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ヘブル人への手紙8章1-2節(ホセア書3章)

2013年11月01日 08時58分30秒 | 聖書

 ★  以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

■O:今日のコラム

主イエスは十字架で完全な贖いの業を成し遂げ、私達の大祭司として天の父の右に着座されました。
   
この着座された。という事は完全な救いを成し遂げた事を意味します。なぜなら、旧約聖書の時代、幕屋の中には祭司の座る器具はなく、祭司は幕屋で仕える間中、立っていなければなりませんでした。しかし、主は天の聖所(至聖所)にて座っておられます。だから、それは救いが完全に成就した事を意味するのです。
   
しかし、この地上においては主が既に成し遂げられた莫大な恵みを解き放つ任務が、祭司である私達に委ねられています。この地上での使命を成し遂げるまで、私達は天の御国に用意されている光り輝く座に着く事は許されていません。
   
天(至聖所)に満ちあふれている豊かな恵みをこの地(外庭)に解き放つ為にはその中間に位置する聖所が必要です。

旧約の時代、幕屋の至聖所には契約の箱があり、そこに顕著な主の栄光が満ちていました。また外庭には捧げ物を焼く祭壇と身を清める洗盤がありました。
   
これは主イエスを信じる者が受ける罪の赦しと、この世の悪と暗闇の支配から聖められる事を意味します。この地の人々に救いの恵みが解き放たれる為には、主の民が日々、聖所で祭司としての役割を果たす必要があります。

聖所には3つの器具がありました。
   
1つは「金の燭台」です。これは聖霊の油注ぎ、そして聖霊の炎を意味します。

私達は日々、聖霊様との親しい交わりの中で豊かな油注ぎを受ける必要があります。これを求めなければ、私達の聖所の火は消え、暗闇となり、もはや聖書の啓示を受ける事も、祈りの生活をする事も出来なくなるでしょう。

今日も新たに聖霊様を呼び求めましょう。この方との親しい歩みを続け、豊かな油注ぎの中を生きましょう。
   
2つ目は「パンの机」です。これは御言葉を意味します。

燭台の炎が灯る時、パンの机で作業をする事ができます。日々、聖霊様の導きをもとめて御言葉の啓示を受け取りましょう。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるからです。
   
この言葉とは(レーマ)という言葉が原語のギリシャ語では使われています。それは、主からの今必要な生きた御言葉の啓示であり、語りかけを意味します。今日この「パンの机」(御言葉)に向かい新鮮な霊の糧を受け取りましょう。
   
そして3つ目は「香壇」です。これは祈りを意味します。

この香壇は聖所の最後の部分にある器具であり、この香の煙に包まれて、大祭司は至聖所に入って行きました。私達は毎日、祈りを通して、豊かな主の臨在の中に入り、天国の前味を味わう事が出来ます。
   
そして、この香壇の働きを通して、天の至聖所がこの地にもたらされる事となります。だからダビデの幕屋の働き、24時間の絶えまない祈りと賛美の働きは、天と地を繋ぐ重要な意味があるのです。
   
日々私達は、自分の生活に聖所を設けましょう。もちろん私達は1日中あらゆる時と場所で主に仕えていますが、しかし、この時間は他には何もしない。主だけを見上げ、聖霊様の臨在を求め、御言葉に心を向け祈る。

毎日の生活にその様な聖所の時間を設けるなら、必ず私達の人生を通して天の無尽蔵の恵みと豊かな命がこの世の人々に流し出されて行く事となります。

■A:考えてみよう

自分の生活に聖所を設けよう!忙しさの中にあっても、あえて時間を作り聖所の中で時間を過ごそう。

■P:祈り

主よ。私の毎日に主だけを見上げる特別な時間を設ける事が出来ますように。忙しさや疲れによってもう言い訳しません。主に求め、主の御心にかなう事は全て主が答えて下さる事を信じます。
   
主との親しい時間を過ごすのが私の願いです。私はそれを求めます。主イエス・キリストの名によって祈ります。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


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