座間コミニティー

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◆わたしは彼らの痛みを知っている。

2014年08月14日 16時25分32秒 | 聖書

(出エジプト三・七)

子どもが「お父さんなら知っている」と歌う時、子どもは慰められるものである。私たちもまた、私たちの愛する父なる神、私たちの優しいたましいの夫が、自分のことをすべて知っておられることを知るならば、慰められないであろうか。
一、主は医者である。主がすべてを知っておられるなら、患者は何も知らなくてよい。黙れ。愚かな動揺する心よ。おまえは詮索し、のぞき見をし、そして疑う。おまえに今わからないことも後にはわかるようになる。愛する医者である主が、逆境にあるおまえの霊をご存じである。なぜ患者が、薬を分析したり、いろいろな病状を診察したりする必要があるのか。私のなすべきことは信頼することである。私に読めない字で処方箋を書かれても、私は不安を抱かない。主の決して誤ることのない御腕に信頼しよう。たとえ今はわからなくても、結果によって一切が明瞭になるであろう。
二、主は主人である。私たちの知識ではなく、主の知識こそ役に立つものである。私たちは従うべきであり、批判すべきではない。「しもべは主人のすることを知らない。」建築家は、働き人のすべてにその設計を説明するであろうか。建築家がなすことを知っていれば、それで十分ではないだろうか。ろくろにかけられている土のかたまりは、どのような形の器に作られていくか推測できない。しかし、陶器師が知っているならば、よいのではないだろうか。私のような愚かな者が、主に対して詰問してはならない。
三、主はかしらである。一切の理解力はそこに集まる。腕がどのような判断をし、足がどのような理解をするか。それを知るすべての力は頭にある。頭があらゆる精神的役割を果たしている時、手足がそれぞれ脳をもったらどうなるか。信者は病の時にも、自分には先のことはわからないが、イエスがすべてをご存じであるから心を安んずべきである。優しい主よ。永遠に私のために、目となり、たましいとなり、頭となってください。あなたが啓示したいと思われることだけ知って、私たちが満足することができますように。

 


「国にそむきがあるときは、多くの首長たちがいる。

2014年08月14日 16時24分35秒 | 聖書

しかし、分別と知識のあるひとりの人によって、それは長く安定する」(箴言 28:2)

多くの首長達がいる時、様々な意見があり、それぞれの独自の思いがあり、一致してやって行くのは難しい。
日常生活でも経験する事だ。職場、学校、家庭で意見がぶつかり合う。
何かを決めようとする時に、それぞれの思いがあり、主張がある。
話し合いの結論はどのように着くのだろう。
一番押しの強い人の意見か。
決して譲らない頑固な人の意見が通るのか。
多数決なのか。同じ事が、外側ではなく、私達の心の中でも起きている。
一つの決定を前に様々な思いが起こり、行き交う。
イエス、ノー、ああでもない、こうでもない、相反する思いも出て来る。
心の中にも多くの首長達がいる。その時、何をもってして決定するのか。
自分の好きな道か、一番楽な道か、人から言われた道か。
「分別と知識のあるひとりの人によって」神の御言葉によって、神によって決定して行く時、いのちの道へ導かれる。
様々な思いで混乱する時、分別と知識の主のもとへ行き、御声を聞こう。
多くの首長達に振り回されていないか。
--------------
自分の様々な思い、人々の意見、世の価値観が交錯する。
そんな時、ひとりの人ー主の御声を聞こう。
御前に心静めて、主の御声に耳を傾けよう。
祈りの中で、御言葉を通して主からの指針が示される。


今日の聖人の記念日

2014年08月14日 07時20分50秒 | キリスト教

 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ司祭殉教者

1894年-1941年

 コルベは、ポーランドの織物職人の家に生まれ、信仰深く育てられた。16歳のときにコンベンツァルのフランシスコ会に入り、1918年に司祭となった。ローマで、6人の同志とともに「無原罪の聖母の騎士会」という信心会を創立して、聖母マリアに対する信心を広めることに尽くした。その後、ポーランドに帰って月刊誌『無原罪の聖母の騎士』を発行。

