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「しかしふたりの目はさえぎられて、

2016年09月04日 17時58分09秒 | 聖書

イエスだとはわからなかった」(ルカ24:16)

二人の弟子が、主の死後、なすすべなく故郷に、引き揚げる途上だ。
イエスご自身が歩み寄り、かたわらを歩かれたが、二人にはそれが主だとわからない。
なぜ、わからなかったのか。目がさえぎられていたからだ。
主は現に実際かたわらにおられるが、こちらの目がさえぎられると見えなくなる。

目をさえぎるものが数々ある。
失望落胆、悲しみ、絶望、この世の価値観、思い煩い、不安、多忙、ネガティブな思考、悩み問題・・これらは主を見えなくしてしまう。
あなたも今、この状態に陥っているか。

そんな意気消沈し、絶望している弟子たちに、主は御言葉を語られる。
彼らはどうしてイエスだとわかったのか。

主により目が開かれたからだ。どのように目は開かれたのか。
道々話して下さっていた間、後で認識するのだが、御言葉を聞いていると、心が暖かくなった。
赤々と心が燃えて来た。

心に何かを感じた弟子たちは、もっと聞きたい、知りたいとの求めを持った。エ
マオの分かれ道に来た時、主に一緒に泊まるよう無理やり頼んだ。
主はそのまま行かれる予定を「求め」に応じてとどまられた。

いっしょに泊まった時、主を親しく知った。さえぎられていた目が開かれて、
同行者が主だとわかった。

今も主はかたわらにおられる。御声に耳を傾けて、心を向けて行くことだ。
目を開いて下さる。
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思い煩った途端、主が見えなくなる。
思い煩いと平安が決して共存しないのは、日々の経験だ。
しかし、落ち込んで、意気消沈している、かたわらに主がおられる。
この事をしっかり覚えよう。落胆の中からも御声に耳を傾けてみよう。


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