(9月20日)
母の期待に見事こたえてジェロームは、高等師範学校(ecole normale superieure)に入学を果たした。同校はフランス教育制度の頂点に位置し、官界教育界の重鎮を輩出させている。卒業生は「ノルマリアンnormalian」との尊称を受ける。日本の東大法学部と理解すればよろしいが、エリート性の度合いの比較において高等師範が優勢であろう(私見です)。
規定5年の課程で優秀な成績を得て(かの国ではavec elogeと伝え赤いゴム印が押される、こんな叙述はない)卒業し入隊、serviceミリタリーサービス、を経験する。外務省に入職し外交官としてイタリア、シリアパレスチナなど歴訪する。これら描写に浮かぶジェローム像とはエリートまっしぐらの青年である。
学業のあい間にもFongueusemareを訪れアリサと邂逅する。二人がかくも頻繁に出会うのは親族としての関係にある。前回投稿で指摘したが「交差イトコ」である。
交差イトコ(cousin croise)とは;
男女イトコの父母のいずれかが兄と妹の関係を持つ。兄を弟、妹を姉としても成り立つ。アリサの父がジェローム母の兄。これよりも近親なイトコは双方とも兄弟姉妹、すなわち男Aの父と母は女Bの父母と交差関係の兄弟姉妹で、これをcousin germainゲルマンのイトコ(仮訳)と呼ばれる。仮訳としたのは、日本語訳がないからである。こうしたイトコは日本では実行されないかと想像する。
多くの民族で交差イトコは結婚相手として優先的に選ばれる。さらに交差関係のゲルマンイトコは婚姻相手として特に重宝される。ヨーロッパでもこうした風習は近世にまで見られた。おそらく、ゲルマン人(フランク、ノルマンなども含めて)の古来の習慣であったのだろう。
叔父(母の兄)の居宅での邂逅、偶然の出会いを意味するが、実際はそれと装うだけでアリサに会いたい一心でせっせとパリからジェロームが出向く。二人が偶然を装いふと庭の小道で、あるいは叔父などにし向けられてベンチで邂逅、こうした出会う様のあと追憶風に、心の揺れが綴られる。さらにジェロームは気だては優しく気遣いはマメ。イトコ同士だから、二人が結婚すれば、(アリサの)Bucolin家の財産が他人に流れないうえ、政府高官(となるはず)の冠だって載せられる。このノルマリアンで外交官、結婚すればいずれは大使の令夫人として優雅に暮らす事ができる。二人は親族一同から結婚を期待されていた。しかし、アリサは一向になびかない。
アリサが選んだのは先の見えない狭き門なのだ。
狭き門とは?
Vauitier師(のちにアリサの母となったクレオールの娘を幼女にした牧師)の説教をジェロームが聞く
<<Efforcez-vous d’entrer par la porte etroite, car la porte large et le chemain spacieux menent a la perdition, mais etroite est la porte e resserree la qui conduisent a la vie>>
マタイ福音書、日本聖書協会訳:狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
この説教がジェロームを戦慄させた。彼の言い分を聞こう;
<<je voyais cette porte etroite par laquelle il fallait s’efforcer d’enter. Je me la representais comme une sorte de laminoir, ou je m’introduisais avec une douleur extraordinaire ou se melait pourtant un avant-gout de la felicite du ciel. Et cette porte devenait encore la porte meme de la chamber d’Alissa; pour entrer je me reduisais, me vidais de tout ce qui subsistait en moi d’egoisme…>>
拙訳:説教を聞いて目が開く思いで、通るべき狭き門を心に描くことができた。 それは一種の圧搾機で、通り抜けようとする私に、とてつもない苦しみを覚えさせる。その苦しみの中にこそ至福が混じるとも予感させる。この門はまさにアリサの部屋に通じる門なのだ。縮小し自我のすべてを除いて、空虚にならなければ通り抜けられまい…>>
アリサの「部屋」と門とは、具体的な部屋と入り口を云う訳でない。彼女の精神に近づくに避けて通れない心の門なのだ。
神は2種の門を用意した。一つは誰でもそして大勢でも抜けられる広い門。誰でもとは自我が強く、欲、嫉妬、執着などで心が肥大している人で、彼らにだって広い門があるから、そちらを通れろ神が宣う。狭き門は選ばれた者のみを相手にしている。選ばれたと明確に知る者、そうと自覚している者、そうなりたいと努力する者は、圧縮機(laminoir)に心とおして「縮小」する、自我を心から除去する努力して、狭き門に挑め。
写真;多摩地区のとある門。狭い、その上片開き、まるで肥満体お断りみたいな圧縮機の門だ。
選良なる者に求められる訓練と忍耐、模索と成就。狭き門を通じて神との対峙構造、精神の持ち方をかく、ジッドが教えてくれるのである。
これってデカルトと同じでないかね。
カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ 6の了
(次回予定は9月23日)
