(平成31年4月25日)
前回4月23日投稿では2の挿話、認識する死者と、物としての死者を紹介した。いずれもヨーロッパの古民話。ヨーロッパではキリスト教が広まる以前には、死者へ両の認識があった傍証であろう。では今はどちらかの質問に、レヴィストロースは1認識する死者であると断言する。ヨーロッパ、キリスト教の影響の下、死者は何を認識するのか。
<il n’est pas douteux que l’attitude speculatrice s’est progressivement effacee au profit de la conception contractuelle des rapports morts et vivants...par la formule de l’Evangle : laissez les morts ensevelir les morts>(270頁)
訳;投機への態度が徐々に薄れ、(葬儀礼は)死者と生者が契約する場とする思考に入れ替わった。この変遷は疑いようもない。福音書の公式の影響である。死者には葬儀を施し、後は放っておけば良いとする。(ここで使われる葬儀(ensevelir)は屍衣を着せ棺に安置し、焼かずに地に埋め墓標を建てるまでの儀式となる。これが死者との契約である。ここまで恩を帰せれば死者は満足する。この場合はreconnaissant認識するは、感謝する、本義になる)
解説:福音書の公式とは何か。ヨハネ黙示録が伝える「最後の審判」である。キリスト者はこの世の終わりに神が執り仕切る最後の審判(jugement dernier)に臨む。神が善人悪人を判定して、善人だけが天国に迎えられる。(と信じる)。故にキリスト者はとっておきの服装、髪型、顔色なども生きる姿形のまま、善行の記憶も棺桶の中でしっかり胸に留めて、神の審判を待つ。生き様を証明するには生きたままで埋葬してもらわないと。
生身で埋める(inhumer)はカソリック葬儀の基準である。
法王は火葬(insinerer)された死者でも最後の審判に臨めると宣言した(1961年)。が、今もってキリスト教徒は灰cendre(お骨)が神の前に立ち、「こんなに上等な背広を着た良き市民」と、どうやって陳述するかに想像が及ばない。火葬の比率はフランスで30%、イタリアで10%と未だ少数派である。=Le triomphe de l’incineration, パリ第一大学Philippe Boutry教授、東京恵比寿日仏会館2019年3月4日の講演、小筆の聞き取り。
(洗礼前の乳児、自殺、行き倒れ、終身刑徒=本来は死刑の罪、係累不明者、非キリスト者も含む)
さて、
世界中、全ての部族は、レヴィストロース提起の2分類の死者定義では1あるいは2、ないしはその折衷型として特定できるとレヴィストロースは教える。しかしボロロ族はいずれにも属さない。1と2を同時に信仰する希有な族とレヴィストロースは報告する。
Bororo章 les morts et les vivants(死者と生者)を読み進める。
信仰では死ぬと(取り憑いていた霊が)金剛インコに転生する。自然に戻るのでボロロ族は自然に貸しができたと信ずる。これがmori(自然への債権)である。
<la mort est a la fois naturelle et anti-culturelle=中略=Le dommage dont la nature s’est rendue coupable envers la societe entraine au detriment de la premiere une dette , terme qui traduit assez bien une notion essentielle chez les Bororo, celle de mori>(271頁)
訳;死は自然起因でありかつ反文化である。自然にその責任が帰される社会側の損害については、前者(自然)の代償になる負債が生じることとなる。この概念を端的に表す語がmoriである。
死を「自然死」と理解してはならない。死とはどのような場合でも、自然が介入しボロロの男を死に至らしめる。「ちょっかいを出す」ととらえれば良い。こう考えてanti-culturelleに理解が及ぶ。死とは自然から社会への敵対行為である。結果として死者の霊は自然に飛び去りインコに変身したから、自然の利得として数えられる。ボロロ族は自然に債権を持つことになる。(ボロロの男と特定した理由は、女が死んで何も残らないとの信心を彼らが持つからである)