 1930年ゼノ修道士ら5人とともに来日し、長崎で同信心会と印刷所を開いた。月刊誌『聖母の騎士』を発行するなど宣教活動に励み、多くの人びとに感化を与えた。『聖母の騎士』は現代でも多くの購読者を得ている。

 1937 年、コルベ神父はポーランドのニエポカラノフの修道院長に選任され、日本を去る。その後、第二次世界大戦の勃発により、ナチス・ドイツのゲシュタポに捕えられ、アウシュヴィッツ強制収容所に送られた。そこで、死刑を言い渡された妻子ある士官の身代わりを申し出て、餓死牢で注射を受けて亡くなった。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)というキリストの愛を実践した現代の殉教者である。

 日本におけるコンベンツァル聖フランシスコ会は、東京、瀬戸、春日井、西宮、長崎、湯布院、奄美にある。


◆神の求めたもういけにえ

2014年08月14日 07時19分36秒 | 聖書

正義と公義を行なうことは、
いけにえにまさって主に喜ばれる。(箴言二一3)

昔のエルサレムの神殿は、一日中、ささげられるいけにえの煙でもうもうとしていたのではないでしょうか。しかし旧新約聖書を通して、いけにえについて同じことがいわれているのです。
* サムエルは言いました。「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(Ⅰサムエル一五22)。
* ミカは言いました。「人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ六8)。
* イエス・キリストは言われました。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(マタイ九13)。
神は、形式だけのいけにえや祭りや行事や祈りを憎まれます。神が喜ばれるのは、正義と公義を行うことです。そして、人間が行うべき、いいえ行いうる第一の公義・第一の正義とは何でしょう。
姦淫と殺人の罪を神の前ばかりか、人の前にも言い表して悔い改め、深い神の愛と恵みによって、人生をつくりかえられるような祝福を体験したダビデは、こう神の前にうたいました。「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一16―17)。
悔い改め、その砕かれた心に、まことに正しく、きよいお方を受け入れる。――このことこそ、神がお喜びになる公義・正義の根本的なものではないでしょうか。そこから、神に喜ばれ神を喜ぶ、祝福された豊かな人生が出発するのです。

 


◆主よ。あなたは、

2014年08月14日 07時18分48秒 | 聖書

あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました……。(詩篇九二・四)

あなたは自分の罪が赦され、キリストが罪の完全な贖いを成し遂げられたことを信じるか。もしそうなら、喜びにあふれたクリスチャンとなるべきである。日常の試練や苦難から超然として生きるべきである。罪が赦されたからには、どのようなことが起こっても恐れる必要はない。ルターは言った。「主よ。私を打ってください。私の罪は赦されたからです。あなたが赦されたのですから、みこころのままに強く打ってください」と。あなたも同じ思いで、「私に病を、貧しさを、損失を、苦難を、迫害を、あなたの望まれるものを送ってください。あなたは私を赦されたので、私のたましいは喜びます」と言うことができる。
クリスチャンよ。あなたがこのように救われたのであれば、喜ぶとともに感謝し、親愛の情を抱け。あなたの罪を取り去った十字架にすがれ。あなたに仕えられた方に仕えよ。
あなたの熱心は、少しの歌を歌ったぐらいで消えてしまうようなものであってはならない。あなたの愛をはっきりしたしるしで表せ。あなたを愛された主の兄弟を愛せよ。どこかに足の不自由なメフィボシェテがいるなら、ヨナタンのために助けよ。もしあわれな試練に会う信者がいるなら、彼と共に泣き、彼の十字架を担え。――あなたのために泣き、あなたの罪を負われた方のゆえに。
あなたはキリストのゆえに無代価の赦しを受けた。だから出て行って、他の者に罪の赦しの喜ばしい知らせを伝えよ。このことばでは言い尽くせない祝福にひとりで満足しているのではなく、十字架の物語を広く宣べ伝えよ。神聖な喜びと神聖な勇気はあなたを良い説教者とし、この世のすべての場所が説教の講壇となるだろう。喜びにあふれた聖潔は、説教を最も力あるものとする。しかし主が自らそれをあなたに与えられる。この世に出かける前に、今朝それを求めよ。あなたが喜んでなしていることが主のための働きであるなら、喜びすぎていることを恐れる必要はない。

