蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ 8 

2018年09月25日 | 小説
(9月24日)

勝手なアリサとは?
作品「狭き門」に戻ろう。生き様を選ぶ、そんな場面がアリサに幾度か訪れる。
<<non, Jerome, non, ne nous fiancons pas, je t’en prie. =中略= Mais c’est moi qui peux te demander pourqoi changer? =中略= Tu te meprends, mon ami : je n’ai pas besoin de tant de bonhneur. Ne sommes-nous pas heureux ainsi?(ポケット版59頁)>>
拙訳;否、ジェローム、私たちは婚約しないのよ、お願い。 なぜってあなたが尋ねるけれど、そうしたいのは私の方よ。今の間柄をなぜ変えたいの。ジェローム、あなたは私を見違えているのよ。これ以上の幸せなんて私たち、要らない。このままでも幸福でしょう。

婚約(fiancailles)を求めるジェロームにアリサが「きっぱりと」断るくだり。きっぱりの様がnonに続く否定を幾度か並び立てる文脈に浮き出る。さらに、meprendsはmeprendre 二人称単数形で、あまり用いられないこの動詞の意はse tromper une personne pour une autreある人を別の人と取り違える(辞書le robert)とある。(似ている)兄を弟と見違えるの形而の誤解が一義だが、これを精神の取り違えとしてジッドは使った。その根源にはmeconnaitre=否定する無視するなど強い意をはらむ=しているからに他ならないとアリサの判断を表す(ジッドの用法から推察、同じ辞書の引用文)。

するとジェロームはアリサの精神を「見違え」でなく、もっと根源的に「勘違い」していた事となる。さらにもう一面、アリサが反発する裏にはfiancaillesがある。それは単に二人の約束ではなく、近隣縁者への公知と祝宴が含む。投稿子が仏語を学んだ手始めはMauger本であるが、その2巻fiancaillesのソワレの一節を読まされたと覚えている。Maugerが描く時代は1950年代。一方、狭き門はさらに昔の1880年代。ノルマンディ名流の両家の婚約ともあれば、さぞかし華やかな式典になった筈だ。式の次第を探れば、それは夫となる家の主催、招待客の集い語らい、婚約の公知、嫁(となる)娘への指輪贈呈、晩餐、ダンスとなる(らしい)。必ず神父が呼ばれる(狭き門では牧師であろう)。式は俗であるが神父牧師の説教で(必ず) 神が介在する。結婚を神へ約すのだ。
婚約に応諾するとは、神への誓いとなる、ここがアリサに受け入れられなかった。対話を断つかのかたくな否定がすぐにも出た裏は神にありなん。
ここでの選択はアリサ姿勢のすべてを表す。他の場面を探すと。

<<Quant a tes success, je puis a peine que je t’en felicite, tant ils me paraissent naturels. =中略= Tu auras compris, n’est-ce pas, pourqoi je te priais de ne pas venir cette annee =中略= Parfois involontairement je te cherche; je tourne la tete brusqument. Il me semble que tu es la!>>(ジェロームに宛てたアリサの手紙 同99頁)
拙訳;あなたの成功(学業)についてはおめでとうと「何とか」祝福するわ。だってそれって、当たり前だから。それと、今年はもう来ないでと願った理由には察しがつくでしょう。それでも私、無意識に突然、頭を回したりするのよ。あなたがそこに立つのかと感じてしまう。

写真:親子丼。K氏がカツ丼は命の支えと認識した豊田駅前交差点での選択で、親子丼幻影のひた寄せにおびえなかったのか。

前半の「お祝い」の言い方を冷たいと感じる。成功が複数なら(tes success)学業のみならず将来方向を決める過程で、いろいろな成功をジェロームが獲得したと推理できる。それなりの努力を費やしたと褒めるべきだろう。しかし「それって当たり前でしょう」と片付けて、さらにa peine の形容動詞句をかぶせた。「何とか」と訳したが、それはpeniblement(かろうじて)と同義と辞書に載る、古い用法との注があるけれど、これに準じた。ジッドはそんな古い表現をすんなり使う作家だと思っているから。もしこれを今に通じる義として時間的な=するやいなや=意味とすれば「今、お祝いしているところよ」とこじつけが出来そう。しかしそうすると、次句の当たり前とのつながりに苦労する。
引用文の後半では夏の休暇に訪れる習慣を持つジェロームに、今年は来ないでと言い切って、しかしふと(毎夏のように)あなたがそこに立っている気がするなどと曰う。この引用で浮き出るアリサの心は「混乱」である。ジェロームに会ってはならない選択を下した過程の苦渋。それを物語る修辞であると理解したい。

混乱の極めつきはアメジストの首飾りである。
ジェロームがフォングーズマールから出立する前日、アリサとの会話で
<<Elle reflechit un moment, puis ; Le soir ou descendant pour diner, je ne porterai pas a mon cou la croix d’amethyste que tu aimes….. comprends-tu?
- Que ce sera mon dernier soir.
- Mais sauras-tu partir, reprit-elle, sans larmes, sans soupirs….(125頁)
拙訳;アリサは一時、間をおいて、今日の夕餉に下りるとき、私の首に、あなたが好きなあのアメジスト十字の首飾りを見つけられなければー
―それが最後の夕食となる
―そう、あなたは出て行くのよ
涙の一滴、ため息の一のつなぎもアリサは見せなかった。

そして夕食のテーブル、アリサの首はアメジストで飾られていない。アリサの構えは峻別、これが彼女の選択である。

カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ8の了 
(次回予定は9月27日)
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