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上杉家のお城

2016-08-05 08:40:45 | Weblog

 おはようございます。

 御霊屋を見て感動して、タクシー運転手さんに、城址公園だけに行けば良い、早めに駅に行きましょう、と私が言いました。米沢牛のお土産を孫に買って帰りたかったから、買い物の余裕を残したかったからです。おまけに米沢より小野川に興味があり、事前に米沢市内の観光地図と案内を良く見ていませんでした。城址は石垣と堀に囲まれた、シャープ奈良工場時代、よく子供と遊んだ豊臣秀長の居城の桜の名所を想像していたのです。私が今まで見学したお城はそのような創りが普通でした。米沢も廟所から距離があると思っていたのです。

 ところがどうやらこのあたり全体が城址のよう。米沢は貧乏な藩。米沢藩がお金をかけず作ったお城。山城でもないし、地面に土を盛り、周りに堀をめぐらした石垣もない構造だったよう。役所や真言宗の複数の寺を二の丸に、上級や中級の武家屋敷を三の丸に置く、典型的な平地の城でした。明治になり、そのまま役所に建物は利用されたようです。ですからこの一角全部が城址であり、ごく一部が花見のための公園として利用されているようです。

 まさに、謙信の春日山城と同じつくりだそうです。会津のお城はそのような作りではなかったはず。上杉家の伝統が石垣なしとは驚きました。会津のお城と言えば、鶴ヶ城でしょう。鶴ヶ城も町中にあり、たしか隣に会津の検察の、監獄がありました。米沢城と同じように、周りは市の庁舎があったはず。でも、立派な天守閣はありました。10年前にも登ったことを覚えています。このお城は、会津を継いだ保科家保科正之の居城、悲劇の白虎隊で有名。小学校の修学旅行でも見学しましたが、堀も石垣もある典型的な城らしいイメージでした。

 米沢のお城には石垣もない理由は、金欠と、春日山城の構造に習った説があるようです。でも、私は違うように思えます。上杉の伝統は、町から出て戦う、堀を背に戦う背水の陣なのではないか。負けることを知らない、謙信。川中島の戦いはたまたまの遭遇戦の野戦になった、死ぬか生きるかの戦い。城を攻めるときは石垣も堀も克服する戦法なのかもしれません。だから自分は石垣は要らない。まさに人は石垣なのでしょう。やっと謙信や鷹山公が好きだった本当の理由に出会えたような気がしました。

 城の構造が今のエコ時代に生きているし、鷹山公の施策にすら手助けになったように感じています。日本経済が沈下しても、米沢は必ず発展するでしょう。果たして、上杉景勝や鷹山公はそこまで考えていたか、あの世で会えたら聞いて見たいと思いました。(笑)

 今日はここまでです。南無阿弥陀仏、失礼しました、プロに怒られるかも。素人は大胆に考えてしまいます。

コメント
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