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◆子を産まない不妊の女よ。

2015年08月28日 16時59分04秒 | 聖書
喜び歌え。(イザヤ五四・一)
 
私たちは、キリストに向かって進みながら、わずかながら実を結んできた。また、自分が主の「右の手が植えた苗」であるという喜ばしい希望を抱いている。しかし、時には自分が全く実を結ばないように感じる。祈りにいのちがなく、愛は冷ややかであり、信仰は弱く、自分の心の園にある一つ一つの徳は衰え、またうなだれている。私たちは炎天下の花のように、すがすがしい夕立を必要としている。
このような時どうすればよいのか。冒頭の聖句は、このような私たちに向かって語りかける。「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。」しかし、私たちは何について歌うことができよう。現在にも過去にも、少しの実も結んでいない。私はイエス・キリストについて歌うことができる。以前に、贖い主が私を訪れてくださったことを語ることができる。そうでなければ、主がその民を愛し、民の贖いのために、天の高い所から下られた大いなる愛をあがめることができる。
私は再び十字架のもとに行こう。たましいよ。おまえはかつて重荷を負っていた。そして十字架のもとで重荷を除かれた。おまえにいのちを与えたその同じ十字架が、おまえに実を結ぶことを得させるであろう。
私の不妊は何か。それは神の結実の御力が働く舞台である。私の荒地は何か。それは主の永遠の愛のサファイアをはめ込む黒い台である。私は乏しいままで行こう。無力なまま、恥と不信仰のままで。主にまだ子どもであることを告げ、主の忠実なみこころに信頼し、実を結ばない私ではあるが、声高らかに歌い叫ぼう。
信者よ。喜び歌え。それによってあなたの心も、実を結ばない他の人の心も励まされるからである。歌い続けよ。あなたはまもなく実を結ぶようになる。今、あなたに実を結ばないことを嘆かせておられる神は、すぐに果実の房をもってあなたをおおわれる。私たちの実のない経験は苦しいが、主の訪れは喜ばしい。私たちの無力さの自覚が私たちをキリストへと駆り立てる。そここそ、私たちの行くべき所である。主のうちにこそ、私たちの実が見いだされるからである。
 
 

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