座間コミニティー

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◆私が呼んでも、

2016年03月29日 16時04分39秒 | 聖書
答えはありませんでした。(雅歌五・六)
 
嘆願をする者が門で待つように、祈りも時には答えのないことがある。しかし、主はついに出て来られて、その求める祝福を満たしてくださる。主は大いなる信仰を与える時、長く待たせることによって試みられる。しもべたちの声を、銅を張った空にこだまさせるように、むなしく彼らの耳にこだまさせられる。彼らは金の門をたたく。しかし、門は微動だにしない。彼らはエレミヤのように、「あなたは雲を身にまとい、私たちの祈りをさえぎりました」と叫ぶ。このように、真の聖徒は長い間答えを待ちながら、忍耐強く祈り続ける。それは彼らの祈りが熱烈でないためでも、それらが受け入れられていないためでもない。主権者であり、みこころのままに与えることをなさる神が、そのような祈りをこの上なく喜ばれるからである。
私たちの忍耐を働かすように命ずるのを主が喜ばれるなら、主はご自分の民に対して望まれるままにされないであろうか。しかし私たちは、答えが長びくのを、祈りが拒まれたのだと判断することのないようにしなければならない。神の長期手形は期日になれば、必ず支払われる。私たちはサタンが答えられぬ祈りを指して、まことの神に対する私たちの信頼を動揺させようとするのを許してはならない。祈りが答えられないのは、祈りが届いていないためではない。神は私たちの祈りを記録しておられる。私たちの祈りは風に吹き飛ばされるのではなく、王の記録保管所のうちに大切に保管されている。
試練の中にある信者よ。あなたの主は涙のつぼを持たれ、聖い尊い悲しみの涙を保存しておられる。またノートを備えて、あなたの聖いうめきを数えておられる。やがてあなたの訴えは聞かれ、あなたは勝利を得るであろう。だから、しばしの間忍耐をすべきではないだろうか。主の時はあなたの時よりすぐれてはいないか。やがて主はいつくしみの顔を見せて、あなたのたましいの喜びとなり、あなたの長い忍耐の荒布と亜麻布とをしまわせ、希望が成就したというしるしの紅の衣を着せられるであろう。
 
 

「まことに、

2016年03月29日 16時03分33秒 | 聖書

その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」(詩篇1:2)

主は「何も思い煩うな」と言っておられる。
「何も」だ。
まさに今、現在あなたが思い煩っている、その事も含まれる。
思い煩わなくて良いとは、苦しみからの何という解放だろう。
しかし、尚も思い煩うのが私たちだ。
心の底の底を見て行くと、確かに思い煩いを選択している。
苦しくてそれから逃れたいはずなのに、はっきりと選択している自分がいる。
思い煩いから逃れたいのに、心配していないと不安なのだ。
冷静になって考えると、思い煩いの対象をその事を寝ても覚めても考えている。
ずっと思い煩いが襲い、思い煩う度に、その不安は更に強化され、強固なものとなりモンスターのようになって行く。
いつも思っているのだから、ますます強固になり膨れ上がるのは、当然だ。
人はその思う通りの人になって行く。
自分で思い煩いをどんどん育て上げている。
つまりは、サタンが、思いに吹き込む火矢を拒否しないで、受け入れ、同意し続けている結果だ。
サタンが思い煩いに誘惑し、攻撃している。
否定的に繰り返し繰り返し考え、尚も考え続け、心が崩壊するまで考え続けるかも知れない。
御言葉をそれほど繰り返し繰り返し思い、常に思い続けたらどんなに良いだろう。
それほど御言葉に思いを潜めるなら、御言葉が自分の思いとなって行く。
何という幸せだろう。
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肉の内にある者は肉のことが頭から離れない。
そんな時、約束のみ言葉に立ち戻ろう。
主が守り、愛し祝福していてくださる。
肉の思いが来たならみ言葉を繰り返し自分にメッセージしよう。


