座間コミニティー

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◆ちょうどそのとき、

2016年03月24日 16時42分13秒 | 聖書
イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。(ルカ一〇・二一)
 
救い主は、「悲しみの人」であられた。しかし思慮深い人は、主のたましいの奥底に、洗練された天の喜びの尽きない宝が蓄えられている事実を見いだす。
すべての人類の中で、私たちの主イエス・キリストのように深く、聖く、永続的な平和をもった方はかつてなかった。「あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。」主の広く大きなあわれみは、主に深い喜びを与えるものであったに違いない。なぜなら、あわれみは喜びであるのだから。この喜びが時にははっきりと外に現れることがある。「ちょうどそのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた。『天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。』」
キリストはご自身にとって暗い夜の時にも、ご自分の歌をもっておられた。その御顔は傷つけられ、その表情は地上の幸福の輝きを失ったけれども、なおしばしば神の応答に思いを寄せられ、たぐいない満足の高貴に照り輝いて、会衆の中で神に賛美をささげられた。この点において、主イエスは、地上にあるご自身の教会の尊い模範であられる。
現代の教会は、そのような主に愛をささげて、自らもいばらの道を歩むことを期待されている。教会は多くの患難を経て、栄冠に向かって進んでいる。教会の務めは十字架を担うことであり、自分の母の子らにはさげすまれ、のけ者とされるのがその運命である。しかし、なおも教会は深い喜びの井戸をもっている。それを飲むことのできる者は教会の実の子にほかならない。そして、私たちの救い主の場合のように、私たちにも、時には深い喜びの時が訪れる。「川がある。その流れは……神の都を喜ばせる」からである。
私たちは流浪の旅をしているが、私たちの王を喜んでいる。主にあって私たちはこの上なく喜ぶ。そして主の名において、私たちの旗を高くひるがえす。
 
 

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。

2016年03月24日 16時41分18秒 | 聖書


みことばには、あなたがたのたましいを救うことができます」(ヤコブ1:21)

人は御言葉によって形造られて行く。
御言葉は霊であり、いのちそのものだ。
御言葉が私たちの心の奥深くに響き、入る時、私たちは新たにされる。
御言葉に霊が宿っているからだ。
しかし、これには条件があり、自由な自発的な意志のもとでだ。
自由意志が必要だ。ロボットは言う通りの事をするが、そのものの意志は無い。
自由意志がないのがロボットだ。
神は人格を持っておられ、私たちにも人格を与えて下さった。
その人格を尊重される。つまり、自由意志を尊重される。
決して強いられる事はない。首に縄をつけて引かれる事はない。
どこまでも自由意志に任せられる。
だから、御言葉を心に受け入れるかどうかの選択は、私たちの自由意志に委ねられている。
受け入れる事も拒否する事もできる。自由だ。
御言葉への関わりはこの二つしかない。
あからさまに拒否はしないが、聞き流し受け入れないだろうか。
自分に都合の悪い、痛い御言葉は心に入れない。
密かに心を閉ざしてしまう。聞きたくない。
しかし、これは拒否と同じだ。
自由な自発的な意志が必要だ。
自由意志で、心に自ら受け取る時、必ず私たちは新しくされる。
変えられる。御言葉にはその力がある。
御言葉には問題無いが、私たちの聞く態度はどうだろう。
あなたにとって聞きたくない、痛い言葉こそが、あなたを変えてくれる最も必要な御言葉だ。
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痛い御言葉に向き合おう。うすうす気づいているその部分だ。
気づいているから避ける。自我に触れ、頑なな部分に触れている。
その所を解き放ち、自由にし平安にして下さるためだ。
逃げないで御霊に心を探って頂こう。


今日の聖人の記念日

2016年03月24日 07時18分49秒 | キリスト教

聖カタリナおとめ(スウェーデン)

1331年-1381年

 カタリナは、スウェーデンの名門貴族の家に、ビルジッタ修道会を創立した聖ビルジッタ(7月23日 参照)の四女として生まれた。7歳のときリスベルクの修道院で教育を受け、14歳でドイツの貴族エガルト・フォン・キュルネンと結婚したが、修道女になりたいとの望みを抱いていたカタリナは、夫に頼んで純潔を貫いた。

