(新しく来られた方のために、3年サイクルで同じ内容を繰り返します)
何かの広告に付けられていたと思いますが、次のようなフレーズがあります。
「あしたを/あなたと/考えたい」。何か、響きがよかったので、そこだけ覚えています。あしたを考えるという、前向きの姿勢がいい。けれども、ちょっと考えてみると、これはすごく当たり前のようで、当たり前ではないのではないか。そう思うのです。つまり、私たちは「あした」をなかなか考えられない。24時間後の、近いところにある「あした」だったら、考えているかも知れない。しかし、自分の将来にかかわる「あした」は、なかなか考えていないのではないでしょうか。私たちは誰も皆、毎日をこつこつと、大変まじめに生きている。ふざけて生きている人は、いないのです。にもかかわらず、どうしたわけか、心の中に、時として不安がよぎる。ねたみ、憎しみがある。驕ることも、自己卑下することもある。基本的に自分を守る姿勢、というものがあって、どうしても関心が「内」に向いてしまう。こうして、結局、「あした」が考えられなくなっていると思います。鉢植えにしている蘭の花がどうも元気がないので、思い切って鉢を壊してみたら、何と、根っこがびっしりと張りつめていて、鉢の中は自分の根でいっぱいでした。しかも古い根はすでに朽ちている状態だったのです。私はそれを見ながら、私たちもけっこう同じではないかと思ったのです。興味、関心、取組みが外に向かわず、内に張り詰めている。やがて内側から朽ち始め、当然、外に向かっての勢いがなくなるのです。聖書は言っています、「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」。多くのことに思い悩み、心を乱してしまう時は、不思議にものすごく真面目な時なのです。びっちりと根を張らせている時なのです。どうでしょう、聖書の前に立ち止まって、人生にすき間を作ってみませんか。あなたも、泉教会で、あしたを考える仲間になってほしいのです