今日の聖人の記念日

2016年03月29日 07時50分17秒 | キリスト教

聖ヨナ、聖パラキシオ兄弟殉教者

4世紀ごろ

 ヨナとパラキシオは兄弟であり、ペルシャのベト・アサに生まれた。2人は、熱心なキリスト信徒であった。当時、ペルシャはシャプール2世の統治下にあり、キリスト教に対して厳しい迫害が行なわれていた。兄弟は、捕えられている信徒たちを慰めるために牢獄に出かけていたが、ついに彼らも捕まり、法廷に連行された。そしてペルシャ王を崇拝し、自然の神々を礼拝することを強いられたが、拒んだために死刑を宣告された。

 残酷な責め苦の後に、ヨナは体を押しつぶされ、パラキシオは尖った木を体に突き刺されるという刑を受け、最後まで神を賛美しながら殉教した。


◆怠 惰 と 勤 勉

2016年03月29日 07時49分12秒 | 聖書

無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。     (箴言一〇4)
 
無精者が寄り集まって相談しました。「おい、みんなで無精会ってのつくろうか。」「よせよ。面倒くさい。」こんな無精者が目立って落語の材料になるくらい、日本人は勤勉ではないでしょうか。私たちが自分は無精だと思っていても、外国人から見ると日本人は勤勉で働きすぎると言われています。
「わたしゃ、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」という人にも会いました。これもどうかと思います。けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた一九七八年の数字によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ一〇10)。
 
 

◆キリストは御子であられるのに、

2016年03月29日 07時48分02秒 | 聖書
お受けになった多くの苦しみによって従順を学び……。(ヘブル五・八)
 
私たちの救い主イエスでさえ、苦難によって完全になられたと言われている。したがって、完全にほど遠く、罪深い私たちが、苦難を通るように命ぜられたとしても驚いてはならない。かしらである方がいばらの冠をかぶらせられたのに、そのからだの肢体が安逸をむさぼっていてよいのだろうか。キリストがご自身の血の海を渡って冠を得られたのに、私たちは銀のスリッパをはいて、足をぬらさずに天国へ歩いて行くのだろうか。否! 主のご経験は、私たちに苦難が必要であることを教え、真に新生した神の子どもがそれを逃れたり、逃れようと欲してはならないことを教える。
しかしキリストが「苦しみによって従順を学び、完全な者とされた」との事実の中に、一つの非常に慰めとなる思想がある。それは、主が私たちに対して全き同情をもたれるということである。このキリストの同情が私たちを支える力となる。昔、ある殉教者はこう言った。「私はこの苦難のすべてに耐えることができる。それはイエスが苦しまれたからであり、今も私の中にあって苦しんでおられるからである。主は私に同情してくださる。それで私は心強い」と。主にある友よ。苦しみの時いつもこのことばを思い出せ。
あなたが主の足跡に従う時、主を思い、自らの心を引き立てよ。主のご同情の中に麗しい心の支えを見いだせ。そして苦しみは名誉であり、キリストのための苦しみは栄光であることを深く覚えよ。使徒たちは、御名のために辱しめられるに値する者とされたことを喜んだ。キリストのために苦しみ、キリストと共に苦しむ恵みを与えられるのに応じて、主は私たちに栄誉をも与えられる。クリスチャンの宝石はその苦難である。神の油注がれた王たちの位を証明するものは、彼らの困難と苦悩と悲哀である。だから、この名誉が与えられる時にそれを避けず、抜擢されるのに顔を背けることのないようにしようではないか。悲しみは私たちを高め、困難は私たちを引き上げる。「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。」
 
 

第2歴代誌32章16-19節

2016年03月29日 07時46分48秒 | 聖書


32:18 さらに、彼らは城壁の上にいたエルサレムの民に向かい、ユダのことばで大声に呼ばわり、彼らを恐れさせ、おじけさせて、この町を取ろうとした。
32:19 このように、彼らは、エルサレムの神について、人の手で造ったこの地の民の神々についてと同じように、語ったのである。



