座間コミニティー

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◆あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。

2016年03月16日 17時18分38秒 | 聖書
それらが私を支配しませんように。(詩篇一九・一三)
 
この祈りは、「私を引き止めてください。さもないと私は罪の絶壁からまっさかさまに落ちてしまいます」という意味である。私たちの邪悪な性質は、ともすれば荒馬のように暴走しようとする。どうか神の恵みが私たちにくつわをつけ、人に危害を加えることがないよう引き止めてくださいますように。もし神が摂理と恵みによって制止なさらなかったら、私たちはどうなることだろう。
詩篇作者の祈りは、最悪の型の罪に向けられている。すなわち、故意と自己中心から生じた罪に対してである。最も聖なる人々でさえもとどめられて、極悪な咎から守られる必要がある。使徒パウロが最も忌まわしい罪について、聖徒たちに警告しているのは厳粛なことである。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」聖徒たちに、このような罪を警告する必要があるのか。実に必要なのである。純白な衣も、その純潔が神の恵みによって保たれなければ、真黒なしみに汚されるのである。
老練なクリスチャンよ。あなたは自分の経験を誇ってはならない。もしあなたをつまずかないように守るお方から目を離すなら、たちまちつまずく。燃えるような愛をもち、確固たる信仰をもち、輝かしい希望をもつ者よ。「私たちは決して罪を犯さない」と言ってはならない。むしろ「私たちを試みに会わせないでください」と叫べ。最も敬虔で信仰に満ちた人々の心の中にも、燃えやすいものがある。落ちてくる火の粉を神が消さなければ、地獄の火がその心の中で燃えることになろう。義人ロトが酒に酔い、不潔な罪を犯すなどと、だれが予想したことだろう。ハザエルは「しもべは犬にすぎないのに、どうして、そんなだいそれたことができましょう」と言った。私たちも同じような高慢な問いをしがちではないか。無限の知恵が、私たちの自己過信の病をいやしてくださいますように。
 
 

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。

2016年03月16日 17時17分45秒 | 聖書


私の救いは神から来る」(詩篇62:1)

信仰生活を歩み始めると、信仰人生、自分の思い通りにはならない、という事がわかってくる。
神の思いと自分の思いが違うのだ。
自分の思いとしては、これが最善!と思うが、そのように事は運ばない。
神の思いは違う。そして振り返る時、自分の思い通りにならなくて良かった!と必ず思える。
あのまま進んでいたならどんなに恐ろしい高慢に陥っていただろうと。
しかし、今、目の前の事が思い通りにならないと、やっぱり同じように焦りや不安で一杯になる。
神の方法と神の時がある事を覚えよう。
絶妙のタイミングで神は事をされる。
神の定めた「時」がある。
それ以前に幾らもがいてもどうにもならない。
それより安んじて待とう。
人は先が全く見えない。
目先の事しかわからない。
神は何もかも見通しておられる。
その神を信頼しよう。
又、人は自己中心というメガネをかけているので、物事が歪んで見える。
自分中心にしか見えないので、最悪にしか見えない。
が、実は神の素晴らしいご計画だ。
何もかもが、ぐちゃぐちゃにしか見えないが、実は神のご計画は着々と進行している。
ヤコブは「私も失う時には失うのだ」とヨセフもシメオンもベニヤミンも失ったかに見えた。
しかし実際は何も失っておらず、ヨセフと再会、飢饉から一族は命を救われ、家族皆で暮らせるという最高の幸せが伏せられていた。
どうれであれ、自分自身にとっての最善をして下さる。神を信じていよう。
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すべてに「神の時」がある。それ以前にどうあがいて焦っても、何一つ動かない。
神の時には、門が開きひとりでに事が進んで行く。
全主権は神にある。
神のご愛を信じて、待っていよう。


今日の聖人の記念日

2016年03月16日 07時56分36秒 | キリスト教

聖ヘリベルト大司教

970年ごろ-1021年

 ヘリベルトは、ドイツのヴォルムス市の貴族の息子として生まれた。ロレインの修道院で教育を受け、司祭となり、994年に皇帝オットー3世の高官となった。ヘリベルトは、オットー3世の良き相談相手であると同時に友人であり、政治家としても手腕をふるった。999年にケルンの大司教に就任した後も政治にかかわり、皇帝を支えた。また当時は、多くの聖職者が国務に携わっていたので、ヘリベルトは、彼らの霊的務めを深めることにも力を注いだ。

 次の皇帝ハインリッヒ2世は、長い間ヘリベルトに良い感情を抱いていなかったため、彼を投獄したときもあったが、ヘリベルトの死の直前に、彼の知識と誠実さを認め、和解した。


◆世界の計画者

2016年03月16日 07時55分45秒 | 聖書

神が上のほうに大空を固め、
深淵の源を堅く定め、
海にその境界を置き、
水がその境を越えないようにし、
地の基を定められたとき、
わたしは神のかたわらで、
これを組み立てる者であった。(箴言八28―30前)
 
ザンブザンブと押し寄せる波を見るたびに、私はこの聖書のことばを思い起こします。そうです。神はその知恵をもって「海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし」ておられます。世界を組み立てられたのは、愛と知恵の神なのです。キリストの愛が、愛ある知恵が、この世界を組み立てられました。
愛のない知恵は恐ろしいと思います。私の身近に、最高学府を出て教育の要職についている人がいます。もちろん、「知恵のある人」でしょう。ところが、この人は妻を追い出しました。実の妹さんとは財産相続のことで、裁判で長年争っています。冷ややかな家庭です。ヒトラーも、「知恵のある人」だったでしょう。しかしヨーロッパの白人種をより純粋より優秀にしようとして、ユダヤ人や有色人種を六百万人以上も殺しました。
この世界を組み立てられたイエス・キリストは、やがて、この世界のためにご自分をささげられました。この世界は、とてつもなく大きいイエス・キリストの愛・十字架の愛で包まれています。
愛に裏づけられた知恵に、私たちは従うべきです。ですから、子どもは親に従うべきです。それと同じように、愛に裏づけられた知恵のもとである神に、人は従うべきではないでしょうか。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ八38―39)。
 
 

◆私はあなたとともにいる旅人……です。

2016年03月16日 07時54分57秒 | 聖書
(詩篇三九・一二)
 
神様。私はあなたとともにいる旅人で、あなたを目ざしている旅人ではないのです。私をあなたから遠ざける生来のものはみな恵みによって取り去られ、今あなたの同行者となり、この罪の世を外国にいる巡礼のように旅しています。あなたはご自身の世界にあって旅人です。人はあなたを忘れ、辱しめ、新しい法律と異なる習慣を作り出し、あなたを知らないでいます。
あなたの御子が民を訪ねられた時、民は受け入れませんでした。だからイエスのいのちに生きている私が、世に認められず旅人であっても驚くには当たりません。神様。イエスが他国人であられたこの世で、私は市民になりたいとは願いません。かつて私のたましいをこの地にしばりつけていた縄は、主の裂かれた御手によって解かれ、今この世にあって私は旅人であることを見いだしました。
異邦人の中で私のことばは奇異に思われ、私の態度は奇妙であり、私の行動は変わっています。外国人がロンドンの大通りに来たとしても、罪人のすみかにいる私よりはくつろぐでしょう。しかしここにいても私は喜びます。私はあなたとともにいる旅人ですから。あなたは私とともに苦しみ、私に同行してくださいます。ああ、このようにすばらしい交わりをもって旅を続けるのほ、なんという喜びでしょう。
道々あなたがお語りになる時、私の心はうちに燃えます。寄留者にすぎない私ですが、王座に座する者よりもはるかに祝福に満たされ、大邸宅に住む者にまさる平安を覚えます。
 私は時と所を選ばない
 至る所に私の国はある
 未知の地に宿っても
 そこに神がおられるので悩まない
 この地に望みをかけ、かの地を避けるなら
 どこでもたましいに幸いはない
 しかし、神が共にいて導いてくださるなら
 とどまることも行くことも共に喜ぶ
 
 

第2歴代誌29章31-36節

2016年03月16日 07時53分42秒 | 聖書


29:31 そのようなことのあとで、ヒゼキヤは言った。「今、あなたがたは主に身をささげました。近寄って来て、感謝のいけにえを【主】の宮に携えて来なさい。」そこで集団は感謝のいけにえを携えて来た。心から進んでささげる者がみな、全焼のいけにえを携えて来た。



 ヒゼキヤは神の前に罪を悔いて、自分も民も皆、主の前に新しく心を整えて、主に仕える姿勢をとりました。

今まで荒廃していた神殿を開いて、16日間にわたるきよめの作業を行いました。

それが終わると、自分たちの罪の許しを求め、また献身の思いを表す犠牲を捧げる儀式を行いました。

このような働きを終えますと、今度は民に対して、自分たちの自由な意思に基づいて、神様への感謝の献げものを献げるようにさせました。

その時の彼の求めは、自分の心の中に神様への感謝がある者が、自由に献げものをするということでした。

献捧げても、献げなくても、自由です。

そして、その自由の中に、神様のことをどのように受け取っているのかという、その人の姿勢が表されます。

民はその時、渋々献げものをしたのではありませんでした。

主を喜んで、自発的に献げものを捧げました。


出エジプト記10章9節(出エジプト記11章)

2016年03月16日 07時51分43秒 | 聖書


★モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」

■O:今日のコラム
モーセが「子供たちも家畜もみな出て行く」と告げると、パロはそれを悪意とみなしました(10節)。「壮年の男」だけ主に仕えなさい、これがパロの要求でした。

主に仕えるのは大人だけで、子供は関係ない、というのは悪魔のささやきです。また、主に仕えるのは、若い元気なクリスチャンだけで、年配の私には関係無い、、と言うのも違います。なぜなら、ヨエル書2:28に

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」

とあるからです。主の計画は、一つの世代だけでなく、「すべて」の世代にあります。私と「私の家」は主に仕えるのです。

主が再びエジプトを打つと、パロは最後にこのような要求をします。

「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」(24節)

「羊と牛はとどめておけ」…これに対して、モーセはパロにこのように答えます。「私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。」(26節)

モーセが妥協することなく、パロにはっきりと「No」と言えたのはなぜでしょう。それは、主がいけにえを捧げることを命じられたからです(出3:18)。また、主の祭りをするためです(出10:9)。この目的から外れて約束の地に入ることなど出来なかったのです。

教会が目的から外れては、どれだけ人の目に華やかに見えても主に喜ばれる礼拝は捧げられません。そこに、まことの楽しみと喜びはありません。主の前に近づくためには、ささげものが絶対に必要です。私たちのために流された尊き子羊の血潮、主イエスキリストの贖いの血によって、私たちは大胆にまことの聖所に入ることが出来るのです。


■A:考えてみよう
パロがモーセに出した最後の要求が、「ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。」であることに注目したいと思います。

サタンは様々なことを私たちにささやいてきますが、特に強くささやいているのは、「あなたの生活に、いけにえ(悔い改めとイエスの血潮)は必要ない。」です。これに対して、私たちはモーセのようにはっきりとNo!と言わなければなりません。

10章の最後のパロの要求を見る時に、最後の最後までサタンがとどめて(隠して)おきたいことが「罪のためのいけにえ」であることを覚えます。また同時に、終わりの時に私たちに開かれるべきことがこの「罪のためのいけにえ」、すなわち、「イエスキリストの十字架の血潮」であることをほめたたえます。尊き子羊の血潮なしに、私たちはクリスチャン生活を送ることなど出来ません。たとえ教会が大きくなったとしても、十字架の目的を失っては私たちは幸せではないのです。

モーセのこの言葉が私たちの日々の告白となりますように。
「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」

毎日、家族でイエスキリストの血潮を宣言しましょう。

■P:祈り



イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


3月15日(火)のつぶやき

2016年03月16日 01時42分04秒 | キリスト教