蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 4

2019年04月23日 | 小説
(平成31年4月23日)

レヴィストロースが「構造主義」の主唱者とされる背景として、思索の進め方があげられている。それは(目に見える)物体に対する(頭の中の)思想。2者の相互性を(思索の)根幹、構造としているのだ。
具体的には、ボロロ族が持つ社会に対する思想とは 部族が2の部に分かれ、それら部がそれぞれ4の支族に分割される。支族を継承するのは女で財産(土地、家屋)は母から娘へと受け継がれる。婚姻も特定の支族間でしか結ばれない。こうした幾つかの理念が社会への思想と形成されていて、それを示すのが前回投稿した概略図である。レヴィストロースが現場で実測した図も投稿しているが、そちらは目に見える実際の物である。
この相互性を思考の根源と捉えたきっかけが、いとこ婚の研究である。本書の前作にあたる「Les stuctures elementaires de la parante親族の基本構造1947年出版」に分析が詳しい。交差いとこ婚の(思想としての)図を掲載する。(Les structures...211頁)

写真:親族の基本構造、投稿子が所有するのは第2版2回目印刷1968年

掲載図の解説:Murngin族(オーストラリア先住民)の婚姻システム。ここでの交差いとこ婚は自身を男父親(図のdue男)として、娘(waku)は姉妹(due女)の息子(gurrong)と結婚させ、息子を配偶者(marikumo)の兄弟の娘(mokul-bapa)と結婚させる。dueとして所有していた財産(家、土地)はdue女からgurrong女(私の姪)へ継承され、獲物を狩る技術と権利は私から息子(waku男)に継承される。図を見て男が継承する権利は縦につながり、女のそれは左下がりの斜め線でつながる。

図:同初211頁。男の継承の流れは垂直、女のそれは左下がりの斜め。線を引いておいた

この図は理念、理想、思想なので実際にはこの通りに行かない。Murunginの実例は知らないが、悲しき熱帯Nambikwara族の例では男30歳半ば、先住民では老境とも云える、婚姻できる相手は10歳に達してない。男は辛抱強く少女の生長を待つか、他所部族から女を略奪するしかない。
ボロロ村にもどる;
レヴィストロースは1936年に訪れた。
<Si les habitations conservaient les dimentions et le dispositions, leur architecture avait subi l’influence neo-bresilienne....>(250頁) 訳;寸法と配置は伝統と違わないが、様式にはネオブラジル式に影響されている。
伝統的とは;
中央小屋、同心円配置が基本。その中央の男小屋平面は優雅な楕円形であった。急ごしらえなので長方形。屋根はかつて先頭からなだらかで優雅な曲線でつなぎ、茅葺きが地面に落ちる。今のそれは2段勾配の切り妻屋根に縦壁。これをネオブラジル式とレヴィストロースは皮肉る。
その10年前に再興された新しい村である。1900年初頭に宣教集団のサレジオ会(本部ローマ)が旧弊一掃を目的にして、伝統的村落を打ち壊し、簡易な家屋を族民に提供した。中央に男屋、同心円状に住まい、実はこの配置が彼らの宗教祭儀と大いに関連がある。
そもそも村落の構造は村民の精神と結びついている。平等村に移住したところで制度、精神風土が急変することはないので、新しい村は信仰、習俗と相容れない。男が女共と同居して、どうやって、女には見せてはならない祭儀を実行するのか。この落差に村民が悩んだ。住民多くが心身の不調に陥った(と講義で聞いた、アテネフランセにて)。
ネオブラジル小屋を脱出しボロロ村を再興したのが1920年代である。