 アッシリヤの王セナケリブから使わされた兵士たちは、セナケリブがユダの人々に向かって書き送った手紙を大声で読みました。

また、さらにユダヤ人がわかるように、彼らの言葉、すなわちヘブル人の言葉で大声で語りかけました。

ですから、高い城壁の上にいるユダの兵士たちも、その語る声に耳を向けざるを得ませんでした。

 彼らは、イスラエルの神であられる主なる神の御名を冒涜し、このお方が他の国のように、単に人が作った神に過ぎないと侮りました。

彼らの戦略はこうしたことによって、ユダの兵士たちを怯えさせ、怖じけさせて、エルサレムを守ることを放棄させようとしたのです。

自分たちの力を誇示し、軍事的に弱いこの民を怯えさせて、降伏させようとしたのです。

力がすべてだと、誇示したのです。


出エジプト35:10、26

2016年03月29日 07時44分49秒 | 聖書


★「あなた方のうちの心に知恵のある者は、みな来て、主が命じられたものをすべて造らなければならない。」
★「感動して、知恵を用いたいと思った女たちはみな、やぎの毛を紡いだ。」

■O:今日のコラム
新改訳で「心に知恵のある」「知恵」と訳されている言葉は、ヘブル語では、それぞれ、chakam、chokumah、という単語で、技術的な、専門的な仕事、工業、工芸的な作業において、熟練した、上手な、巧みな、また、管理力、統治能力において懸命な、知恵のある、戦争において腕が立つ、などの意味があります。

旧約聖書に出てくる、「幕屋」とか「祭司」の詳細について読む時、ユダヤ人の宗教的儀式の説明だ、と思うなら、飛ばして読みたくなるかもしれません。
しかし、神様のご計画が、創世記から黙示録まで変わらないということを思い出し、幕屋の目的にも、祭司の務めにも、私たちへの素晴らしいメッセージがあることを思い出すなら、一つ一つの細かい記述も、わくわくする内容になります。

幕屋とは、神様が住み、治めておられる天の領域と、私たちが住み、治めなさい、と任されている地の領域がつながる場所です。
ここで、私たちは神様に仕え(礼拝をささげ)、人々に仕え(執り成し)、神様と出会い、御言葉を受け取ります。

今は、キリストの十字架を信じて、キリストを通して神様に近づく人々すべてが、それぞれ幕屋であり、また、その人たちの集まり、教会が、その幕屋です。

神様は、この地上の「幕屋」(一人一人のクリスチャン、クリスチャンの集合体としての教会)を、神の国の地上基地、大使館、天国の門とし、暗闇の王国、悪魔のしわざを打ち壊し、神の国の支配をもたらしたい、と願っておられます。

私たちが神様に祈り、礼拝を捧げ、御言葉を受け取り、それを一つ一つ実行していく時(たとえば、赦し、受け入れ、尊敬し、愛し、親切にする、正義を行う…、伝道し、救いに導き、癒し、解放し、悪霊を追い出し、心の傷をいやし、和解をもたらしていく…)暗闇の王国が敗北し、神の国が領土を広げているのです。

旧約時代に、荒野で、モーセを通して、神様のデザインされた幕屋の建築計画が発表され、人々がそれに応答したように、今の時代も、この地上の荒野に、イエス様を通して、神様のデザインされた幕屋(キリストの身体、神の宮、教会)の建築計画が発表され(約2000年前)、土台が据えられ、建築が始まりましたが、まだ完成していません。

イエス様を信じて救われ、すぐに死んで天国に移されなかった私たちは皆、この地上で行うことのできる、素晴らしい恵みの働きに招かれています。
それを行っていくために必要なのが、「心の中の知恵」です。