<Quand un indigene meurt , le village organize une chasse collective, confiee a la moitie alterne de celle du defunt : expedition contre la nature qui a pour objet d’abbatre un gros gibier, de preference un jaguar..>
訳:人が死ぬと村人は集団での狩りを組織する。死者の属する対抗部の成人が参加する。ねらう獲物は大型の動物、誰もがジャガーを期待する。
死者がでると自然への貸しが発生するとし、男達は集団でジャガー狩りを組む。しかしジャガーは容易に射止められる獣ではない。手ぶらで帰るも多いとか。
ジャガーには利用価値がある。
族民らが我(レヴィストロース)のirara(=vertus、善行)に気づいて、葬祭狩り隊長に任命してくれていれば良かったのだが。死者がでたのは到着した翌日だったから、(私を正しく評価する)時間が足りなくて、誰もそんな提案を持ってこなかったのはやむを得ない。もしやそうなっていたら、隊長の私(レヴィストロース)がせしめられたのは;
le brassard de cheveaux humaines (髪でできた腕輪)
clarinette mystique formee d’une petitte calebasse、anche de bammbou(奇怪な音を出す竹リード付き小さなひょうたんの楽器、獲物の皮剥に際して演奏する)
collier de disques en coquillages(貝の首飾り)
これまでがレヴィストロース隊長が持てるはずだった道具。(せしめてmusee de l’hommeに寄贈するつもりだったろう)
la viande(おいしい肉、ジャガーが獲れたとして)
le cuir(毛皮、もっとも重要)
les dents(歯)
les ongles(爪、上の3点と合わせレヴィストロースが遺族と山分けできた。272頁)
(どう考えてもボロロ族がレヴィストロースを隊長に任命する道理がない。言葉の遊びだが、ジャガー狩りの形態と目的が理解できる)
これほどの価値をジャガーが産み出すが、それも男が死んだから。族民の死をタテに取り自然側に「難癖をつけて」、ジャガーを狩る利権を獲得し毛皮などを手にする。このやり口は死体利用での究極の2ではあるまいか。
(ボロロ族は平素、言い伝え(神話)で狩っても自然に許されるとつじつまをあわせている特定の野豚(ペカリ)、鼻熊、鳥類、魚など捕る。大型動物はジャガーに加えバクがあげられるが日常の狩りの獲物としていない)
順は逆になったが1、認識するする死体(le mort reconnaissant)へのボロロ思想とは;
<ils (animaux) appartiennent pour partie au monde des hommes, surtout en ce qui concerne les poissons et les oiseaux, tandis que certains animaux terrestres relevent de l’univers physique. Ainsi les Bororo considerent-ils , que leur forme humaine est transitoire : entre celle d’un poisson st celle de l’arara ( sous l’apparence duquel ils finiront leur cycle de transmigration). Si la pensee des Bororo (pareils en cera aux etshnographes ) est dominee par une opposition fondamentale entre nature et culture...>
訳; 小動物および全ての魚と鳥は人間世界に所属する。しかし地に棲む幾種かの動物は物質(自然)界に属する。ボロロ族男の生きる今は人としての形であるが、魚と金剛インコの間の、仮の姿でしかないと考えている。ボロロ族の思考、民族誌学の先達もそのように解釈しているのだが、根底に文化と自然の対立があるとすれば....