 1350年に、カタリナはローマにいる母ビルジッタを訪ね、ともに祈り、巡礼、慈善の生活を送ったが、翌年夫の死を機に、母が1346年にヴァズテナに建てた修道院の確立、発展にともに献身した。1374年に母が亡くなると、同会の修道女となって会を導いた。1375年から1380年にかけて、カタリナは修道会の認可を得るための運動に励み、教皇ウルバヌス6世の支持を得た。


◆知恵の責任

2016年03月24日 07時17分43秒 | 聖書

もし、あなたが知恵を得れば、
その知恵はあなたのものだ。
もし、あなたがこれをあざけるなら、
あなただけが、その責任を負うことになる。(箴言九12)
 
一六〇九年、ガリレオは、熱心に製作して完成させた、倍率四十倍の望遠鏡を空に向けました。そこで見た事実について翌年発表したところ、世界中の人は興奮しました。今まで見えなかった新しい世界が見えたからです。
造り主である神を認め、その神の愛を知ることは、ちょうどそのようです。新しい自分の可能性が見えてきます。自分の事業や自分の人間性を、みな新しい観点から見直せます。家庭も新しくなり、愛が深くされます。
しかもこの神の知恵は、だれもあなたから奪い去ることはできません。大水も大火事も大地震も、人の裏切りも無理解も迫害もです。
パウロは言いました。「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。……しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ八3537)。
しかし逆に、この神の愛をつかまないでいると、「貧すれば鈍する」で、いよいよ挫折感・ゆきづまり・迷い・疑い・悪意・勘ぐりだらけになるのです。独りぼっちで人の心の中にも入れず、人を心に受け入れることもできません。
ただ、こんなすばらしい神の知恵・愛を知った人には責任もあります。人を愛し、人にこの愛を分け、人にこの愛を知らせる責任です。この責任に目ざめ、この責任のために立ちあがった時、その人に、ほんとうに生きがいのある人生が開けるのです。
 
 

◆その恐れのゆえに聞き入れられた。

2016年03月24日 07時16分44秒 | 聖書
(ヘブル五・七英訳)
 
この恐れは、ご自分が神から全く捨てられることを思って、起こったのであろうか。これ以上の試練が、あるいはあるかもしれない。しかし神から全く捨てられるということは、たしかに最悪の試練の一つである。サタンは主に言った。「見よ。あなたの友はどこにもいない。あなたの父はあわれみの心をあなたに閉ざした。神の宮の天使はだれ一人、手を伸べて助けない。天は全くあなたから遠ざかり、あなたは孤立無援だ。親しかった友を見よ。何の値打ちがあるか。マリヤの子よ。ヤコブ、愛していた弟子のヨハネ、また大胆な弟子ペテロは、あなたの苦難の時眠ってしまった卑怯者ではないか。天にも地にも、あなたは一人の友もいない。地獄はあなたに向かって敵対している。私は悪魔たちを総動員した。あらゆる地に手紙を送り、すべての暗黒の君たちを召集し、今晩あなたを攻撃させ、一本の矢も残らず射尽くし、すべての地獄の力をもって、今やあなたを押しつぶそうとしている。これに対してどうしようというのか」と。
これは誘惑であったろう。なぜなら天使が現れて主を強め、その恐れを取り去ったからである。主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。主はもはや孤独ではなく、天は主と共にあった。主はこのために、三度までも弟子たちのところに来られたのであろう。ハートが歌ったとおりである。
 彼は人の助けを求めるように
 前に、後ろに、三度足を運ばれた
主は、本当にすべての人が主を捨てたかどうかをご自身で見たいと思われたのであった。主は弟子たちがみな眠っているのを見られた。しかし彼らの眠りは裏切りではなく、悲しみのためであり、心は燃えていても肉体が弱いからであることを思い、かすかな慰めを得られたことと思う。いずれにしても、主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」。イエスの祈りは、最も深い悩みの中にある時に聞かれたのである。私のたましいよ。おまえの祈りもまた聞かれるであろう。
 
 