モーセの時、「心に知恵のある」人たちは、
1.自分が持っているものを、神様のご計画(ここでは幕屋の建設)のために自ら進んで、有り余るほど、捧げ
2また、神様のご計画のために自分の技術をささげて、小さな奉仕をし(山羊の毛を紡いだり、青色、紫色、緋色の撚り糸を紡いだり…大きな幕屋を造るために必要な小さな大事な一つ一つの部品を作った)
3.さらに、その知恵と管理能力を使って、作られた一つ一つの道具や部品を大きな幕屋として正しく配置し、組み立てる、大きな部分を建て上げる、という大きな奉仕もしました。

キリストの身体である、教会(神の神殿、神の宮、御住まい)が、この地上に建て上げられるために、神様は今も「心に知恵のある人々」を探しておられます。

■A:考えてみよう
キリストの身体、神の幕屋がこの地に建てられるために、自分が持っているもので、私が喜んで捧げられるものはなんだろう。
この幕屋が建てられるために、自分ができる小さな、大切な働き、自分が作れる小さな大切な部品はなんだろう。
この幕屋が建てられるために、自分ができる、大きな、重要な働き、骨のおれる、知恵を必要とする、責任ある仕事とはなんだろう。

■P:祈り
イエス様の十字架によって、偉大な神様、愛に満ちた素晴らしい天のお父さんの、愛してやまない子どもとされたこと、ありがとうございます。
地上で、この素晴らしいお父さんの御心を解き放つために、真心から、喜びをもってささげ、仕えることができるように、心に知恵を与えてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月28日(月)のつぶやき

2016年03月29日 01時42分24秒 | キリスト教

◆わたしは、

2016年03月28日 15時57分55秒 | 聖書
あなたがたをこうばしいかおりとして喜んで受け入れる。(エゼキエル二〇・四一英訳)
 
私たちの贖い主の御いさおしは、いと高きお方にとって、こうばしい香りである。私たちがキリストの能動的な義について語るにしても、また受動的な義について語るにしても、そこにはこうばしい香りがある。能動的な面における香りとは、主が神の律法を尊ばれたことである。そして主は、すべての戒めを、その人格の上にちりばめた宝石のように輝かされた。主の受け身の服従もまたこうばしい香りである。主はつぶやかず従順に、飢えと渇きを忍び、寒さと裸に耐え、むち打つ者にご自身をゆだね、髪の毛を引きむしる者に

「少しだけ蒔く者は、

2016年03月28日 15時56分51秒 | 聖書

少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります」(Ⅱコリント9:6)

献金は大きな祝福だ。この祝福を奪うためにサタンは必ず妨害して来る。
古い性質には欲があるため、なかなか献げられない。
ある人は「前もって用意」するよう御霊から示されていた。
銀行で下ろそうと思うが後回しなり、時間がなくなった。
礼拝では手持ちがなく渋った。
すると帰路で車のトラブルに会い数万の出費をした。
ある時も御霊からの示しに関わらず、家計の不安をあおるサタンの声に耳を貸した。
献げられなかった帰途、交通違反で罰金に。
放っておかれない神のご愛がむしろ嬉しく感謝だったと。
別の人は困窮状態のため祈り求めていると、もっと献げよと示され、支払いも滞る状況だが、御霊に従い信仰によって思いきって献げた。
すると、思いもかけない所からすべての必要額が満たされた。
身をもって従う事の祝福を知った。
肉は一から十まで自分の事だけを考え、自分の損得で動く。
絶対に損はしない。
出すのは嫌で、得る事に喜びを感じる。
しかし、新しい人は損得でなく、神の御心が判断基準だ。
例え損になっても、神に従い、御言葉に従って行く。
そして大いなる喜びと祝福を刈り取る。
金銭を献げようとする時、必ずサタンが欲に働き、妨害して来る事を覚えよう。
しかし、信仰によって従う時、大きなみわざを見る。
又、新たに主の愛を知り、喜び満ちる。
そして更に与えられる。
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富を蓄えるために生きているのではない。
主の御心を行ない、主に喜ばれ、主を知るために生きている。
御心の真ん中にいる、大海のような揺るぎない平安は、他の何にも代えられない。


