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◆主の割り当て分はご自分の民である……。

2017年11月15日 06時47分46秒 | 聖書
(申命三二・九)
彼らはなぜ神のものであるのか。神ご自身の主権に基づく選択によってである。神は彼らを選び、その愛を彼らの上に注がれる。神は彼らの中に何か良いものがあるかどうか、また、将来どうなるかなどにはかかわりなく、このようになさる。神はあわれもうとする者の上にあわれみを注ぎ、選ばれた人々を永遠のいのちに定められる。こうして、彼らは神の自由な選択によって神のものとなった。
彼らは選択によってだけでなく、買い取られることによっても神のものとなった。神は彼らを買われ、最後の一円までも支払われた。彼らは金や銀のような朽ちるものによらず、主イエス・キリストの尊い血によって完全に贖われた。神の財産の上には抵当権は設定されていないから、債権者たちによって訴訟が起こされることはない。代価は公然と支払われたのだから、教会は永遠に主の所有である。すべての選ばれた者の上にある血の跡を見よ。人の目には見えないが、キリストはそれを知っておられる。主は、ご自身がいのちを投げ出して救われた羊たちの数を数え、ご自身をお与えになった教会をよく記憶しておられるのである。
彼らは征服されることによって神のものとなった。主はどれほど長く私たちの心を包囲攻撃されたことか。どれほどしばしば、主は開城せよと勧告なさったことであろう。しかし私たちは主に対して門戸を閉ざし、垣をめぐらした。主が奇襲によって、私たちの心を陥れられたあの輝かしい瞬間を記憶しているだろうか。あの時主は、城壁に十字架をかけ、私たちの壁をよじのぼって、私たちの本陣に、主の血に染まった全能なるあわれみの御旗を打ち立てられたのではないか。しかり、まことに私たちは主の全能の愛によって征服された捕われ人である。
このように私たちが選ばれ、買われ、征服されて神のものとなった以上、神の私たちに対する所有権は、何ものにも譲渡されることのないものである。私たちは自分が決して自分自身のものでないことを喜び、日々主のみこころを行って、神の栄光を現したい。
 
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