母の期待に見事こたえてジェロームは、高等師範学校(ecole normale superieure)に入学を果たした。同校はフランス教育制度の頂点に位置し、官界教育界の重鎮を輩出させている。卒業生は「ノルマリアンnormalian」との尊称を受ける。日本の東大法学部と理解すればよろしいが、エリート性の度合いの比較において高等師範が優勢であろう(私見です)。
規定5年の課程で優秀な成績を得て(かの国ではavec elogeと伝え赤いゴム印が押される、こんな叙述はない)卒業し入隊、serviceミリタリーサービス、を経験する。外務省に入職し外交官としてイタリア、シリアパレスチナなど歴訪する。これら描写に浮かぶジェローム像とはエリートまっしぐらの青年である。
学業のあい間にもFongueusemareを訪れアリサと邂逅する。二人がかくも頻繁に出会うのは親族としての関係にある。前回投稿で指摘したが「交差イトコ」である。
交差イトコ(cousin croise)とは;
男女イトコの父母のいずれかが兄と妹の関係を持つ。兄を弟、妹を姉としても成り立つ。アリサの父がジェローム母の兄。これよりも近親なイトコは双方とも兄弟姉妹、すなわち男Aの父と母は女Bの父母と交差関係の兄弟姉妹で、これをcousin germainゲルマンのイトコ(仮訳)と呼ばれる。仮訳としたのは、日本語訳がないからである。こうしたイトコは日本では実行されないかと想像する。
多くの民族で交差イトコは結婚相手として優先的に選ばれる。さらに交差関係のゲルマンイトコは婚姻相手として特に重宝される。ヨーロッパでもこうした風習は近世にまで見られた。おそらく、ゲルマン人(フランク、ノルマンなども含めて)の古来の習慣であったのだろう。
叔父(母の兄)の居宅での邂逅、偶然の出会いを意味するが、実際はそれと装うだけでアリサに会いたい一心でせっせとパリからジェロームが出向く。二人が偶然を装いふと庭の小道で、あるいは叔父などにし向けられてベンチで邂逅、こうした出会う様のあと追憶風に、心の揺れが綴られる。さらにジェロームは気だては優しく気遣いはマメ。イトコ同士だから、二人が結婚すれば、(アリサの)Bucolin家の財産が他人に流れないうえ、政府高官(となるはず)の冠だって載せられる。このノルマリアンで外交官、結婚すればいずれは大使の令夫人として優雅に暮らす事ができる。二人は親族一同から結婚を期待されていた。しかし、アリサは一向になびかない。
アリサが選んだのは先の見えない狭き門なのだ。
狭き門とは?
Vauitier師(のちにアリサの母となったクレオールの娘を幼女にした牧師)の説教をジェロームが聞く
<<Efforcez-vous d’entrer par la porte etroite, car la porte large et le chemain spacieux menent a la perdition, mais etroite est la porte e resserree la qui conduisent a la vie>>
マタイ福音書、日本聖書協会訳:狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。
この説教がジェロームを戦慄させた。彼の言い分を聞こう;
<<je voyais cette porte etroite par laquelle il fallait s’efforcer d’enter. Je me la representais comme une sorte de laminoir, ou je m’introduisais avec une douleur extraordinaire ou se melait pourtant un avant-gout de la felicite du ciel. Et cette porte devenait encore la porte meme de la chamber d’Alissa; pour entrer je me reduisais, me vidais de tout ce qui subsistait en moi d’egoisme…>>
拙訳:説教を聞いて目が開く思いで、通るべき狭き門を心に描くことができた。 それは一種の圧搾機で、通り抜けようとする私に、とてつもない苦しみを覚えさせる。その苦しみの中にこそ至福が混じるとも予感させる。この門はまさにアリサの部屋に通じる門なのだ。縮小し自我のすべてを除いて、空虚にならなければ通り抜けられまい…>>
アリサの「部屋」と門とは、具体的な部屋と入り口を云う訳でない。彼女の精神に近づくに避けて通れない心の門なのだ。
神は2種の門を用意した。一つは誰でもそして大勢でも抜けられる広い門。誰でもとは自我が強く、欲、嫉妬、執着などで心が肥大している人で、彼らにだって広い門があるから、そちらを通れろ神が宣う。狭き門は選ばれた者のみを相手にしている。選ばれたと明確に知る者、そうと自覚している者、そうなりたいと努力する者は、圧縮機(laminoir)に心とおして「縮小」する、自我を心から除去する努力して、狭き門に挑め。
写真;多摩地区のとある門。狭い、その上片開き、まるで肥満体お断りみたいな圧縮機の門だ。
選良なる者に求められる訓練と忍耐、模索と成就。狭き門を通じて神との対峙構造、精神の持ち方をかく、ジッドが教えてくれるのである。
これってデカルトと同じでないかね。
カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ 6の了
(次回予定は9月23日)