文化と自然の対向を考えの根本にボロロ族は置く。
人間界は村落、田畑に限定されず動物、魚、鳥も含めた(西欧感覚から判断しての)自然の領域に広がる。自然界は(大型)動物、それらが棲む奥深い山川、森で構成される。そして霊が自然と文化を行き来する。それは魚霊として生まれ、転生し人に取り憑き、後にインコに変わる。
この転生する実体は何か。レヴィストロースはそれをame=霊と教える。
写真はボロロの葬式、男のみで追悼する。呪術師Bariが葉を全身にかぶって死霊を装う。腰蓑を着用する縁者。著作より。
民族、部族の多くは「霊は人の霊、取り憑いている人の分身」と捉えている。日本人では菅原道真が憤怒のあまり霊に化け人間界に悪さしても、その霊の心と姿は道真の憤怒版そのものである(と考える)。
ボロロ族の信心はそこにない。
生きている間は身体に潜み、死んだら抜け出てインコに取り憑く霊は「人の霊」でも「インコの霊」でもない。人に取り憑くけれどその人と同体となるわけでなく、別体アルターエゴでもない。人が死んだら離反して、前の借宿など忘れる。
故に、取り憑いた人が死んでモノに果てても霊は自らの意識を保ったままインコに姿を借りてあの世(自然)に生きる。転生する主体はこの霊である。
一時を生きるボロロ人は背に憑いた霊にすがり、考えて動いて死に臨む。これまでと諦め死骸となればモノに果つる。霊は取り憑き主をインコに鞍替えして自然に生きる。
雄大にして虚無、これがボロロ族の生死観です(あくまで小筆の理解です、レヴィストロースは詳細を語っていない。故に語の意味、文と行のつながりを解釈すると上記にまとまる。オーバー解釈であるとの指摘には甘受するしかない)。
この霊は1の意識を保ち人間界と契約する霊です。
一方、自然に入ったインコの霊、その他諸々のあの世の霊とBororoは語り合えない。bariが仲介に出てくる。
<Les bari forment une categorie speciale d’etres humains qui n’appartiennent completement ni a l’univers physique, ni au monde social, mais dont le role est d’etablir une mediation entre les deux regnes>(272頁)
訳;bariは人間ではあるものの特別な範疇に属し、物質宇宙に完全には帰せずといって社会世界に属している訳でもない。両の世界を結ぶ役割を担うのだ。
(物質宇宙(univers physique)を自然nature、社会世界monde socialを文化cultureと言い換えれば理解は易しい)
<Le bari est un personnage asocial. Le lien personnel qui l’unit un ou plusiers esprits lui confere des privileges ; aide surnaturelle quand il part pour une expedition de chasse solitaire, pouvoir de se transformer en bete, et la connaissance des maladies ainsi que des dons prophetiques.>(273頁)
訳;bari、その人格は反社会である。一のあるいは複数の精霊(esprit)と結びつき特権を享受している。超自然(surnaturelle)の加護を受けるので、獣に化けて狩りに出て収穫をあげるのはお手の物、病の知識、預言者としての警鐘も受け持つ。(ここでのasocial「反」社会は「反逆」ではなく「社会と対峙」ととらえたい。辞書には第3義としてpersonne qui n’est pas integree a la societe とあるGR)
自然からの恩寵がbariを通じ人に授けられる。それらを整理すると;
1 bariが狩りでると獲物がごっそり
2 疾病を診断し(おそらく)治癒
3 自然現象、報せは災厄か警鐘かの預言
<Le gibier tue a la chasse, les premieres recoltes des jardins sont impropres a la consommation tant qu’il n’en a pas recu sa part. Celle-ci constitue le mori du par les vivants aux esprits des morts ; elle joue donc, dans le syteme, un role symetrique et inverse de celui de la chasse dont j’ai parle>(273頁)
訳;狩りの獲物と初めての収穫は、その分け前(bariの分)を取るまでは食してはならない。この分け前はmori=生きる者が持つ自然に対する債権=と反対にある。
注釈;自然へ突きつけた債権がmori。一方、人が平素、狩る獲物や収穫は(自然からの収奪であるから)bariが堪能するまで消費の対象にしてはならない。(お供えだが、bariは実際に食する)
図はジャガー、著書(Le cru et le cuit)より。
<Mystifies par la logique de leur systeme, les indigenes ne le sont-ils pas aussi autrement ?>自分たちの(虚構)システムにより煙に巻かれた先住民達に別の選択は無かったのだろうか。(虚構は訳にあたり加筆)
システムとは村落の構造、社会制度、神話の体系など幅広い制度、文化と取れる。ボロロのシステムは前述している。おさらいになるが;
社会構成;村落が2分割され(部)、さらに各4分割(支族)されている分節構造。
