すべての人類の中で、私たちの主イエス・キリストのように深く、聖く、永続的な平和をもった方はかつてなかった。「あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」主の広く大きなあわれみは、主に深い喜びを与えるものであったに違いない。なぜなら、あわれみは喜びであるのだから。この喜びが時にははっきりと外に現れることがある。「ちょうどそのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。』」
キリストはご自身にとって暗い夜の時にも、ご自分の歌をもっておられた。その御顔は傷つけられ、その表情は地上の幸福の輝きを失ったけれども、なおしばしば神の応答に思いを寄せられ、たぐいない満足の高貴に照り輝いて、会衆の中で神に賛美をささげられた。この点において、主イエスは、地上にあるご自身の教会の尊い模範であられる。
現代の教会は、そのような主に愛をささげて、自らもいばらの道を歩むことを期待されている。教会は多くの患難を経て、栄冠に向かって進んでいる。教会の務めは十字架を担うことであり、自分の母の子らにはさげすまれ、のけ者とされるのがその運命である。しかし、なおも教会は深い喜びの井戸をもっている。それを飲むことのできる者は教会の実の子にほかならない。そして、私たちの救い主の場合のように、私たちにも、時には深い喜びの時が訪れる。「川がある。その流れは……神の都を喜ばせる」からである。
私たちは流浪の旅をしているが、私たちの王を喜んでいる。主にあって私たちはこの上なく喜ぶ。そして主の名において、私たちの旗を高くひるがえす。