第2歴代誌31章2-10節

2016年03月24日 07時10分27秒 | 聖書


31:4 さらに彼は、エルサレムに住む民に、祭司とレビ人の分を与えるように命じた。祭司とレビ人が【主】の律法に専念するためであった。
31:5 この命令が広まるとともに、イスラエルの人たちは、穀物、新しいぶどう酒、油、蜜など、すべての野の収穫の初物をたくさん持って来た。彼らはすべてのものの十分の一を豊富に携えて来た。



 神様の元に立ち返ったら、その後は元のままというのでは、何もなりません。

その後の歩みは、今度は神様が示された道に歩むことです。

ヒゼキヤはそのことをよく知っていました。

そこで彼は、民が神殿で正しく礼拝ができるために、神殿での奉仕をする祭司やレビ人を整えました。

奉仕のための順序を保つために、組み分けをして、奉仕をしやすくしました。

民に対しては、祭司やレビ人たちが神殿での働きに専念することができるように、10分の1の献品を毎年するように命じました。

そして、自らもそのために献げものをしました。

そうすることによって民全員が、神様が与えてくださる霊的な祝福に、継続して預かることができるようにしたのです。


出エジプト記25章2節(出エジプト記26章)

2016年03月24日 07時07分00秒 | 聖書


★『わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。』(出エジプト記25:2)


■O:今日のコラム
喜んで進んで捧げる物によってモーセの幕屋のあらゆるものが作られていきました。これは本当に心から喜んでなのです。だから他の箇所にはこうも書いてあります。

『感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、また、そのすべての作業のため、また、聖なる装束のために、主への奉納物を持って来た。』(出エジプト記35:21)

バビロン捕囚の後に神殿が再建されるときにも同じでした。

『一族のかしらのある者たちは、エルサレムにある主の宮に着いたとき、それをもとの所に建てるために、神の宮のために自分から進んでささげ物をした。』(エズラ2:68)

 自発的に、喜びをもって捧げる礼拝(捧げもの)を材料として、私たちは築きあげられていくという事は真理です。いやいやながれでもなく、強いられてでもなく、喜んで与える人を神は愛してくださるので、その時に主との愛し合う関係が築き上げられていくのです。
 夫婦でも友人でもそうでしょう。どちらかが一方的にアプローチするとき、その人自身は取り扱いを受け、砕かれ、学ばされていきますが、双方の間に愛し合う関係が築き上げられているか?というとそうでもありません。
 だからといって、自発的な愛だけを捧げましょう!というとかなりレベルが高い要求となります。私たちは主の恵みによらなければ、喜んで捧げる礼拝をすることはできません。自分の決断だけでも自分の心の在り方を変える事は出来ないのです。喜んでいないのに、喜べ、と自分に言い聞かせても喜べないのです。神の力が必要です。
 ダビデの幕屋のトップのワーシップリーダーであるアサフも詩篇73篇の中で、喜びないまま、国家公務員としての務めなので仕方なく聖所に進み出て行きました。しかし、主に近づく者に主は報いてくださるのです。アサフは主の恵みを受け取り、目が開かれ、いのちが豊かにされ、「主のそばにいる事が幸せなのだ」と心が変えられたのです!そして、彼はその時に主との愛の関係が築き上げられていく状態に入ったのです。一方的に恵みを受ける者から、恵みに応えて、愛をもって主を礼拝する、父が求めている「霊とまことによる礼拝者」となったのです。私たちも日々、神に近づく者に神が報いてくださることを信じて、近づいて行きましょう!

『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(へブル4:16)

 その時に大切なのが、聖所に入るために大庭でするべきこの事です。悔い改めて、キリストの血の力により頼む事です。

『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。』(へブル9:14)

 今日も愛によって働く信仰に燃やされて、一日の全てを神を愛するが故に行なっていきましょう!


■A:考えてみよう
イエス様の血潮によって、喜びをもって、愛をもって主を礼拝する、霊とまことによる礼拝書として、今日の全てを礼拝として捧げよう!主との愛の関係を築き上げていこう!


■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月23日(水)のつぶやき

2016年03月24日 01時42分09秒 | キリスト教