婚姻;男は母親の部、支族に属する。婚姻の相手は対抗する部、特定の支族、同じカーストの娘と決まる。
身分;男は父親と息子が別の部に属す。
所有形態;家屋、畑地、什器家具の一切は女の所有物。
信仰;憑依していた霊はあの世(自然)に転生する。霊の踊りなる儀式を、死者が出たときに司る。しかし女は生きて死ぬのみ。死んだら何も残らない。
子は母の系統を継ぐ、母系の原理であるが、二分する社会構成と合わさると、男の系統を分断させている(父と子は対立する支族に属する)。男が屋を所有しないから「安住の場」を捜せない。真理不安と生活での軋轢を内包するシステムと言える。
「別の選択」を頭に浮かべるレヴィストロースが感じる杞憂は、この制度が誘発する緊張によるものと思われる。
こちらは写真、ネットから採取。体長120センチ重さ95キロ。虎、ライオンの次に大きい猫科。
男達による死者の儀礼の描写が続く。礼式の手順は興味深くあるが、民族学の門外漢なる小筆に理解が至らないので省略。霊の踊りの一文を引用する<Vers le soir , deux groupes comprenant chacun cinq ou six hommes partiraient , l’un vers ouest, l’autre vers l’est.Je suivis les premiers et j’assistais, a une cinquantaine de metres du village, a leurs preparatifs dissimiles au public par un rideau d’arbes. Ils couvraient de feuillage a la maniere des danseurs...中略...ils representaient les ames des morts venues de leur villages d’orient et d’occident pour accuelir le nouveau defunt.>(280頁)
訳;夕方、それぞれ5、6人で構成される2の男達集団は一方は西に、他方は東に発つ。私は西に向かう集団について行った。村から50メートルほど離れた辺り、木々の被いで隠された場で儀礼の準備を始めた。彼らは身体を枝葉で厚く覆い、すっかり死霊のダンサーに様変わりした。衣装が意味するところは西の、東のあの世から新仏を迎えに来た霊である。
悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 5の了
後記:長文を読み切った奇特な御仁に乞う。ブログ村にも掲載しています。下のボタンを押してくれれば順位が上がるらしい。哲学ブログで140位くらい(むせびの泣きにボロ袖は乾かじの順位です)
前回4月23日投稿では2の挿話、認識する死者と、物としての死者を紹介した。いずれもヨーロッパの古民話。ヨーロッパではキリスト教が広まる以前には、死者へ両の認識があった傍証であろう。では今はどちらかの質問に、レヴィストロースは1認識する死者であると断言する。ヨーロッパ、キリスト教の影響の下、死者は何を認識するのか。
<il n’est pas douteux que l’attitude speculatrice s’est progressivement effacee au profit de la conception contractuelle des rapports morts et vivants...par la formule de l’Evangle : laissez les morts ensevelir les morts>(270頁)
訳;投機への態度が徐々に薄れ、(葬儀礼は)死者と生者が契約する場とする思考に入れ替わった。この変遷は疑いようもない。福音書の公式の影響である。死者には葬儀を施し、後は放っておけば良いとする。(ここで使われる葬儀(ensevelir)は屍衣を着せ棺に安置し、焼かずに地に埋め墓標を建てるまでの儀式となる。これが死者との契約である。ここまで恩を帰せれば死者は満足する。この場合はreconnaissant認識するは、感謝する、本義になる)
解説:福音書の公式とは何か。ヨハネ黙示録が伝える「最後の審判」である。キリスト者はこの世の終わりに神が執り仕切る最後の審判(jugement dernier)に臨む。神が善人悪人を判定して、善人だけが天国に迎えられる。(と信じる)。故にキリスト者はとっておきの服装、髪型、顔色なども生きる姿形のまま、善行の記憶も棺桶の中でしっかり胸に留めて、神の審判を待つ。生き様を証明するには生きたままで埋葬してもらわないと。
生身で埋める(inhumer)はカソリック葬儀の基準である。
法王は火葬(insinerer)された死者でも最後の審判に臨めると宣言した(1961年)。が、今もってキリスト教徒は灰cendre(お骨)が神の前に立ち、「こんなに上等な背広を着た良き市民」と、どうやって陳述するかに想像が及ばない。火葬の比率はフランスで30%、イタリアで10%と未だ少数派である。=Le triomphe de l’incineration, パリ第一大学Philippe Boutry教授、東京恵比寿日仏会館2019年3月4日の講演、小筆の聞き取り。
(洗礼前の乳児、自殺、行き倒れ、終身刑徒=本来は死刑の罪、係累不明者、非キリスト者も含む)
さて、
世界中、全ての部族は、レヴィストロース提起の2分類の死者定義では1あるいは2、ないしはその折衷型として特定できるとレヴィストロースは教える。しかしボロロ族はいずれにも属さない。1と2を同時に信仰する希有な族とレヴィストロースは報告する。
Bororo章 les morts et les vivants(死者と生者)を読み進める。
