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◆手がきよく、心がきよらかな者、

2016年07月04日 17時07分03秒 | 聖書
そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。(詩篇二四・四)
 
外に現れた実際的な聖潔は、非常に貴重な恵みのしるしである。多くの信仰告白者は、信仰による義認の教理を曲解して善行を軽蔑する傾向があるが、恐るべきことである。もしそうであれば、終わりの大いなる日に、彼らは永遠の恥辱を受けるであろう。
もし私たちの手がきよくないなら、イエスの尊い血潮によって自ら手を洗い、きよい手を神に向かって上げようではないか。しかし、「きよい手」は「きよい心」と結合するのでなければ十分ではない。真の宗教は心の働きである。私たちは、杯や皿の外側は心ゆくまで洗う。しかし、その内側が汚れているならば、私たちは神の御前に全く汚れたものなのである。私たちにとって、真の自分は私たちの手よりもむしろ心であるから。私たちのいのちは、私たちの内なる性質にある。それゆえ、私たちには内なるきよさが絶対に必要なのである。心のきよい者は神を見るからである。その他の者はみな、目の見えない者にすぎない。
天国を目ざして新生した人は、「そのたましいをむなしいことに向け」ない者である。すべての人はそれぞれ喜びをもち、彼らのたましいはそれに望みをかける。世俗的な人のたましいは空虚な肉の楽しみに望みをかける。しかし、聖徒はいっそう価値あるものを愛する。豚の食べるいなご豆に満足する者は、豚といっしょに数えられる。この世はあなたを満足させるか。ではあなたは、この世において報いと財産を得たのである。それを楽しむがよい。あなたにはそれ以外の喜びはないからである。
「欺き誓わなかった人」――聖徒は名誉を重んじる人々である。クリスチャンは、ただ一つの誓いしか誓わない。しかしそれは、他の人の二十の誓いに匹敵する。欺きのことばは人を天国の外に閉め出す。なぜなら、うそつきは彼の言行がどのようなものであっても、神の家に入ることができないからである。読者よ。冒頭の聖句はあなたを責めるか。それともあなたは、主の山に登ることを望むであろうか。
 
 

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