蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ9

2018年09月27日 | 小説
(9月27日)
アンドレジッド作の小説、狭き門(La porte etroite)はジェロームの語り口(recit)に乗って淡々と進む。それでもいくつかの場面で「信仰か愛か」をアリサは迫られる。そのやりとりに緊迫感が読みとれる。そして彼女の選択はジェロームにあらず、かならず神に向かう。一人称「私」ジェロームがアリサの毅然さを淡々と述べる。
さて、デカルトは人とは判断、選択を実行する際に自由であるべしと規定し、その精神作用にはvolonteとfaculteが交差するところであるとした(=Doute et liberte chez Descartes,Par chevetより)。volonte(意志)が先にあって選択条件を解析する。選び分けて決定を促すまでがvolonteの役目で、実行するのはcapacite(能力)。アリサ選択の緊迫場面にこれをに当てはめると、ジェロームから婚約を求められても、頷いたら神への誓いを破るから、「無理よ」とはねつけ、ここまでがvolonte。「否、今のままで良いのよ」とジェロームに自信を持って告げる勇気がcapaciteである。アメジストの首飾りにしても「ジェローム、居続けて」対「明日にパリに戻って」の択一への判断が「居続けると面倒、戻って貰うわ」で、勇気を胸にして首飾りをはずし夕餉に臨んだ。
volonteとcapaciteの行程と分担役割はデカルトの教えるままである。

さらにデカルトは選択の過程、および結果においてindifferent(無関心)たれとも教えてくれた。Aを選べば金持ちになる、幸せな結末が待っているなどの利益損出などには拘るなとの教えである。ジェロームが牧師の説教を聞き、狭き門を抜けるとは利己主義を捨て去ること、天啓に打たれる如く体得したのがデカルトの自由(liberte d’indifference)である。ジッドは共鳴しアリサとジェロームに託し、謳ったのである。

アリサにおけるvolonteの起因は信仰である。ではcapaciteは。
vertuなる分かりにくい語が後半、幾度か引用されている。投稿子にしてこれは「美徳」と当初、解釈した。verite(真実)と結びつけていたし、「徳」があるからに、座っているだけで人を引きつける心の輝きみたいな、内面に潜む受け身の精神と理解してしまった。するとvertuと信仰volonteともに内在する精神となって、両者の差が不明になる。生半可な理解が正しい解釈を阻む典型例であった。辞書を開こう;
1) の義にenergie morale, force d’ame  2)にはforce avec laquelle l’homme tend au bien.とある(le robert)エネルギーであり、人を良きに維持する力である。(正しい)決断力とこれを訳そう。volonteが精神ならvertuは実態、物である。
かく解釈すればデカルトのvolonte対capaciteの構図を、アリサ内部での「信仰対決断vertu」になぞらえる。さらにデカルトの思考対本質の二元論ともつじつまが合う。

写真:暑い盛りには元気な姿を見せてくれた日々草。秋雨にうたれ姿もわびしい。


vertuのくだりを引用する;
<<Non Jerome, ce n’est pas la recompense future vers quoi s’efforce notre vertu. L’idee d’une renumeration de sa peine est blessante a l’ame bien nee>>(164頁)
<<Combien heureuse doit etre l’ame pour qui vertu se confondrait avec amour! Parfois je doute s’il est d’autre veru que d’aimer, d’aimer le plus possible et toujours plus….Mais certains jours, la vertu ne m’apparait plus que comme une resistance a l’aour>>(165頁)
拙訳;ジェローム、違うわ。将来の報酬を求めるために私たち、決断するのではない。苦しみに対する報酬という考え方は信仰深い心を傷つける(164頁)
(recompence, renumerationともに報酬と訳した。前者は喪失への慰め、一種、宗教的意味もこもるので、後者の「努力した対価報酬」として具体的、経済的意味が強い語を後付けしている。また前者に定冠詞、後者には不定冠詞がつくのは、例えば金銭報酬などもあるの意味で、アリサの立ち位置を高尚にしているーと投稿子は解釈する)

拙訳2;もし愛と決断が本心で融合していたらその心って、なんと幸せかしら。妾(わたし)時々考えてしまう、愛する以外の決断ってあるのかしらと。可能な限り愛する、いつもそれ以上に愛するという愛を。でもある日かならず、正しく決断するとは、愛を否定することと思えてしまう(165頁)
決断の過程とその結果、アリサは「無関心の自由」を実践しているのだ。

volonteに基づく選択に迷いなく、決断(デカルトのcapacite、ジッドはvertu)には毅然として後悔を見せない。ジェロームに隙など見せず信仰の道をアリサが進む。Libre arbitre(自由の意志)とは神の自由に近づく心境なのだが、そこに至る道筋をひたすら実行するアリサ。ジッドの理想をアリサが体現している。

しかし狭き門はこれほどに単純ではない。後半にジェロームの語にアリサの日記が続く。そして状景が一変する。アリサはデカルトが一行にも教えてくれない自由を体験していた。

カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ9の了 
(次回予定は10月1日)


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