今日の聖人の記念日

2016年03月28日 08時10分07秒 | キリスト教

聖ヨハネ(カピストラノ)

1386年-1456年

 ヨハネは、イタリアのカピストラノの貴族の家に生まれた。幼くして戦争で父と兄を失った。1406年にペルージアで法学を学び、才能が認められて判事となったが、ペルージア市とリミニ市の間に争いが起こり、ヨハネは投獄された。そのときの体験から、彼は修道生活を送って神に生涯をささげることを決心し、出獄後、1415年にフランシスコ会に入った。

 司祭となってイタリアの各地を説教して巡り、多くの人々を信仰に導き、また教会、修道院の改革に貢献した。当時フス派(フスは、教皇権を否定し、破門された)が広まっていたので、ヨハネは、フス派の活動を防ぐために、教皇ニコラス5世からオーストリアに派遣された。そしてハンガリー、ボヘミア、オーストリアでフス派に対しての宣教活動に励んだ。

 またトルコ軍によって1453年にコンスタンチノープルが陥落し、キリスト教が危機にされていたので、ヨハネはトルコに対して十字軍を結成することを説き、1456年、ベオグラードでトルコ軍を破った。その後、彼は伝染病にかかり亡くなった。


◆正しい者を飢えさせない

2016年03月28日 08時09分09秒 | 聖書

主は正しい者を飢えさせない。
しかし悪者の願いを突き放す。    (箴言一〇3)
 
日本人は、「飢える」ことを忘れてしまいました。私たちのまわりには、あり余るほど食べ物があるようです。しかし今でも世界人口の三分の一は飢えています。三分の一は十分食べられないで、おなかをすかしたまま寝るのです。残りの三分の一だけが、十分食べているそうです。
今の日本人の多くは、食べ物には飢えていません。しかし、この富める社会にも飢えがあると思います。それは、人と人との間の心のぬくもり・愛情の飢きんです。教育は十分、お金はどっさり、着る物は流行の先端をいっていたとしても、この飢えは解決されません。
この飢えは、神の愛を知ることによって満たされます。十字架にかかってくださったイエス・キリストの愛を受け、自分も他人に与える喜びを知った時、この飢えは初めて解決するのです。人間関係も変わってきます。神を知り神の愛を心に住まわせる人に、一人として飢える人はないのです。
パウロはこのことをあかしして、「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます」(ピリピ四19)と言いました。
神の愛を知らず、知ろうとせず、自分の能力や自分の魅力だけでやっていこうとする自信家は、やがて突き放されてしまいます。
 
 

◆人知をはるかに越えたキリストの愛……。

2016年03月28日 08時08分13秒 | 聖書
(エペソ三・一九)
 
キリストの愛の麗しさ、その満たし、その偉大さ、真実さは、人間の知り尽くし得ないものである。人の子に対するそのたぐいない愛を語ることばがどこにあろうか。それは全く広く大きいので、つばめが水面をかすめて飛ぶように、すべての人のことばは表面に触れるだけであり、測り知れない深さは、依然としてその下に横たわっている。
「おお愛よ。あなたは測ることのできない深淵だ」と詩人が歌ったのは、まさに真実である。なぜなら、このキリストの愛は測り得ないものであり、だれであっても、その深奥を極めることはできないからである。
イエスの愛について正しい概念をもつために、私たちがまず知らなければならないことは、主の初めの崇高な栄光の高さと、受肉された恥辱の深さである。しかしだれが私たちに、キリストの栄光の崇高さを語ることができようか。主がいと高き天上の王座におられた時は、主の主、神の神であられた。もろもろの天とそこにある万軍とは主の造られたもので、全能の御手は天体を支え、ケルビムとセラフィムの賛美の歌は絶えず主を囲み、全宇宙のハレルヤコーラスは、その王座にみなぎっていた。主はすべての被造物を統べ治め、万有の神として永遠にほめられるべき方であられた。いったいだれがその栄光の高さを語り得ようか。
また一方、主がいかにへりくだられたかを語ることができようか。ただ人になられたということと、悲しみの人になられたということとの間には、非常に隔たりがある。神の子であられた主が血を流し、死に、そして苦しまれたのである。そのご苦難は無比であり、恥辱の死を遂げられ、父なる神に捨てられなさったのである。これこそ、いかに深い霊感を与えられた人もうかがい得ない、愛によるへりくだりの深奥である。
ここに愛がある! その愛は、「人知をはるかに越えた」ものである。ああ、この愛により、私たちの心を賛美と感謝に満たし、その愛の力を現実に現すものとしてください。
 
