座間コミニティー

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◆神はあらかじめ定めた人々をさらに召し……。

2011年10月11日 18時44分15秒 | 聖書
(ローマ八・三〇)

テモテヘの手紙第二、一章九節には「神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいました」と記されている。ここに、私たちの召しを試す試金石がある。それは、「私たちのわざによるのではなく、神ご自身の計画と恵みによる聖なる招き」である。
この召しは、私たちの救いに関して、自らの行為に頼ることを全く禁じ、自分の救いのためにキリストにのみ導く。さらに、救われた後、私たちが生けるまことの神に仕えるために、私たちの死んだわざを取り除く。あなたを召された方は聖なる方であるから、あなたも聖くなければならない。もしあなたが罪のうちに生活しているなら、あなたは召されているのではない。しかし、あなたが真にキリストのものとなっているなら、次のように言うことができよう。「私にとって罪ほど苦しいものはない。私は罪を取り除きたい。主よ。私を助けて聖くしてください」と。これがあなたの心のあえぎであろうか。そして神に対する、神のみこころに対する態度であろうか。
ピリピ人への手紙三章一三、一四節には「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神」について記されている。あなたの召しは、上への召しであろうか。それはあなたの心を高め、天上の事柄にあなたの心を置いたか。またあなたの希望、趣味、願望を高めてきたか。あなたの生活の不断の調子を高め、神と共に、神のために生きるようにさせたか。
さらにもう一つのテストがある。それは「天の召しにあずかっている」かどうかである。天の召しとは、天よりの召しを意味する。あなたの召しは神から来たものか。そして天への召しであるか。地では旅人であり、天があなたの故郷でなければ、天の召しを受けたとは言えない。なぜなら、召された者は、神の不動の礎をもつ都を待ち望み、自らは地において旅人であることを断言するからである。
あなたの召しは、このような聖なる、上への、また天の召しであるか。では、愛する友よ。あなたは神に召されたのである。

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レター・泉教会1011

2011年10月11日 12時02分52秒 | 聖書
(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)
北海道のアルコール依存症の社会復帰施設で働く友人から、1冊の本が送られてきました。施設で出会った人々との交流を、暖かな目線で描く本です。アルコール依存になると、そこから抜け出るのがものすごく大変なのですね。その本にはアルコール依存者自身が書いた話も、載っていました。その人は、今度こそ、今度こそと本当に真剣に思いながら、しかし同じ事を繰り返して10回、20回と入院することになる。そのうちに家族、親族から見捨てられたと思う。あるいは本当に見捨てられる人も多いのですが、こうして居場所をなくして、私の知人が館長をする施設に入所してきたのです。けれども、彼はいつもこう言っていた。「ここは宗教くさい」「世界で貧困や戦争戦争を起こしている原因は、宗教だ」「あいつが悪い」「ここのやり方が悪い」すべて悪口になる。万事そんな具合だったそうです。今は自分を見つめるのが大事な時に、いつも自分以外に目を向け、批判してきたというのです。なぜ素直になれなかったかというところで、彼は「たぶん自分が弱い人間だと認めたくないからだと思います」と言います。回復するためには、どうしても「自分はアルコールに対して無力であり、生きていくことがどうにもならなくなった」と認めなくてはならないのですが、そのところでひっかかっている自分がいた。20回も入院を繰り返しているにもかかわらず、その弱さを認めたくない自分がいる。それで、自分を守るために周りを批判していた、と言うのです。これは、しかし私たちの問題なのではないでしょうか。自分は弱い。しかしどこかで自分の弱さを認めるのが怖い。それで、人を批判する。批判しているうちは、自分に目を向けなくて済むからです。この「からくり」に、私たちも早く気づいて自分の弱さと向き合うときに、私たちは本当に強くなれる。独り立ちできるはずなのです。そのために、教会という場は、きっとあなたの助けになるでしょう。
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出エジプト記18章10-12節

2011年10月11日 11時53分33秒 | 聖書
18:11 「今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。実に彼らがこの民に対して不遜であったということにおいても。」 モーセはイテロに対して、主がエジプトの王に対してなされたことを、詳しく告げました。そこでは、エジプトの王パロから受けた困難や苦しみ、また不安と恐れもあったことでしょう。しかし主が、それらのすべてを通して、勝利をもたらして下さったことを告げたのです。 それを聞いたイテロは、主がどのような方であられるかということを、改めて知りました。そして、大きな喜びと共に、主に対する感謝と礼拝の為に、全焼の生け贄を持ってきました。主がどのような方であるかということを知ることは、力になります。ホセアが、「主を知ろう、主を知ることを切に求めよう。」と言っているとおりです。また彼は同時に、パロがどのように心かたくなな人間であったかということも知ったと、語っています。私たちは、今、この神様のこと、また人間の姿を、何を持って知ることが出来るのでしょうか。それは、この記された聖書を通してです。これによって、真の神と人の現実を知るのです。
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◆私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。

2011年10月11日 11時42分25秒 | 聖書
(哀歌三・四一)

祈りは私たちに自らの無価値を教える。それは高慢な私たちにとって非常に有益な教訓である。もし神が、私たちの祈りなしに恵みを与えられるとすれば、私たちは決して、自分の貧しさを知らないであろう。しかし、真の祈りは欠乏の目録であり、必要のカタログであり、隠れた貧困の暴露である。それは神の富を求めるものであるが、また人間の空虚さを告白するものでもある。クリスチャンの最も健全な状態は、常に自己を空しくして主の供給により頼むことである。常に自己を貧しくし、キリストにあって富むことである。自分は弱いが、神によって強くされて偉大なわざをなす。それゆえ、祈りは神をあがめるものであるが、それは被造物をそのあるべき位置、すなわち、ちりの中に置くものでもある。
祈りへの応答もさることながら、祈り自体がクリスチャンに大きな益をもたらす。競技をする者が日々の練習によって技をみがくように、私たちも人生の大レースにおいて、堅い祈りの労苦によって力を得る。祈りは神の若鷲のように翼を整え、雲の上にかけ上ることを学ばせる。また祈りは神の戦士の武装を整え、その筋骨をたくましくして戦いに送り出す。熱心な祈りの人が密室から出て来るのは、あたかも太陽が東の天から上がろうとしているのに似ており、元気いっぱいの若者が、喜びにあふれてレースに出場するのに比べられる。祈りは、モーセの上げられている手である。それは、ヨシュアの剣にまさってアマレク人を敗走させる。それは預言者の部屋から射られた矢であって、アラム人の敗走を預言するものである。祈りは人間的な弱さを神の力によって強め、人の愚かさを天の知恵に変え、悩む人に神の平安を与える。私たちは祈りによって成し遂げられないというものを知らない。
大いなる神様。あなたの恵みの御座に感謝します。それはあなたの驚くべきいつくしみの不動の証拠であるからです。どうか、私たちを助け、この一日、それを正しく用いるようにさせてください。

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