写真:村落中央の男屋。生と調理から。方形、切り妻、垂直壁は伝統的建築とは異なる。

村落の配置から精神面、Les vivants et les morts 生者と死者(265頁~)に移る。
レヴィストロースは儀礼、信仰、精霊を語る。

ボロロ族から離れるが、この説明は大変、興味深いので文明社会の死者生者の観念とも絡めて幾行かを費やす。世界中の民族が死者と対峙する態度は2通りに分かれる。

その1 認識する死者(le mort reconnaissant)
(reconnaissantは感謝する、しかしここで死者は意地悪に描写される。よこしまな持ちかけ、裏切りなどだけなので、動詞reconnaitre原義に戻り「自身を死者と認識する」とした)
ヨーロッパ古民話の例で;
負債を返せないまま死んでしまった男、死体を前にしても債権者は近親による埋葬を許さない(埋葬したら天国に行けるから)。豊かな商人が死体を買い取り手厚く埋葬する。その夜、死者が商人の枕元に立ち「これからは何をやっても儲かる、ただし利益は折半」と告げた。翌日の道すがら、王女に出会い男は求婚する。王女の返事は「良いわ」!王女すらモノにできた。新婚の床、被いをめくると王女の下半身は蛇だった。
<Mais la princesse est enchantee : moitie femme, moitie serpent. Le mort revendique son droit, le heros s’incline et le mort , satisfait de cette loyaute, se contente de la portion maligne qu’il preleve, livrant au heros une epouse humanisee>(268頁)
訳:魔法をかけられた王女は半分女、半分蛇となっていた。うちひしがれる男、死者は蛇を女に化かして商人に渡したが、前もって罪深い側(portion maligne、下半身の事)を取り上げていた。自分の取り分にすっかり満足したとさ。
この死者は「認識する死者」であるとしている。

その2 起業家の騎士(le chevalier entreprenant)死者はモノ、自身を認識しない死者。
貧しい男が麦一粒を持ち行商にでた。持ち前の狡猾さで麦を雄鳥に、雄鳥を豚に、牛に換えて死体に換えた。その死体を使って生きる(正真正銘)王女をモノにした。
こちらの死体は化けて出ない、単なる物体である。モノ (le mort comme objet) として死をこき使う。生きる者に主体がある。

1と2の解析(私見)を試みよう;
1認識する死者のケース。
彼はこの世に住まない。
自己を認識するとは住まいを持つ、定住地はあの世、時折この世に出現する。生者の願望を受け入るけれど、要求するところも伝える。能力(魔法)を有する。横死、事故死など不慮の事故で死んだ者は、御利益が負の方向に強力で、この世に出てきたら人々に君臨する。脳溢血、老衰なんかで普通に死んだ者は名が残らない、それでも死者集団に潜り込む。先祖代々と称して家内安全、豊作の保証などを受け持つ。取り決め(祈りお供えなど)をないがしろにする生者には復讐する。

2死者には意識がないケース
彼は死んでも行くところがない。この世にとどまるが、もはや名前なし機能なし。引用の騎士物語では「この死体を懇ろに葬れば金が湧く」のインチキ売り込みの当て馬にされ、投機(姫と結婚)に利用された。カニバリズム(人肉食い)ネクロファジ(死肉食い)では「死者が生前にもっていた勇気知恵」を己に取り込むためなので、これも死者利用となる。ミイラを担ぎ出し家系、族の出自、由来を誇示する儀礼は(ミクロネシア等で)実行されるが、死体の利用の一形態であるとレヴィストロースが教える。
死を利用して儲けよう、その道具。

以下、私感におつきあいを;
日本の死者観を上の分類に当てはめると1となる。
盆には「ご先祖様」が降り立ち、幾日か滞在してお饅頭をパクと食べて満足し、あの世に戻る。すると豊作は間違いなし。沖縄先島諸島で信仰される「ニライカナイ」は訪問する「神」ながら、それをあの世に遊ぶ「死者」とすれば本土の風習、盆と重なる(柳田、折口が指摘している)。また浄土信仰とは阿弥陀の極楽浄土に往生を願う信仰なので、死者には強烈な極楽往生、目的の意志が残る。日本では中世以降、真宗が広めたとされる。

日本人は死者とは意識を持たない2のケース、この死者観も併せ持つ。
神道の教えは「死は穢れ」だから捨ててしまえ。葬列とは死者を「捨てる」儀礼であった。青浜、青谷、青山など青を被る地名は捨て場であった(谷川健一)。古くはイザナミが洞穴に捨てられ、イザナギが見た姿は腐敗した屍だった。捨て場は化野にあり、姥捨て伝承が流布していたこの国なのだ。
お骨を「海にながす」「森にばらまく」などの風習が葬儀の一形態として受け入れられていると聞く。わたつみ葬、森林葬を実行する遺族の心境は小筆にも理解できる。死体を捨てていたかつての、神道的無常が日本人の心に復活しているかと感じる。
1と2の同時信仰は成り立たない。死の世界観を日本人がどのように組み立ているのか、回答はできない。
私感はお終い。

悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 4 了

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