信仰では死ぬと(取り憑いていた霊が)金剛インコに転生する。自然に戻るのでボロロ族は自然に貸しができたと信ずる。これがmori(自然への債権)である。
<la mort est a la fois naturelle et anti-culturelle=中略=Le dommage dont la nature s’est rendue coupable envers la societe entraine au detriment de la premiere une dette , terme qui traduit assez bien une notion essentielle chez les Bororo, celle de mori>(271頁)
訳;死は自然起因でありかつ反文化である。自然にその責任が帰される社会側の損害については、前者(自然)の代償になる負債が生じることとなる。この概念を端的に表す語がmoriである。
死を「自然死」と理解してはならない。死とはどのような場合でも、自然が介入しボロロの男を死に至らしめる。「ちょっかいを出す」ととらえれば良い。こう考えてanti-culturelleに理解が及ぶ。死とは自然から社会への敵対行為である。結果として死者の霊は自然に飛び去りインコに変身したから、自然の利得として数えられる。ボロロ族は自然に債権を持つことになる。(ボロロの男と特定した理由は、女が死んで何も残らないとの信心を彼らが持つからである)
<Quand un indigene meurt , le village organize une chasse collective, confiee a la moitie alterne de celle du defunt : expedition contre la nature qui a pour objet d’abbatre un gros gibier, de preference un jaguar..>
訳:人が死ぬと村人は集団での狩りを組織する。死者の属する対抗部の成人が参加する。ねらう獲物は大型の動物、誰もがジャガーを期待する。
死者がでると自然への貸しが発生するとし、男達は集団でジャガー狩りを組む。しかしジャガーは容易に射止められる獣ではない。手ぶらで帰るも多いとか。
ジャガーには利用価値がある。
族民らが我(レヴィストロース)のirara(=vertus、善行)に気づいて、葬祭狩り隊長に任命してくれていれば良かったのだが。死者がでたのは到着した翌日だったから、(私を正しく評価する)時間が足りなくて、誰もそんな提案を持ってこなかったのはやむを得ない。もしやそうなっていたら、隊長の私(レヴィストロース)がせしめられたのは;
le brassard de cheveaux humaines (髪でできた腕輪)
clarinette mystique formee d’une petitte calebasse、anche de bammbou(奇怪な音を出す竹リード付き小さなひょうたんの楽器、獲物の皮剥に際して演奏する)
collier de disques en coquillages(貝の首飾り)
これまでがレヴィストロース隊長が持てるはずだった道具。(せしめてmusee de l’hommeに寄贈するつもりだったろう)
la viande(おいしい肉、ジャガーが獲れたとして)
le cuir(毛皮、もっとも重要)
les dents(歯)
les ongles(爪、上の3点と合わせレヴィストロースが遺族と山分けできた。272頁)
(どう考えてもボロロ族がレヴィストロースを隊長に任命する道理がない。言葉の遊びだが、ジャガー狩りの形態と目的が理解できる)
これほどの価値をジャガーが産み出すが、それも男が死んだから。族民の死をタテに取り自然側に「難癖をつけて」、ジャガーを狩る利権を獲得し毛皮などを手にする。このやり口は死体利用での究極の2ではあるまいか。
(ボロロ族は平素、言い伝え(神話)で狩っても自然に許されるとつじつまをあわせている特定の野豚(ペカリ)、鼻熊、鳥類、魚など捕る。大型動物はジャガーに加えバクがあげられるが日常の狩りの獲物としていない)
順は逆になったが1、認識するする死体(le mort reconnaissant)へのボロロ思想とは;
<ils (animaux) appartiennent pour partie au monde des hommes, surtout en ce qui concerne les poissons et les oiseaux, tandis que certains animaux terrestres relevent de l’univers physique. Ainsi les Bororo considerent-ils , que leur forme humaine est transitoire : entre celle d’un poisson st celle de l’arara ( sous l’apparence duquel ils finiront leur cycle de transmigration). Si la pensee des Bororo (pareils en cera aux etshnographes ) est dominee par une opposition fondamentale entre nature et culture...>
訳; 小動物および全ての魚と鳥は人間世界に所属する。しかし地に棲む幾種かの動物は物質(自然)界に属する。ボロロ族男の生きる今は人としての形であるが、魚と金剛インコの間の、仮の姿でしかないと考えている。ボロロ族の思考、民族誌学の先達もそのように解釈しているのだが、根底に文化と自然の対立があるとすれば....
文化と自然の対向を考えの根本にボロロ族は置く。
人間界は村落、田畑に限定されず動物、魚、鳥も含めた(西欧感覚から判断しての)自然の領域に広がる。自然界は(大型)動物、それらが棲む奥深い山川、森で構成される。そして霊が自然と文化を行き来する。それは魚霊として生まれ、転生し人に取り憑き、後にインコに変わる。
この転生する実体は何か。レヴィストロースはそれをame=霊と教える。
写真はボロロの葬式、男のみで追悼する。呪術師Bariが葉を全身にかぶって死霊を装う。腰蓑を着用する縁者。著作より。
民族、部族の多くは「霊は人の霊、取り憑いている人の分身」と捉えている。日本人では菅原道真が憤怒のあまり霊に化け人間界に悪さしても、その霊の心と姿は道真の憤怒版そのものである(と考える)。
ボロロ族の信心はそこにない。
生きている間は身体に潜み、死んだら抜け出てインコに取り憑く霊は「人の霊」でも「インコの霊」でもない。人に取り憑くけれどその人と同体となるわけでなく、別体アルターエゴでもない。人が死んだら離反して、前の借宿など忘れる。
故に、取り憑いた人が死んでモノに果てても霊は自らの意識を保ったままインコに姿を借りてあの世(自然)に生きる。転生する主体はこの霊である。
一時を生きるボロロ人は背に憑いた霊にすがり、考えて動いて死に臨む。これまでと諦め死骸となればモノに果つる。霊は取り憑き主をインコに鞍替えして自然に生きる。
雄大にして虚無、これがボロロ族の生死観です(あくまで小筆の理解です、レヴィストロースは詳細を語っていない。故に語の意味、文と行のつながりを解釈すると上記にまとまる。オーバー解釈であるとの指摘には甘受するしかない)。
この霊は1の意識を保ち人間界と契約する霊です。
一方、自然に入ったインコの霊、その他諸々のあの世の霊とBororoは語り合えない。bariが仲介に出てくる。
<Les bari forment une categorie speciale d’etres humains qui n’appartiennent completement ni a l’univers physique, ni au monde social, mais dont le role est d’etablir une mediation entre les deux regnes>(272頁)
訳;bariは人間ではあるものの特別な範疇に属し、物質宇宙に完全には帰せずといって社会世界に属している訳でもない。両の世界を結ぶ役割を担うのだ。
(物質宇宙(univers physique)を自然nature、社会世界monde socialを文化cultureと言い換えれば理解は易しい)
<Le bari est un personnage asocial. Le lien personnel qui l’unit un ou plusiers esprits lui confere des privileges ; aide surnaturelle quand il part pour une expedition de chasse solitaire, pouvoir de se transformer en bete, et la connaissance des maladies ainsi que des dons prophetiques.>(273頁)
訳;bari、その人格は反社会である。一のあるいは複数の精霊(esprit)と結びつき特権を享受している。超自然(surnaturelle)の加護を受けるので、獣に化けて狩りに出て収穫をあげるのはお手の物、病の知識、預言者としての警鐘も受け持つ。(ここでのasocial「反」社会は「反逆」ではなく「社会と対峙」ととらえたい。辞書には第3義としてpersonne qui n’est pas integree a la societe とあるGR)
自然からの恩寵がbariを通じ人に授けられる。それらを整理すると;
1 bariが狩りでると獲物がごっそり
2 疾病を診断し(おそらく)治癒
3 自然現象、報せは災厄か警鐘かの預言
