座間コミニティー

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◆この病気は死で終わるだけのものではなく……。

2014年08月17日 17時04分27秒 | 聖書

(ヨハネ一一・四)

主のみことばによって、病気には限度のあることがわかる。「死で終わるだけのものではない」とは、終局の限度が抑えられており、その限度を越えて進むことはできないという意味である。ラザロは死を通り抜けたであろう。しかし、死は彼の病気の終点ではなかった。すべての病気において、主は押し寄せる苦しみの波に対してこう言われる。「ここまで行ってもよい。しかし、これから先はいけない」と。主が定められた目的は、破壊ではなく、その民を教え導くことである。知恵は炉の口に温度計を備えて、温度を調節する。
一、制限は私たちの励ましとなるほどに、多くのことを含む。摂理の神は、私たちのすべての病気の期間、容態、強さ、反復、影響を制限しておられる。私たちの心臓の一つ一つの鼓動、眠れない時の時間は、あらかじめ定められており、私たちの病気の一進一退、力の衰えることもあらかじめ知られ、その結果としてもたらされる聖別も、永遠の昔から計画されている。どんなものでも、大小を問わず、私たちの頭の毛さえも数える神の御計画の御手からもれることはない。
二、この制限は、私たちの力、その目的、与えられる恵みを考慮して、思慮深く調整されている。患難は偶然にふりかかるのではない。一つ一つのむちの強さは、正確にはかられている。雲の重さをはかり、天の高さをはかるのに決して誤ることのないお方が、たましいに与える薬の調合を誤ることはない。私たちが必要以上に苦しみすぎたり、救い出される時機が遅れすぎることは決してない。
三、この制限は優しく定められている。天の外科医のメスは決して必要以上に切開しない。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」母の心は叫ぶ。「私の子どもを助けてください」と。しかし、私たちの恵み深い神ほど愛に富む母親はいない。私たち自身がいかに強情であるかを考える時、追放されていないのがむしろ不思議である。
私たちの住まいの境界を定めた方が、患難の限界をも定められたことを思う時、慰めに満たされる。

 

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「あなたが私の親類だからといって、ただで仕えることもなかろう。

2014年08月17日 17時02分48秒 | 聖書

どういう報酬がほしいか、言ってください」(創世 29:15)

父ヤコブと兄エサウをだましたヤコブに、同じものが返って来る。
神は、更に狡猾なラバンを目の前に置かれた。
すべて神から来ている。ラバンは言葉巧みだが、実は、ただ飯食うな、それ相応の労働をせよとの要求だ。
かつて父と兄を欺いたヤコブは、ラバンによって欺かれる事になる。
ラケルをめとるために7年間働いたが、ラバンが与えたのは、姉のレアであった。
だまされたのだ。以前自分も、だました事を思っただろうか。
神はヤコブを砕くために、あえてこの厳しい試練の炉を通された。
私達が変えられるのは、苦しみにおいてだ。
順境が人を変えることはない。
苦しみにより、練り鍛えられる。
神はヤコブの性質もすべてご存じで、まさにこのピッタリの環境に置いて、訓練し、造り変えて行かれた。
私達も変えられる。そのための環境をピッタリに備えられる。
あなたも今、試練の中だろうか。
状況にほんろうされるのでなく、その環境により、神は何かを学ばせたいので、
神を通して状況を見よう。
そして、悟れるように祈ろう。
----------
今、目の前に起きている出来事は、私達に学ばせたい事があるという事だ。
状況に飲み込まれるのでなく、状況から目を離し、何を教えて下さりたいのか、主からのメッセージを聞こう。

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今日の聖人の記念日

2014年08月17日 09時31分30秒 | キリスト教

聖ヒアキントゥス

1185年ごろ-1257年

 ヒアキントゥスは、ポーランドに生まれ、クラクフ、プラハで学問を修めた。

 彼の叔父であるクラクフ司教イヴォとともにローマを訪れたとき、聖ドミニコと出会い、感銘を受けて、1218年にドミニコ会に入った。その後、宣教師としてクラクフに派遣され、説教をしてこの地の人々を回心させた。彼は、リトアニア、ボヘミア、さらに北のノルウェー、デンマーク、スウェーデン、またイギリスにまで行き、各地に修道院を創立して、宣教活動に励んだ。

 ヒアキントゥスは「北方の使徒」と呼ばれている。彼は、ポーランドの守護の聖人として聖ヤッコとか聖ヤチェクとも呼ばれ親しまれている。

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◆三  つ  の  心

2014年08月17日 09時30分24秒 | 聖書

あざける者が罰を受けるとき、
わきまえのない者が知恵を得る。
知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。(箴言二一11)

ここには、「あざける者」「わきまえのない者」「知恵のある者」の三つの心の状態が比較されています。箴言一九章にも、同じようなことばが出てきました(25節)。
ヘブル語の原語で調べると、面白いことが分かります。
* レーツ(あざける者)=心が閉ざされた者。
* ペシー(わきまえのない者)=心がからっぽの者。
* ハーハーム(知恵のある者)=心が神に向かって大きく開かれた者。
ですから、これらの表現は知能指数が高いとか低いとか、ばかとか利口とかいうことではありません。
第一に、あざける者は、心が閉ざされています。自分は正しいと思いこんで、ほかの人の言うことに耳を開かず、人をばかにします。服装や身分や履歴や外見で人を判断し、人を人として受け入れません。こういう人は、こらしめてもよくならない人です。
第二に、わきまえのない者、これは心のからっぽの人で、善にも悪にもすぐ染まりやすい人です。しかし、この人は、人が罰を受けているのを見て、これはいけないと分かる人です(箴言一九25参照)。
さて第三に、知恵のある者・悟りのある者は、神に向かって、心が大きく開かれた者です。すべての真理とすべての知恵が神から来ることを知っています。飢え渇いた求める心で神に聞き、学ぶので、生きた、人を生かすいのちの知恵を与えられるのです。イエス・キリストは、こう言って招いておられます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七37―38)。

