞳が印象的である。通常は複製品の展示だが、今回、幸いにして実物展示を見ることができた。
シーボルト家の紋章
二階のステンドグラスは、シーボルト家の紋章となっている。
江戸時代、この付近は景勝地として有名で、「長崎名勝絵図」にも崎陽十二景の一つ「鳴瀧浣花」とあり、辺りには桃の木が多く、春は桃の花が川を流れて錦繍を洗うが如しという風情であった。また長崎の有力者の別荘地でもあった。
延宝年間(1673~1681)、第二十四代長崎奉行牛込忠左衛門が、京都洛北の鳴滝をしのび、この地を鳴滝と命名した。
鳴滝
(シーボルト宅跡)
シーボルト通りと名付けられた道を溯ると、シーボルト宅跡とそれに隣接したシーボルト記念館に出会う。
シーボルト先生之宅址
シーボルト宅跡
ちょうどシーボルト記念館では、特別展「シーボルトとオタクサ」展を開催していたが、シーボルトがアジサイの和名に愛する妻の名前からオタクサ(お滝さん)を名付けたことはよく知られている。その縁もあってシーボルト宅にはたくさんのアジサイが植えられている。
文政六年(1823)に出島和蘭商館医として来日したシーボルトは、翌年鳴滝に塾を開き、患者の診療や門弟への教育活動、日本研究などを行った。日本全国各地から集まった門弟は、西洋の進んだ学問や科学的な思考を学び、やがて蘭学医などとなって我が国の近代化に大きく貢献した。その一方で、シーボルトは動物や植物を始めとする日本のあらゆるものを対象として、科学的に調査研究を行い、後年その成果をまとめ、ヨーロッパにおいて日本を正しく紹介することに努めた。
開国後の安政六年(1859)、再来日を果たしたシーボルトは、この地を住居と定め、日本各地の植物を取り寄せて植物園を作るなど、再び鳴滝を拠点として日本研究を継続した。
シーボルト像
(シーボルト記念館)
シーボルト記念館
若き日のシーボルト像
シーボルトは、1796年、ドイツのバイエルン公国ヴュルツブルグ生まれた。父は大学教授。長じてヴュルツブルグ大学に医学、植物、動物、地文、人種の諸学を学んだ。1822年、和蘭東インド会社に入り、1823年、長崎出島に商館付医員として着任した。医学・博物学の研究の傍ら、日本人を診療し、医学生の教授に当たった。文政九年(1826)、商館長スツルレルの江戸参府に随行して日本人との交友を深めた。文政十一年(1828)八月、帰任に当たり、いわゆるシーボルト事件により国外追放を受け、オランダに帰った。帰国後は日本関係の著作の執筆に従事した。日蘭修好条約、通商条約が結ばれてからは、日本の外交政策について種々画策して、安政六年(1859)七月、和蘭商事会社評議員として再来日を果たした。文久元年(1861)幕府より顧問として招聘を受け、江戸に上って種々建言し、また学術面でも教導に当たったが、必ずしも彼の熱意を満たすものではなく、幾ばくもなくして解職。同年十二月、長崎に帰り、翌文久二年(1862)、日本を去った。翌年、オランダ政府の官職を辞し、1866年、ミュンヘンで没した。年七十。
シーボルトが追放された翌年、天保元年(1830)に滝がシーボルトに送った嗅ぎ煙草入れで、黒漆の表面に滝の肖像、裏面に娘のイネが描かれている。イネは当時三~四歳と思われ、碧い瞳が印象的である。通常は複製品の展示だが、今回、幸いにして実物展示を見ることができた。
シーボルト家の紋章
二階のステンドグラスは、シーボルト家の紋章となっている。