<Le gibier tue a la chasse, les premieres recoltes des jardins sont impropres a la consommation tant qu’il n’en a pas recu sa part. Celle-ci constitue le mori du par les vivants aux esprits des morts ; elle joue donc, dans le syteme, un role symetrique et inverse de celui de la chasse dont j’ai parle>(273頁)
訳;狩りの獲物と初めての収穫は、その分け前(bariの分)を取るまでは食してはならない。この分け前はmori=生きる者が持つ自然に対する債権=と反対にある。
注釈;自然へ突きつけた債権がmori。一方、人が平素、狩る獲物や収穫は(自然からの収奪であるから)bariが堪能するまで消費の対象にしてはならない。(お供えだが、bariは実際に食する)
図はジャガー、著書(Le cru et le cuit)より。
<Mystifies par la logique de leur systeme, les indigenes ne le sont-ils pas aussi autrement ?>自分たちの(虚構)システムにより煙に巻かれた先住民達に別の選択は無かったのだろうか。(虚構は訳にあたり加筆)
システムとは村落の構造、社会制度、神話の体系など幅広い制度、文化と取れる。ボロロのシステムは前述している。おさらいになるが;
社会構成;村落が2分割され(部)、さらに各4分割(支族)されている分節構造。
婚姻;男は母親の部、支族に属する。婚姻の相手は対抗する部、特定の支族、同じカーストの娘と決まる。
身分;男は父親と息子が別の部に属す。
所有形態;家屋、畑地、什器家具の一切は女の所有物。
信仰;憑依していた霊はあの世(自然)に転生する。霊の踊りなる儀式を、死者が出たときに司る。しかし女は生きて死ぬのみ。死んだら何も残らない。
子は母の系統を継ぐ、母系の原理であるが、二分する社会構成と合わさると、男の系統を分断させている(父と子は対立する支族に属する)。男が屋を所有しないから「安住の場」を捜せない。真理不安と生活での軋轢を内包するシステムと言える。
「別の選択」を頭に浮かべるレヴィストロースが感じる杞憂は、この制度が誘発する緊張によるものと思われる。
こちらは写真、ネットから採取。体長120センチ重さ95キロ。虎、ライオンの次に大きい猫科。
男達による死者の儀礼の描写が続く。礼式の手順は興味深くあるが、民族学の門外漢なる小筆に理解が至らないので省略。霊の踊りの一文を引用する<Vers le soir , deux groupes comprenant chacun cinq ou six hommes partiraient , l’un vers ouest, l’autre vers l’est.Je suivis les premiers et j’assistais, a une cinquantaine de metres du village, a leurs preparatifs dissimiles au public par un rideau d’arbes. Ils couvraient de feuillage a la maniere des danseurs...中略...ils representaient les ames des morts venues de leur villages d’orient et d’occident pour accuelir le nouveau defunt.>(280頁)
訳;夕方、それぞれ5、6人で構成される2の男達集団は一方は西に、他方は東に発つ。私は西に向かう集団について行った。村から50メートルほど離れた辺り、木々の被いで隠された場で儀礼の準備を始めた。彼らは身体を枝葉で厚く覆い、すっかり死霊のダンサーに様変わりした。衣装が意味するところは西の、東のあの世から新仏を迎えに来た霊である。
悲しき熱帯(レヴィ・ストロース著)の真実 5の了
後記:長文を読み切った奇特な御仁に乞う。ブログ村にも掲載しています。下のボタンを押してくれれば順位が上がるらしい。哲学ブログで140位くらい(むせびの泣きにボロ袖は乾かじの順位です)
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