昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

卑弥呼の里

2006-12-22 | 歴史・文化遺産
 日本列島が大陸と繋がっている時代に、北方から来た人と南方のほうから来た人とが混ざり合って日本民族が出来たといわれています。それぞれ多くの証拠となる事象がわかっていますね。


左:ここに弥生人という分類をする方法があります。
右:弥生犬を復元したモデルです。


左:古い時代から並べて縄文人・弥生人・古墳人の頭骨の写真です。怖がらないで下さい。よく見ると頭の大きさがやや違うか。身長を比べてみても縄文人はやや小柄と言えましょう。
右:これは顔の模様のついた弥生土器です。弥生と言うのは明治17年に東京の本郷弥生町の貝塚で発見された素焼きの土器からこの名前が付きました。


吉野ヶ里をはじめ各地で発掘されているデータをもとに、そのモデルが出来上がっています。名付けて「卑弥呼の里」のジオラマで、当時の生活が良くわかります。


協働生活のために集まって暮らす単位をムラと呼ばれます。ムラの中央には卑弥呼など神の言葉を聞く人が暮す宮殿があります。
 四方に物見櫓が建っています。田で稲作をする頃から土地の所有権の争いが生まれました。濠を廻らし、柵で囲い、武器を用意していました。


宮殿を拡大して見れば、細長い赤い板の盾を持った人が作る道を、白の服を来た客の訪問を受けているところです。旗を持って整然と並んで宮殿に進んでいます。それを跪いて迎える人も2-3人います。


中央の柵の外側に、一般の人の暮らしが散見できます。ここも柵に囲まれ、物見櫓があり、濠で囲まれて、防御対策をしています。


物見櫓が一際高く、敵が攻めてくるのをいち早く発見し、敵の動きを見るためのものです。


戦いが起りました。吉野ヶ里では頭に戦いで受けた傷がそのままで葬られています。


左:文字のない人たちは、こんな絵で戦いを表現をしたのでしょう。
右:当館で卑弥呼の絵葉書を購入しました。ムラのリーダーとしての風格が出ていますね。絵のバックには、古代遺跡からの発掘物が描かれていて、一つひとつを見るとよく描かれています。栄永大二郎の作品です。