座間コミニティー

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◆ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。

2016年05月24日 18時56分56秒 | 聖書
(ピリピ一・二七)
 
ここに「生活しなさい」と訳されたことばは、この世にある私たちの生活と行動のすべてを意味している。原語のギリシヤ語では、市民としての行動と特権を意味する。したがって、新しいエルサレムの市民としての私たちの行動を、キリストの福音にふさわしいものにすることが命ぜられている。ではそれは何か。
まず第一に、福音は非常に単純である。したがって、クリスチャンは、その習慣において単純率直でなければならない。態度、言語、服装、行動の一切において、美の真髄である単純さがなければならない。
福音はまたどこでも真実である。クリスチャン生活は真理の宝石がなければ、光も価値もない。
福音は何ものをも恐れない。人が好もうが好むまいが、大胆に真理を宣べ伝える。それと同様に、私たちも忠実であり、ひるんではならない。
しかし福音はまた、非常に温和なものである。それを始められたお方の「いたんだ葦を折ることもなく」という精神を見よ。ある者たちはいばらよりも鋭い。彼らはイエスのようではない。私たちは温和なことばや行いによって、他の人々を主に導こうではないか。
福音はまた非常に愛に富んでいる。それは、愛の神の、滅びゆく堕落した人類に対するメッセージである。
キリストの弟子たちに対する最後のご命令は「あなたがたは互いに愛し合いなさい」であった。おお、すべての聖徒に、もっと真実な、心からの一致と愛が欲しい。最も邪悪な、最も不道徳な人々に対しても、もっと優しい同情を注ぐようでありたい。
キリストの福音が聖なるものであることを忘れてはならない。それは決して罪を大目に見ない。罪を赦すが、ただ贖罪によってのみ赦す。もし私たちの生活を福音に似たものとすることを願うならば、単に重大な不道徳を避けるだけでなく、キリストとの完全な一致を妨げるものはいっさい避けなければならない。
キリストのため、私たち自身のため、また他の人々のため、私たちは日ごとに、自分の生活がさらに福音と合致するように努めなければならない。
 
 
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「信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです。

2016年05月24日 18時56分01秒 | 聖書


ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました」(Ⅰテモテ1:18)

信仰生活に「良心」が非常に大切だが、良心とはどんなものだろう。
よく、船舶や航空機の方位や進路を測る、羅針盤に例えられる。
羅針盤は正しい方向を示すので、自分の言葉や行ないを羅針盤に照らすと、方向違いを教えてくれる。
しかし、その羅針盤自体が正常でなければ、良心の判断も何もかもが狂って来る。
羅針盤に故障があるように、良心も絶対的なものでなく、教育や価値観で違って来る。
正しいと確信して自爆テロができるし、パウロも神のためと信じてクリスチャンを迫害していた。
私たちは心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられた。
御霊は御言葉により、平安の有無、促しにより正しく軌道修正して下さる。
御霊の促しを無視せず聞き従おう。
無視し続けるなら良心が麻痺してしまう。
良心が麻痺するなら、どうにも出来ない。破船だ。
どんな立派な船でも、船に穴が開き水漏れがあると必ず沈没するように、良心にも穴があり漏れたままなら、信仰が機能しなくなる。
とがめがある時、神を信じて行く事ができない。
罪責感がある時、信仰に立てない事は経験済みだ。
罪は、真実に御前に悔い改める事だ。
神は豊かに赦し良心のとがめをきれいに消し去って下さる。
その結果平安が臨む。
御霊の導きに敏感であり、正しい良心を保とう。
------------------
正しい羅針盤があるのに、その導きに従えない罪を覚える。
そのままにせず、立ち止まり、悔い改めて、もう一度真実の羅針盤を見て方向を定めよう。

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◆あざける生活

2016年05月24日 07時13分15秒 | 聖書

あざける者は知恵を捜しても得られない。
しかし悟りのある者はたやすく知識を得る。(箴言一四6)
 
