蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

L’Homme nu裸の男に読む構造神話学と哲学修辞 上

2024年07月10日 | 小説
(2024年7月10日)仏語の哲学書はこのように解釈する。汝は「主体か客体か」色分けして解釈にこぎつけた(ガチ構造主義だが読んでくれ)
前文 : レヴィストロース人類学は調査対象の事象、行動などを客体と見ておらず、主体とする。当然、先住民の思考、信仰、社会規則なども主体である。理由はそれらに人の智が宿る。形態に宿る思考、これは構造主義の原点となります。例えば親族とは人の智です。親族と親族外の範囲、婚姻できる親族、できない親族の範囲。それができない親族は系統で、婚姻できる親族と同盟関係を築く。社会基盤をいかに形成するか、人の智慧が親族の思想です。

参考に部族民がかつて作成した言語学意味論の考察のスライドを引用する。

ソシュール意味論の主体客体をひっくり返した「構造主義」意味論

そこいらをうろつく四つ足は人がイヌなる語を与えてイヌになる。イヌが猿でも豚でもない形而上的からくり

一方、行動、慣習などは社会機能の一環とする説、マリノフスキーなど英米系学究が主唱してきた。機能社会学と俗に伝わる。この理論は対象をモノ化している、「機能のみが付帯する客体である」とレヴィストロースは批判する。要素の客体化は構造主義と相容れない。これ故に、批判舌鋒はかくも鋭角的かと―(部族民は)感嘆するのです。
レヴィストロースは神話学全4巻で「構造神話学」を掲げた。彼自身この語を用いないが、本書で開陳される趣旨、理論を読み込むにつけ、この冠語がまさにふさわしいと感じ入る。そしてその矛先は「歴史神話学」に向けられる。機能社会学への批判に展開された思想風景、両論の乖離がここにも覗える。
彼らの理論は神話の要素を固定化する、固定された要素には思考がとりつかないし自律運動を見せるべくもない、ただ数値化される「モノ」である。以下に引用する文列は本書52~53頁から。視線を本に落とし文の列を追えば、満天の星のごとく哲学的修辞が(部族民の)脳みそに煌めきます。
難しいから構造主義の規範を採り入れ、この文脈は「主体か?客体か?」に色分けし読み込み、解釈にこぎつけました。皆様からの批判を仰ぎたくここに投稿します。
以下本文(鍵語に網を入れている)

Chaque fois qu'il apparaît, on peut donc inférer que le mythe de la dame plongeon est aussi présent, que ce soit sous forme directe ou modifiée. L'étude de Démetracopoulou rend de tels services qu'on ne saurait lui faire grief, aucune autre méthode n'étant alors disponible, des insuffisances de celle que cet auteur applique en inspirant des principes de l'école historique. Nous les avons déjà réfutés. D'une part, on définit arbitrairement le mythe, sans envisager un instant qu'il pourrait n’être pas un discours isolé que son énoncé empirique suffit à caractériser, mais un état local ou momentané, d'une transformation qui engendre plusieurs autres, toute régie par une même nécessité ;

それ(兄弟双子が活躍する挿話、前文を受ける)が神話に現れるたびに、アビ婦人も語られる。この連結の流れは否定できない。言い回しは直接的であるし、変化を見せながらの場合も認められる。一方、Demetracopoulouの研究は誰も成果を引き継げないし、いかなる異なる進め方とも両立できないことからして、歴史神話学の教義に着想を受けたその手法は、幾つもの不満足性を抱えたまま残る。その理由を以下に語ろう。
実は、我々(レヴィストロース個人)は歴史神話学をこれまでの書で否定している、(不満足な)論点の実態とはその学派の学究(on=一般的人となるがDemetracopoulou)は、自ら感じ入る所信で、神話なるものを規定する。いかなる神話物語にしても単独孤立していないはずだが、そう思いとどまる瞬時もないし、それと覗える形態をただ経験から決めつけるのみ、それで十分であるとの思い込みに閉ざされている。その上、一の神話はその場とその時系列に位置しているだけで、伝播系統で幾つもの偏移神話を生み出し、それが一の必然性に支配される。この起動原理のもとでの地域的瞬間的な存在であるとする。

文の使えかけとは? 1 ; 
活躍する兄弟双子:北米神話では悪霊退治に双子が登場する。M539では山野に跋扈する悪霊を退治し星に昇天する。夜な夜な叫ぶアビを退治するのは双子漁師。双子とアビには筋立で関連が認められる。レヴィストロースの伝える « motivé » 動機づけである。歴史神話学はこの筋道の有機結合を語らない。
« définit arbitrairement le mythe » 自ら感じ入る所信としたが、意味がわからない訳となった。直接法で言うと「勝手気まま」。アビが語られるからこれらをアビ神話群とするが、この断定はおおよそ根拠のない「気まま」な顕れ。次文の « un discours isolé que son énoncé empirique suffit à caractériser » 孤立した語り口など無いと(思いとどまらず)、sonその者の(前文のonを受け継ぐ、Demetracopoulouのこと)経験からくるだけの「決めつけ」で終止する。

L’Homme nu裸の男に読む構造神話学と哲学修辞 上 了 (7月10日)

追記:他説を批判するレヴィストロースの文は難しい。平易な文で批判すると反論される、そして再批判。その煩瑣を避けるためと勘ぐる。有名なのは「野生の思考」第九章サルトル批判。あのサルトルさえ「解釈」出来なかった(らしい)。
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