 

第2歴代誌32章9-15節

2016年03月28日 08時06分24秒 | 聖書


32:15 「今、おまえたちは、ヒゼキヤにごまかされるな。このようにそそのかされてはならない。彼を信じてはならない。どのような国、どのような王国のどのような神も、その民を私の手から、私の先祖たちの手から救い出すことはできない。まして、おまえたちの神は、おまえたちを私の手から救い出すことはできない。」



 セナケリブは、エルサレムを攻略するに当たり使者を使わして、その言葉をエルサレムにいる兵士たちに伝えさせました。

「今まで、どの国の神々が自分たちの前に立ちはだかることができたか、皆滅ぼされたではないか。

今ヒゼキヤは多くの神々の像を壊して、ただ1人の神のみを礼拝するように命じ、その神に仕えるように民に告げている。

しかし、そのような神は何も頼りにならない。

その神のことを語るヒゼキヤに騙されるな、唆されるな、信じるな。」と告げたのです。

つまり、自分たちの軍隊の力と自分たちが祭っている神こそ力があり、勝利を得る。

だから、その力によって滅ぼされる前に、降伏せよと告げたのです。

主なる神に対するに挑戦であり、その主を信じる信仰者に対する、誘惑でもあったのです。


出エジプト記33章12~14節

2016年03月28日 08時03分15秒 | 聖書


★さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

■O:今日のコラム
「とりなし」とは神と人との間に立って、主の心とあわれみが人々に及ぶのを祈る事であり、正にこの出エジプト記の箇所において、偶像を造り、主に背いたイスラエルに対しモーセが祈った祈りが、とりなしの重要な姿だと言えます。

その「とりなし」の内容は、「裁きを免れたい。」と言うのでも「祝福するのを止めないで欲しい。」と言うのでも無く。「主の心にかなった道を歩みたい。」そして「主ご自身がイスラエルと共にいて、イスラエルの民に心を留めて下さい。」と言う、主が与えて下さるものでは無く、主ご自身を求める祈りです。

私達の多くの祈りと願いは、主が何かをして下さる事を求めるものです。荒野をさまよったイスラエルの民も絶えず、自分達の必要を求めて叫び、願いが満たされる事を追い求め、数多くの主の助けと御業を体験したにもかかわらず、主を愛し、主に忠実になると言う事はせず、本来ヤハウェなる主が用意されていたカナンの地を相続する約束の実現を見る事の無いまま、荒野で人生が終わりました。

もちろん私達は、主のしるし、満たし、超自然的な御業を大胆に求める事が重要です。それと同時に、主の道に従うのを求める事も決しておろそかにしてはなりません。詩篇にはこの様に記されています。

「主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。」(詩篇103:7)

私達が主の心、主の道に従い生きる為に、出エジプト記33章に記されているモーセの祈りは非常に重要な祈りと言えます。この御言葉を口に出して朗読し、自分の祈りとして主の道を求めて祈りましょう。


■A:考えてみよう
「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」(出エジプト記33:13)


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】