 

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◆神の恵み……。

2014年08月17日 09時29分24秒 | 聖書

(詩篇五二・八)

神の恵みについてしばらく静かに考えよう。
それはあわれみ深い恵みである。優しく愛のこもった手で触れて、神は悲嘆に沈む心をいやし、その傷の手当てをなさる。神の恵みの内容と同じく、実際の扱いもまた情け深い。
それは大いなる恵みである。神のうちに小さなものは何もない。神の恵みはご自身のように無限である。たぐいなく大きいので、大罪人の大きな罪を赦し、大きな恩恵と特権を与え、引き上げて、偉大な神の大いなる天での大きな喜びにあずからせてくださる。
それは無条件で与えられる恵みである。真の恵みはすべてそうでなければならない。条件つきの恵みはさばきの別名だからである。神に反逆した罪人がただちに永遠の炎に投ぜられたとしても、それは当然である。万一怒りを解かれたとすれば、それは神の一方的な愛のゆえである。なぜなら、罪人の側にはそれを要求する根拠は何もないからである。
それは豊かな恵みである。この恵みは、あなたのうなだれたたましいの強壮剤であり、血の流れる傷口につける高価な薬、折れた骨に対しての天来のほうたい、疲れた足を助ける王の車、また震えおののく心に対する愛の思いやりである。
それは幾重もの恵みである。あなたは、ただの一つの恵みしか受けていないと思うかもしれない。しかし少し考えれば、それが恵みの房であることがわかるであろう。
それは満ちあふれる恵みである。多くの人がその恵みを受けたが、それは枯れることなく依然として新鮮であり、充満しており、無代価で提供されている。
それは信頼するに足る恵みである。決してあなたを離れない。恵みがあなたの友であるなら、それは誘惑の時にも共にあって、敗北から守り、苦難の時にも共にいて、意気消沈から守る。あなたが生きている時にはあなたの顔の光、またいのちとなり、あなたが死の谷間にあって、この世の慰めがにわかに去っていく時にも、あなたのたましいの喜びとなるであろう。

 

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第2サムエル記12章26-28節

2014年08月17日 09時27分27秒 | 聖書

12:27 ヨアブはダビデに使者を送って言った。「私はラバと戦って、水の町を攻め取りました。
12:28 しかし今、民の残りの者たちを集めて、この町に対して陣を敷き、あなたがこれを攻め取ってください。私がこの町を取り、この町に私の名がつけられるといけませんから。」



 その後、ヨアブはアモン人のラバと戦い、その水の町を攻め取りました。

その町は大きな町で、それを勝ち取ることは、その人の名誉を勝ち取ることでした。

ところが、ヨアブは自分がその町を攻め取って、その結果、自分の名が高められることを好みませんでした。

ですから、彼はダビデに使いをやって、ダビデ自身がこの地に来て、この地を勝ち取ってくれるようにと要請をしました。

それは、ダビデの権威を高めるためでした。

ヨアブというのは軍人です。

従って、名誉を重んじる人であったでしょう。

ですから、自分がその名誉を勝ち取ることが出来るならば、それに越したことはなかったことです。

しかし、彼は軍人であるのみではなくて、ダビデに仕える人でした。

自分の名誉を求める者ではなく、主君のために生きる兵士であったのです。


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ヨシュア記23章11節(同24章)

2014年08月17日 09時24分16秒 | 聖書

 ★  あなたがたは、十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。

■O:今日のコラム

イスラエルを約束の地へと率いたヨシュアは老い、人生を終えようとしていました。
そしてイスラエルの全家に遺言となる23章を遺します。

私にはまだその経験がないのですが、みなさんは愛するご家族や友人から遺言を遺されたことはあるでしょうか。
遺言を受け取った方は、きっと故人の遺志を最大限尊重してそれを守っていくのだろうと思います。

■A:考えてみよう

例えば、私の父が息を引き取る直前(まだ健在ですが 汗)に 「財産を頼む!」、「家は残しておいて」 とか言うならわかりますが、「(ほかのことはさておいて)妻を誰よりも愛しなさい」と言うならどうでしょうか。

私はそのことを心に刻み、足りないながらも妻をもっと愛する努力をするでしょう。
もちろんヨシュアは相続地に関することも遺していますが、「十分に気をつけて主を愛しなさい」の「十分に気をつけて」はかなり強いことばで、マラキ書2章15節の 「あなたがたは、あなたがたの霊に注意せよ。あなたの若い時の妻を裏切ってはならない。」 の 「注意せよ」 と同じであるようです。

離婚を憎む神さまは、一途にわたしたちを愛してくださるとともに、 一途に私たちから愛されたい、その切なる願いを感じます。
これが遺言である以上は逃れることはできません。主とわたしたちを一つ霊にしてくださる聖霊様がどんなときもいてくださり愛を全うしてくださいます。

■P:祈り

主よ、あなたと一つ霊とされていることを感謝します。聖霊様、今日も夫婦のように強く主と結びあわせてください。わたしの一生はあなたのものです。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

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8月16日(土)のつぶやき

2014年08月17日 01時41分55秒 | キリスト教

第2サムエル記12章24-25節 goo.gl/8kDSy6


「ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、 goo.gl/05hSSv


◆御霊の初穂をいただいている私たち自身も……。 goo.gl/6leU1A


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