あざける心・軽蔑する心・けなす心は、私たちの心のひずみの表れではないでしょうか。満たされた満ち足りた心からは、あざけりや軽蔑は出てきません。何だばかばかしい、とか、何だつまらないなどと、口ぐせに言う人があります。しかし、多くの人は口には出さず、心の中にその軽蔑やあざけりをかくしておきます。しかし、どちらも同じものです。
あざけりや軽蔑が出てくる背後には、何があるのでしょう。
第一に、ねたみから起こる攻撃的排他的な気持ちです。他人が金をもうけると、なにあくどいことをしてもうけたのさと、けなします。
第二に、けなすことによって、自分の自信のない優位性を守ろうとする気持ちです。やつが一番だって、ガリ勉だからな。おれだって、あいつみたいにガリ勉やればそうなるさ。だけど、おれは点とり虫じゃないというのです。
第三に、自分のみにくさ・罪深さ・弱さを、知らず知らず人を判断する尺度にしていることです。あんなうまいこと言って。いつもあいつは、おべんちゃら言って取り入ろうとしているんだなどと、批判するのです。
素直に人を受け入れ、人の中に良い点を見いだし、心から尊敬し、人をいつも善意をもって見、判断する。――こんな態度は何とすばらしく、うるわしい祝福された態度であることでしょうか。こんな人は、「たやすく知恵を得る」のです。ですから、賢い祝福された生活が送れるのです。
修養によっては、こんなに素直なねたみ心のない態度は出てきません。愛をもって私たちを受け入れ、善意と愛を傾けて導いてくださる神を見いだし、神を信じるところから生まれるのです。
 
 
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◆ほむべきかな。

2016年05月24日 07時12分30秒 | 聖書
神。神は、私の祈りを退けず……。(詩篇六六・二〇)
 
私たちが自らの祈りの内容を正直に顧みるならば、神がそれに答えてくださるのがかえって不思議に思われる。ある人々はパリサイ人のように、自分たちの祈りは聞かれる価値があると考えている。しかし真のクリスチャンは深く自己を内省してその祈りを悲しみ、もし可能ならば過去の祈りをやり直して、もっと熱心に祈りたいと思う。
主にある友よ。あなたの祈りがいかに冷たいものであったかを思い出せ。あなたは密室においてヤコブのように格闘すべきであった。にもかかわらず、あなたの祈りには力がなく、回数も少なく、ヤコブが「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」と叫んだような、謙遜で忍耐強い信仰からは、はるかに遠いものであった。しかし驚くべきことに、神はあなたの冷淡な祈りを聞かれた。聞かれたばかりでなく、それに答えてくださったのだ。
また祈りの回数がいかに少なかったかを思え。困難が臨むと、あなたは恵みの御座に駆けつける。ところがそれから救われた後、あなたの不断の嘆願はどこへ行ってしまうのか。しかし、あなたが以前のような祈りをやめてしまっても、神はあなたを祝福することをやめられない。あなたが恵みの御座へ行かなくなっても、神はそこを去られない。そして、ご臨在の強い輝きが常にケルビムの翼の間に見えている。ああ、私たちが必要に迫られた時にだけする間欠的な祈りをも、神が顧みてくださるとは実に驚くべきことである。かなわぬ時は神に泣きつき、恵みを受けた後にはすぐに背を向ける者、必要に迫られれば神のみもとに近づき、恵みが豊かで悲しみの少ない時には神に対して見向きもしない者、このような者の祈りを聞いてくださるとは、なんという神であろう。
このような神の優しいあわれみが私たちの心に銘記されるように。今後私たちは「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈り」たいものである。
 
 
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エズラ書8章31-34節

2016年05月24日 07時11分10秒 | 聖書


8:33 四日目に銀と金と器類が、私たちの神の宮の中で量られ、ウリヤの子の祭司メレモテの手に渡された。彼とともにピネハスの子エルアザルがおり、彼らとともにレビ人であるヨシュアの子エホザバデと、ビヌイの子ノアデヤがいた。
8:34 全部が数えられ、量られた。そのとき、全重量が書き留められた。



 エルサレムへの旅は、主の守りの中で無事になされました。

着いてから3日間は休みました。

そして4日目に、祭司たちに守られ、運ばれてきた金銀や貴い器などが、ウリヤの子の祭司メレモテに渡されました。

相当な量の捧げ物でした。 

しかし彼らは、それらのものを正確に計って、その上で記入をしました。

こうしてその捧げ物が記録され、また後にそれが用いられていく時に、何の為に用いられるのかが記録されたのです。

 ここには、エズラの心構えがあります。

主への捧げ物であるからこそ、正確に計って記録をし、何の為に用いるのかをあらゆる人がわかるように、配慮をしたのです。主のためのものに対しては、注意をしたのです。


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詩篇11篇7節

2016年05月24日 07時08分50秒 | 聖書


★主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。

詩篇12篇2-3, 6節
★人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、ことごとく断ち切ってくださいますように。
★主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。

■O:今日のコラム
今日の詩篇は二つともダビデによるものです。
ダビデは礼拝者であり、勇士でした。多くの戦いに勝利しました。

私たちも、勝利する主の勇士となるように、神様から召されています。
勝利するとは、様々な誘惑や試練の中で、「神様を愛することを選ぶ」ことです。御父の願いは、私たち一人一人の神の子たち、またキリストの花嫁なる教会が、勝利すること、神様を愛する者となることです。

「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。」( 黙示録21: 7)

勝利しようとする時にいくつかのことを覚えておくことが必要です。(小羊の血潮もちろん。いつも書かれているので、今日は、それは書きません。)

1)霊的戦いの自覚
まずは、自分たちが霊的戦いの中にいる、という事実を認め、信じる必要があります。私たちの周りで起こることには、ただ自然の法則があるだけでなく、聖書に書いてある通りの霊的な領域があること、私たちの人生を破壊し、よいものを盗み、滅ぼそうと狙っている力があることを知らなければなりません。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6章12節)

「 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。」( 1ペテロ5章8-9節)

2)口の告白で選択
それから、私たちの勝利は、体力や意思の強さよりは、「選択」と「告白」にかかっていることを覚えましょう。
詩篇12篇は、「うそ、へつらい、傲慢の舌や唇 」vs 「主の混じり気のない純粋な御言葉」の対比が描かれています。
聖書は、御言葉を口ずさむこと、朗読すること、声に出して宣言することを励ましています。
私たちの心には様々な感情が湧き上がり、私たちの思いには様々な考えが思い浮かぶからです。
心がどんなに痛んでも、頭の思いがどんなに納得できなくても、勝利する、神様を愛する方を選ぶことは可能です。そして、口の告白が、私たちが何を選んだのかを表します。

3)正義の胸当て
「 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」(ヤコブ4:17)

「しかし、疑いを感じる人が食べるなら、罪に定められます。なぜなら、それが信仰から出ていないからです。信仰から出ていないことは、みな罪です。」(ローマ14:23)

ダビデは、正しいこと、正義、義を行うことで、信仰によって清められた聖い心を保ち、御言葉の真理で心の倉を満たし、神の真理の言葉、信仰の言葉、主への賛美、賞賛を宣言して勝利しました。

「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」
(エペソ6:14-17)

「聖徒たちは栄光の中で喜び勇め。
おのれの床の上で、高らかに歌え。
彼らの口には、神への称賛、
彼らの手には、もろ刃の剣があるように。
それは国々に復讐し、国民を懲らすため、
また、鎖で彼らの王たちを、
鉄のかせで彼らの貴族たちを縛るため。
また書きしるされたさばきを
彼らの間で行うため。
それは、すべての聖徒の誉れである。」
(詩篇149:5-9)

「 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(1ヨハネ5:3)
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」(1ヨハネ4:20-21)


■A:考えてみよう
キリストの兵士として、私が今勝利すべき領域は何だろう。
私には絶えず罪責感を感じている領域があるだろうか。
その領域において勝利をおさめ、正義の胸当てをつけることができるよう、主の助けを求めよう。
私の唇、私の舌は、へつらいを語っているだろうか、傲慢な言葉を語っているだろうか?
私の心には、二心があるだろうか?高ぶりはないだろうか?私の心は混じりけのない御言葉で満ちているだろうか?
私は神を愛し、兄弟姉妹を愛しているだろうか。

■P:祈り
主よ。あなたを愛し、あなたの命令を守り、勝利する主の勇士、主の礼拝者としてください。イエスキリストのお名前によってお祈りします。

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5月23日(月)のつぶやき

2016年05月24日 01時40分35秒 | キリスト教
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