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◆わたしは彼らを幸福にして、

2016年09月21日 07時02分19秒 | 聖書
彼らをわたしの喜びとし……。(エレミヤ三二・四一)
 
神が聖徒を喜ばれ、愛してくださるとは、信者にとってなんという慰めであろう。主はなぜ私たちを愛されるのか。その理由を私たちは自分の中に見いだすことはできない。私たちは自分自身を喜ぶことはできないのである。しばしば重荷にあえぎ、自分の罪深さを意識し、自分の不誠実を嘆かなければならないからである。さらに私たちは、神の民が私たちを喜ばないのではないかと恐れる。彼らは私たちの多くの不完全さと愚かさを見て、私たちの徳を賞賛するよりも、むしろ欠点を嘆くに違いないからである。しかし私たちは、次のすばらしい真理、輝かしい奥義を考えることを喜ぶ。それは、あたかも花婿が花嫁を喜ぶように、主が私たちを喜んでくださるということである。
天使すら神をお喜ばせするとは記されていない。また神が、ケルビム、セラフィムについて「あなたは『わたしの喜びは、彼女にある。』と呼ばれ……主の喜びがあなたにあり……」と言われるとも記されていない。しかし神は、それらのことばを、私たちのようにあわれな堕落した被造物、罪により下劣な者となり腐敗した者となったのに、恵みにより救われ、高められて栄光を与えられた者にお語りになる。なんと強いことばをもって、神はその民に対する喜びを表しておられることか。永遠の存在者である方が感極まって歌われたのだと、だれが考えることができたであろう。しかし、「主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」と記されている。神はご自身の造られた世界を見て、「非常によかった」と言われた。しかし神が、イエスの御血によって贖われた者たちを見、ご自身の選ばれた者たちを見られた時、その無限の心を抑えることができず、歓喜の叫びをあげられたように思われる。
このような驚くべき神の愛の宣告に対して、私たちは感謝の応答をなし、「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と歌うべきではないか。
 
 

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