蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ 4 

2018年09月15日 | 小説
(9月15日)
カツ丼の自由とデカルトが教える自由libre arbitre(自由意志と訳される)を対比しよう。
AかBかの選択を迫られる状況を設定する。K氏の状況とは会社の同僚4人との昼飯評定、路上談判は交差点の信号真下である。カツ丼天丼親子丼、それに焼きそばが必ず選択肢にあがる。これら候補をカツ丼対そのほか多数を非カツ丼に一切まとめて、K氏は図式化する。この構造が2者1択である。カツ丼への入れ込み加減の純粋さから、それと判断を下した。
さてデカルトにおいては;
2者1択では沈思黙考、巡らす思考の対象は昼飯の選択などではない。「存在に神は本質を与えたか、与えてないか」なんて話(投稿子の想像です)。この段階での思考の作用をデカルトはvolonteと教える。この訳は意志、あるいは意志の力となる。投稿子は発心と訳したい。仏教用語で「仏を信ずる気を起こす」が原義。2義に「思い立つ」(この場合にはハッシンと読む)が見える。以上は大字原。
volonte発心とするところは、K氏にその身をさいなむ飢渇のやすめ(具体的には腹減った、昼飯を喰いたい)。一方、デカルトのそれは真理の追究である。
年金老人と哲学者、volonte発心のありかを探るにこれほどにも卑近と高尚、下流と上層の差は激しいとは。思わずK氏の暢気面から目を背けむとまで、投稿子は動揺した。

写真:天丼と云われれば我慢は覚える、しかし焼きそばにはその憐れみが伝わらぬ(K氏)横浜中華街の名物が豊田でも食えるのだと。ネットから。

さて2者1択に臨む心構えをデカルト先生が以下に語る;
「いずれを良しとしいずれを追求すべきかを、前もって知るとしない」
これが無関心indifference。そこにvolonte発心が宿る。(l’indifference signifie cet etat dans lequel la volonte n’est point portee par la connaissance de ce qui est vrai ou de ce qui est bon a suivre..(再引用、彼の著作Meditationsの一説、文の一部は省略)と曰った。libre arbitre とはこの無関心な自由状態(liberte d’indifferrence)に裏打ちされる。
しかるにK氏は「毎日必ずカツ丼」を主張する。カツ丼が他丼よりも良いし、それを食らうべきとの脅迫感に迫られている(本当稿の1~3)。カツ丼選択においてK氏はliberte d’indifferrenceなる心境に達していたか。その姿勢を分析するに、彼のカツ丼への思いこみただならない。無関心とは大違いの執着だ。故に彼は「否」、デカルトの自由とは正反対の先入観で選択している、これが正答と思える。 
さてvolonte発心の後に選択行為に移る。この意志の力をデカルトはfaculte positiveとしている。faculteは能力、positiveを(前向きでなく)「実在の」とする。すなわちこの選択する能力は「物」であるとデカルトは教える。volonteが心であるに対してfaculteは実在性を持つとデカルトが伝える。

前段階のみならず、選択の過程にも、選択結果がもたらす反応においても無関心を保つ気構えをデカルトは要求する。選択が正しかったから喜ぶ、あるいは選択外れを後悔するなどはもっての他であるとしている。
しかるにK氏はカツ丼を食することで生の喜び、安心を確認しているとまで他言している。すると彼はこの段階でも「自由」を踏み外しているとみえる。投稿子の問いに;
「カツ丼が否定されて焼きそばとなったとしよう、したら私は不満である。大不満だ。今日の一日の働きまでが否定されてしまう。後ろ向きの感情に、午後の半日に襲われてしまう」
この拘泥の様に投稿子はただ、驚きいるばかりだが、畳みかけるかにK氏は続ける。
「昼飯にカツ丼を食らう選択は天丼にも焼きそばにも譲れない。その選択が自由なのだ、私は自由で….」
投稿子が分け入った。
「その過程を自由と言はない」
「なんと言うか」
「気まま、自分勝手だ」
「そんなはずが」
K氏のほほが驚のあまりに引きつった。
「クックーン」
チャビの吠え声まで引きつった。
カツ丼の自由、アリサの勝手でしょ 4 の了 
(次回予定は9月17日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする