座間コミニティー

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出エジプト記20章18-20節

2011年10月28日 08時26分07秒 | 聖書
20:20 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」 モーセは神に招かれて、神様から戒めを受けました。民は、それをお話し下さいと願いました。しかし、直接に神様から聞くようなことはしたくありません、とも告げました。それは、自分たちの汚れのために、滅ぼされたくないからだと伝えました。 モ-セは彼等に対して、恐れることはないと伝えました。その理由は、神様が彼等に伝えるべき戒めを与えられたのは、彼等が神の民として、神の御心を知るように導びかれているからでした。また、そのことによって、彼等が神の御心に従って生きる者とされる為だからだ、と言ったのです。神様が主の民の所においで下さったのは、彼等を滅ぼすためではなくて、彼等が主の言葉に従って生きる為であることを語っています。主を愛して、主の言葉に従って生きることこそが、主の民の勤めなのだというのです。
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◆悪  い  冗  談

2011年10月28日 08時18分59秒 | 聖書
(分別を失った者)は、燃え木を
死の矢として投げるが、
 隣人を欺きながら、
「ただ、戯れただけではないか。」
と言う者も、それと同じだ。          (箴言二六18―19)

ユーモアは、人生の潤滑油です。私の友人で、こんな電話を知り合いの人にかけた人がありました。「もしもし、こちらは電話局ですが、きょう午後一時ごろお宅の電話回線の大掃除をしますので、ごみが出るかもしれません。お宅の電話の受話器に、ビニールのカバーをしておいてください。」「はいはい、そうします。ありがとうございました」と、相手は大まじめで答えました。しばらくしてから、かつがれたと分かって大笑いとなりました。
少しぐらい人をかつぐところがあっても、よいユーモアは人生を楽しくします。自分自身が全くの善意に立ち、また人の善意を素直に信頼し、自分をふくめて、人間の弱さや愚かさを客観的にながめるところに、ユーモアがあります。
しかし、まるで、火薬庫の中に火のついたたいまつを投げこむような悪い冗談もあります。ある会社のサラリーマンは、エイプリルフールだといって、「あのなあ、新宿のラブホテルからA君とBさんが出てくるところを、きのう見ちゃった」とやってしまい、AさんBさんは二人共、会社をやめなければならないような破目になりました。まことに悪い冗談です。「なに、ちょっとからかっただけさ」と、しらばくれてすむ問題ではありません。
善意がなく、人の徳を建てる気持ちがなく、自分ばかり賢そうに立ちまわり、自分が一番愚かで弱い者だと認める勇気がない偽善者には、冗談を言う資格がないのではありませんか。ほんとうのユーモアが流れ出る人は、思いやりのある人に違いないと思います。

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●契約上の賃金と割増賃金●

2011年10月28日 08時15分44秒 | 労働法
例えば宿直勤務が通常勤務に加えてあるような場合、仮眠時間については、この時間が完全に労働から開放された時間でない限り、労基法上の労働時間とする判例があります。完全に労働から解放されている、とは、その時間は労働する可能性が全くないということです。仮眠時間中でも、緊急の場合には何らかの対応が求められるなど、待機している状態である場合には、労基法上の労働時間であるということです。しかしこの労基法上の労働時間と認められたとしても、その労働時間について、いくらの賃金を支払うかは、全くの契約上の問題です。仮眠時間中は仮眠手当として2,000円を支払うこととなっていれば、仮眠時間の賃金は2,000円なのです。しかしこの仮眠時間が労基法上の労働時間と認められれば、割増賃金の支払は免れません。割増賃金は、時間外労働に対して25%、それが深夜に及ぶ場合には更に25%が加算されますから、仮眠時間の割増賃金は50%になる可能性が高いものです。その割増賃金の計算の根拠となる賃金は、通常の賃金ですから、割増率が50%であれば、割増賃金だけでも相当な額になることが考えられます。
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◆わたしが世からあなたがたを選び出したのです。

2011年10月28日 08時07分46秒 | 聖書
(ヨハネ一五・一九)

ここに区別する恵み、選び出す愛について記されている。なぜなら、ある者は神の愛が特別にそそがれる対象とされているからである。この選びの崇高な教理を恐れてはならない。あなたの心が最も重苦しく衰える時、これはあなたにとって最高の強心剤となる。
恵みの教理を疑い、それを日陰に投げ捨てる者は、エシュコルの尊いぶどうのふさを口にすることができない。彼らはよくこされたぶどう酒や髄の多いあぶらみを失う。ギルアデの乳香もこれに比することはできない。ヨナタンが、森の中で見いだした蜜を口にするとすぐにその目が輝いたとすれば、この蜜はあなたの心を明らかにし、神の国を愛させ、学ばせるものである。過食を恐れずこれを食べよ。それを味わい、それがおいしすぎるなどと恐れてはならない。王の食卓の食物は、その廷臣の一人でも害することはない。
あなたの心が大きくされ、神の永遠の差別的な愛をさらに深く悟ることができるように願え。あなたが選びの高峰を登りつめたならば、その姉妹峰である恵みの契約の峰で休息せよ。神の契約は、その陰に私たちが身を置く巨大な岩である。神の契約は、キリスト・イエスを保証人としてもち、震えおののくたましいの静かな憩いの場所なのである。
 神の誓いと契約と血は
 荒れ狂う怒濤の中にも私を支え
 地の支柱がすべて洗い去られる時も
 なお、わが力またわが支えである
もしイエスが私を栄光の中に伴おうとされ、また父なる神が、御子のたましいの苦しみの報酬の一部として、私を御子に与えることを約束されたならば、たましいよ、神ご自身が不誠実となられ、イエスが不真実となられないかぎり、おまえは安全である。ダビデが主の箱の前で踊った時、彼はミカルに、神の選びがそうさせたのだと語った。
私のたましいよ。恵みの神の御前に歓喜せよ。そして心の喜びに踊り上がれ。

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◆私たちはみな、

2011年10月27日 19時26分37秒 | 聖書
汚れた者のようになり……。(イザヤ六四・六)

信者は新しく造られたものである。聖なる特別な民に属している。神の御霊が彼のうちにあり、あらゆる点で生来の人とは、はるかにかけ離れている。それにもかかわらず、彼はやはり罪人である。地上の生涯を終えるまで。その生来の性質が不完全だからである。
罪の黒い指は私たちの晴れ着の上にしみを残した。偉大な陶工が私たちの悔い改めを完成されるまでは、罪が私たちの悔い改めを傷つける。利己心は、私たちの涙を汚し、不信仰は、私たちの信仰に水をさす。イエスのいさおしを離れては、私たちがなす最上のことも、ただ罪の数を増やすだけである。私たちが最もきよいと見るものも、神の目から見ればきよくないからである。そして主は御使いたちにさえ誤りを認められるほどであるから、たとえ私たちが御使いのような心になったとしても、私たちの愚行を責められるのは当然である。天まで届く賛美の歌、セラフィムの調べにも比すべき歌の中にも、人間の不調和が混じっている。神の御腕を動かすような祈りも、やはり傷つき打ちひしがれた祈りである。そして罪のない偉大なる仲保者がとりなし、私たちの嘆願から罪を取り除かれるゆえに、神の御腕を動かすことができるのである。クリスチャンがかつてこの地上で到達した最もすばらしい黄金のような信仰、最も純粋な聖潔の中にも、なお多くの焼き捨てねばならない不純物がある。毎晩私たちは鏡の前に立つ時、その中に罪人を見る。そして「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」と告白せざるを得ない。
おお、私たちのような心にとって、キリストの血はいかに尊いことか。主の完全な義は、なんと貴重な賜物であろう。そして今後の、全き聖潔の希望はなんと輝かしいことであろう。今も、罪は私たちの中に住んでいるが、その力はすでに破壊されている。罪はもはや支配力をもたず、背骨を折られたへびである。私たちは罪と激しく戦っている。しかし、戦うべき者は征服された敵である。しばらくすれば、私たちは、何ものにも汚されない都に勝利の入城をする。

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レター・泉教会1027

2011年10月27日 10時15分54秒 | 聖書
(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)
ある日、私が駅の自動改札を通ろうとしたらピンポーンという音がして、バタンと扉が閉まったのです。あれは、経験した方は分かりますが、とても嫌な感じですね。出てきた切符を見ると、どうも私が買った切符ではない。駅員さんに尋ねると、どうも前の人の切符が機械に詰まっていたらしいということで、無事、通らせてもらったのですが、しかしあのドキッとした感じは、まだ消えません。私は、人生の終わりの時を考えました。自分では「これで良い」と、そういう自負を持って誰も生きているわけですが、しかしその自分の目には良い人生も、別の目から見ると、結構違う評価というのがあるのかも知れない。通れると思って行く、その最後の門で、警告音と共に急に扉が閉められる。 私たちは自分なりに真面目に人生を生きており、だから人からとやかく言われたくないという自負があります。でも、一生懸命というのは、たとえば高速道路を一生懸命に走る車を考えるといいと思いますが、極端に視野が狭くなり、周りが見えなくなるのですね。同じように、真面目で一生懸命であればあるほど、自分が中心の価値観を作っているのかも知れない。立ち止まって、視野を広げる必要があります。聖書の中に、律法に従って真面目に生きている、いわば「善良な市民」が出てきます。彼らは、罪を犯した一人の女性をキリストのところに連れてきて、こういう奴は法律をきちんと適用して死刑にすべきだと、血走って言うのです。ところが、キリストは地面に何か書き続けていました。─ 沈黙の時が流れ、そして言われるには、「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」。すると、一人去り、また一人去り、こうして皆、その場を去って行きました。キリストは、沈黙の時間を大事にされた。真面目で一生懸命になっている人々を立ち止まらせる、この「無駄なような時間」が大事だったのです。
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●労基法32条の労働時間と賃金●

2011年10月27日 10時07分01秒 | 労働法
労基法32条の労働時間であると判断された場合、その時間は労基法の労働時間規制の適用を受けます。が、たいていの会社は36協定を締結しているため、問題として問われることは少ないものです。むしろ問題となるのは割増賃金です。労基法32条の労働時間を超えた労働に対しては、36協定があれば違法ではありませんが、割増賃金の支払義務が会社に発生します。割増賃金は、時間外労働に対しては25%とされています。この25%の基となる金額は、施行規則19条に細かく規定されていますが、平たく言えば所定労働時間働くともらえる賃金と同じものと考えていいでしょう。問題は時間外労働に対して、もし別途異なる賃金額が労働条件として規定されていた場合です。例えば、ほとんど電話のかかってこない休憩時間中の電話番として1時間500円の手当が支払われることになっているとします。最低賃金法の問題もありますが、この1時間は500円が契約内容となっているのならば、この1時間の賃金は500円ということになります。この場合でも、割増賃金の問題は当然に発生しますが、労基法上の労働時間と認められることと、その労働時間の賃金をいくらにするかは、全く別の問題なのです。
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出エジプト記20章17節

2011年10月27日 07時13分54秒 | 聖書
20:17 「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」 ここでは、欲しがるという、欲の行為のことを語っています。人は時に、欲の塊になります。色々な意味で、欲しがるものです。子供でもそうです。しかし、神様はそうした心の思いを持たないように、と言われるのです。これは何故かと言うと、物に対する欲望ということが、不正を生み出していく原因になるからです。ダビデは、ウリヤの妻バテシェバを欲しがることによって、ウリヤを殺害してしまいました。人の欲望が、罪を生み出しているのです。欲しい物を求めるということは、決して間違いではありません。しかし、その求め方が大切です。自分に与えられた能力と賜物を用いて、働いて得ることが、まず勧められているのです。働きなさいというのです。それでも得ることが出来ない時には、神に求めなさいというのです。一生懸命求め、祈ることです。そうしたあり方で求めなさいというのです。奪い取ってはならないのです。
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◆干渉か祈りか

2011年10月27日 07時07分06秒 | 聖書
自分に関係のない争いに干渉する者は、
通りすがりの犬の耳をつかむ者のようだ。(箴言二六17)

そんなことをしたために、がぶっとかみつかれる姿が目に浮かぶようです。ところで、この「関係ない」ということばを、私はあまり好きではありません。「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょう」という替え歌がはやったこともありました。とにかく、このことばは、「君が君の好きなように勝手にやることに、ぼくも干渉しない。その代わり、ぼくの勝手にすることに、君も干渉するな。君は君、ぼくはぼく。関係ない。関係ない」。こんなふうに、私には聞こえるのです。
むしろ「袖触れ合うも多生の縁」といわれるように、やはり人の汗や涙に関心を持ち、人の悲しみを悲しみとし、人の喜びを喜びとし、人の重荷を分け合って担おうとするほうが、人間らしいあり方だと思います。
では、自分に関係がない争いに干渉するなとは、どういうことでしょうか。できるだけ知らん顔をしていろ、かかわるなという意味でしょうか。そうではありません。
第一に、自分の肉の力はけっして、その争いを解決する力がないのに、あると思いこんで口出しすることではありませんか。
第二に、神だけがほんとうのさばき主・報い主であるのに、自分がすべてを評価しさばくことができると思いこんで、干渉することではないでしょうか。
第三に、祈り深い態度、いいえ、深い祈りそのものによってその当事者と自分の魂とが深くつながっていることなしに、つまりそのような祈りの態度なしに、割って入ることではないでしょうか。
このような意味で関係のない争いに干渉するなら九九%痛い目に会うと、クラークは言いました。干渉したり口出ししたりしないで、人のために祈れる人になりたいと思います。

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◆次のことばは信頼すべきことばです。

2011年10月27日 06時57分32秒 | 聖書
(Ⅱテモテ二・一一)

パウロはこの「信頼すべき」という意味のことばを四度用いている。その最初はテモテへの手紙第一、一章一五節である。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」次はテモテへの手紙第一、四章八、九節である。「今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに値することばです。」第三は、テモテヘの手紙第二、二章一一、一二節である。「次のことばは信頼すべきことばです。『……もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。』」第四は、テトスヘの手紙三章八節である。「これは信頼できることばですから……神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。」私たちはこの四つのことばの相互関係をたどることができる。
第一は、偉大な贖い主の使命の中に示されるように、私たちの永遠の救いの基礎を、神の無代価の恩寵の中に置くものである、第二は、私たちがこの救いを通して得る二重の祝福、現在と永遠との二つの祝福を断言している。第三は、召された人々の義務の一つを示す。私たちはキリストのために苦しむように定められており、「もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる」との約束が与えられている。最後のものはクリスチャンの奉仕の活動的な面を示し、良いわざを励むことを命じている。こうして私たちは、無代価の恵みに救いの根底をもち、現在と将来の生活に救いの特権を与えられ、さらに二つの枝――御霊の実によって飾られた、キリストと共に苦しみ、キリストに仕えるという二つの枝――をもつ。これらの確実な信頼すべきことばを心に留めよ。
異邦人への使徒パウロは、これらのことばの確実性を証明した。それは今なお一つたりとも廃ることなく、そのまま受け入れるに足るものである。今これらのことばを受け入れ、その確実性を実証しようではないか。これらのことばを家の四隅に記そうではないか。

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◆川はみな海に流れ込むが、

2011年10月26日 17時18分12秒 | 聖書
海は満ちることがない。川は流れ込む所に、また流れる。(伝道者一・七)

万物は流転している。時間は休むことを知らない。この堅固な地球は回転する球である。巨大な太陽自体も、より大きな発光体の周囲を従順に軌道に従って回る一つの星である。潮は海を動かし、風は大洋を波立たせ、波は岩をすり減らす。海は水の富を蓄えるけちんぼの倉庫ではない。ある力がその中に水を流れ込ませると、他の力が水を天に吸い上げるからである。人はただ死ぬために生まれてくる。すべては焦燥であり、心労であり、憂慮である。
変わることのないイエス様。あなたの相続財産――あなたの祝福の海――について考えるのはなんという喜びでしょうか。あなたの祝福の海は、永遠に満たされています。神ご自身が永遠なる喜びの流れをそこに注いでおられるからです。私たちは、空のかなたに永遠の都を望みます。そして決して失望しません。
今夜の聖句は、私たちに感謝を教える。父なる大洋は大きな受取人であられる。また寛大な分配者であられる。川がもち込んだものを、父は雲と雨の形で地に返される。取り入れるのみで返すことをしない人は、この宇宙の秩序を乱している。他の人々に与えることは、私たち自身のために種を蒔くことである。自分の資産を喜んで主のために用いる良い管理人は、さらに多くを託されるであろう。
イエスの友よ。受けた恵みに従って、あなたはお返ししているか。多くを与えられて、どのような実をあなたは結んだか。できる限りのことを、あなたはしたであろうか。そしてそれ以上できないであろうか。利己主義は悪である。大洋が海の幸を生じなかったら、人類は滅亡するほかなかったであろう。私たちが自らのために生きるという、狭い、破壊的な方針をとることを神は禁止される。イエスはご自分を喜ばせることをされなかった。主の中には、すべての満ち足れる徳が宿っている。私たちはすべて、その中から受けている。おお、イエスの御霊を得たい。今より後、私たちが自らのために生きることがないために。

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出エジプト記20章16節

2011年10月26日 10時49分24秒 | 聖書
20:16 「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」 偽りの証言というのは、裁きの時の証言のことです。証言というのは、自分が見たことを語ることですが、そこに偽りがあってはならないというのです。見たことと違ったことを語ってはならないというのです。何故かと言えば、正しい裁判が出来ないからです。神様は真実な方です。従って、不正を好まれません。ですから、裁判においても、不正を禁じられるのです。 人は時に、裁判において、自分のため、あるいは自分たちの味方のために、偽りの証言をすることがあります。また、このような大きな事のみではなくて、日常的な生活の中においても、自分を守るため、また、自分の益のために、嘘・偽りを語る時があります。嘘も方便と考えるからです。しかし、そうした歩みを、主は禁じられるのです。「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」と語れ、というのです。 日本においては、神が人格をもたれる方であること、また、真実を愛される方であるということを知りませんから、嘘・偽りを平気で語るということがなされています。しかし、神を知る私たちは、真実を語るべきなのです。
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◆愚かな者ナンバーワン

2011年10月26日 10時41分08秒 | 聖書
自分を知恵のある者と思っている人を
見ただろう。
彼よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある。(箴言二六12)

この一週間は、ずっと「愚かな者」についての箴言を読んできました。人をのろう愚かな者・人のことばを聞かない愚かな者・売りことばに買いことばの愚かな者・口先で語る愚かな者・人の誉れを受けていい気になる愚かな者がいました。さてきょうは、愚かな者中の愚かな者。愚かな者ナンバーワンが出てきます。それは、「自分を知恵のある者と思っている人」だというのです。
イエス・キリストは、ヨハネの黙示録の中でこう言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録三17)。パウロはコリントの人々に、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリント一〇12)と、警告しました。
小さな子どもさんたちをかかえ、ご主人の浮気と借金に、いうにいわれない苦労をしている方があります。でもその方は、そんな苦しさの中から神を見いだし、ご主人に仕えきり、ほんとうにしっかりと生きている若い婦人です。この家庭にも、祝福がふりそそがれるようになりました。
そして、手紙でこう書いてこられました。「奥さま、そして先生。私が救われ、神さまから助けられ強めていただくためには、私は罪人でありさえすればいいのですね。」私も妻も、美しいことばだと言い合いました。
神の救いや助けや励ましを必要としない自己満足の者こそ、愚かな者ナンバーワンだといわれています。

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◆あなたがたは多くを期待したが、

2011年10月26日 10時35分45秒 | 聖書
見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。――万軍の主の御告げ。――それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。(ハガイ一・九)

けちな人は、内外の伝道のために献金することを惜しみ、それを倹約だと言う。彼らはそのために自らを貧しくしているとは夢にも考えない。彼らは口実を設けて、家族を見なければならないのだと言う。しかし神の家をなおざりにすることは、必ず彼らの家に破滅をもたらすことを忘れている。
神は摂理によって私たちの努力を成功させることも、失敗させて茫然とさせることもなさる。神が手をひるがえされることにより、私たちの舟は良い水路に進むことにも、貧困と破産の暗礁に乗り上げることにもなる。主は心の広い者を富ませ、利己的な者に対して、出し惜しみが貧乏への道であることを知らされる。
私は非常に広い範囲を観察した結果、最も物惜しみしない人は常に幸福で、ほとんど例外なく繁栄していることを発見した。気前よく与える人が思いがけぬ富を受け、心の狭い卑しい金の亡者が、極端な節約によってお金を蓄えようとして、かえって貧しくなっていくのをしばしば見た。この世の人は良い管理者に多額のお金をゆだねる。主もまた多くの場合そうされる。俵で与える者に対しては車いっぱいのもので報いられる。たとえ多くをささげることができないとしても、惜しまずに主にささげたならば、主はその人に喜びを与えることによりささげたものを倍にしてくださる。
利己主義者はまず自分の家を見るが、敬虔な者は第一に神の国と神の義を求める。しかし終局においては、利己主義者は損失をこうむり、敬虔な者は大きな利益を受ける。神のために惜しみなくささげるには、信仰が必要である。しかし神にはこのようなささげ物を私たちに求める権利が十分にある。私たちになし得ることは、私たちがいつくしみ深い神から測り知れない恩を受けていることを、謙虚に承認することだけである。

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◆ルツは出かけて行って、

2011年10月25日 18時20分19秒 | 聖書
刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。(ルツ二・三)

彼女の運は開けた。しかり、それは偶然のように見えるが、実は神が支配しておられたのである。ルツは母の祝福を受け、母の神の保護のもとで、つつましいが立派な仕事に出かけた。神の摂理はルツを一歩一歩導いた。彼女は麦束の間で夫を見いだし、夫とともに広大な土地の所有者となったが、自分のようなあわれな外国人が、偉大なるメシヤの先祖の一人になろうとは、夢にも思わなかった。
神はご自身に信頼する人々に恵みを与え、しばしば予期しない祝福をもって、彼らを驚かされる。明日何が起こるか、私たちはほとんど知らない。しかし、神が良いものを控えられないというすばらしい事実は、私たちを励ます。クリスチャンの信仰の立場からは、偶然ということは存在しない。彼らはすべてのことにおいて、神の御手を見るからである。今日、明日の小さな出来事が、非常に重大な結果を含んでいるかもしれない。おお、主よ。ルツを扱われたように、あなたのしもべをも深く恵んでください。
今夜、私たちが黙想の畑にさまよう時、最も血縁の近いお方がご自身を私たちに現してくださる場所に行き当たるとすれば、なんという祝福であろう! おお、御霊なる主よ。私たちを主に導いてください。私たちは、他の畑の全収穫をもらうよりも、むしろ主の畑で落ち穂を拾いたい。おお、主の群れの歩みよ。それは主がお住みになる緑の牧場に私たちを導く! イエスがおられない時、この世は耐えがたい。主を失うくらいなら、むしろ太陽や月なしにやってゆくほうがましである。しかし主が臨在される時、すべてが神の栄光に照り輝く。私たちのたましいは、イエスのうちに宿る徳を知る。それゆえ、主がなければ決して満足することができない。
今夜私たちは、イエスのものである畑に行って、私たちにご自身を現されるまで、祈りつつ待ちたい。

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