 


第2サムエル記12章7-15A節

2014年08月14日 07時17分32秒 | 聖書

12:9 「それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。」



 預言者ナタンは、ダビデに言いました。

その不正を行った人は、実はあなたです、と。

そのことによって、ダビデはハッとしました。

ナタンはさらに続けました。

主があなたを顧みて王としてくださり、恵みを増し加えてくださったのに、なぜこのような、主の言葉をさげすむような行為をしたのかと語ったのです。

主はダビデの行為を激しくお怒りであることを告げたのです。

こうしてダビデは、主が見ておられたのだということを知りました。

 ダビデは自分の罪を悔いて、神の前で懺悔しました。

その結果、主は、彼を殺すようなことをしないと言ってくださいました。

しかし罰そのものは逃れることが出来ないで、妻となったバテ・シェバから生まれる愛しい子は、死ぬと告げられたのです。

主は罪を悔いた者を赦してくださいます。

しかし、その主はまさに恐れなければならない、誠に敬うべきお方であると、ダビデは知ったのでした。


ヨシュア記17章15節、18章2-3節

2014年08月14日 07時14分09秒 | 聖書

 ★17:15  ヨシュアは彼らに言った。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」

★18:2-3  イスラエル人の中で、まだ自分たちの相続地が割り当てられていない七つの部族が残っていた。
そこで、ヨシュアはイスラエル人に言った。「あなたがたの父祖の神、主が、あなたがたに与えられた地を占領しに行くのを、あなたがたはいつまで延ばしているのか。」

■O:今日のコラム

ヨセフ族、つまりマナセ族は自分たちに与えられている相続地が狭すぎる、とヨシュアに訴えました。すると、ヨシュアは「それならば自分たちでペリジ人、レファム人の地の森を切り開くがよい。」と言われました。ところが、マナセ族はそのヨシュアのチャレンジに対して、後の箇所で「でも彼らは鉄の戦車を持っていて、強い民です。」と弱気な返答をしています。

また18章では、イスラエル人の中で、七部族は、仮の住まいに満足し、相続地を定めず、神様があたえて下さった土地を占領しないままに月日が過ぎていっていました。それを見たヨシュアは、「いつまでも先延ばしにしてないで、早く神様があなたがたに与えて下さっている土地を占領しなさい。」と呼びかけます。

ここのマナセ族も、イスラエルの残りの七部族も、神様がすでに与えて下さっている土地を占領することをためらっていました。神様がすでに約束して下さっていることが分かっていたとしても、それを占領しに行くということには、信仰が必要です。また、占領するというアクションを起こすことが、信仰の現われです。

私たちは、このイスラエルの民のように、神様がすでに与えて下さっている土地を占領せずに、仮の状態に満足してしまいます。どうしても「環境がととのってから、神様に従います」という手順を踏みたくなります。リスクを冒したくないのです。けれども、それでは信仰はいりません。信仰がなくては神様を喜ばせることは出来ません。(ヘブル人への手紙11章6節)

目に見える環境によらず、たとえ目に見えていなかったとしても、一歩を踏み出し、占領しに出て行く時に、神様は「すでに」与えて下さっている土地を、目に見える形で私たちに与えて下さいます。

神様は、終わりの時代に生きる者として、私たちを選んで下さいました。私たちが信仰によってこの地を、人々を勝ち取っていくことを任せて下さっています。

小さな信仰の一歩は、次のもう一歩へと踏み出す力となります。そして、その一歩一歩を繰り返して行くうちに、それは大きな信仰の一歩になるのです。

私たちはそれぞれ、その信仰の一歩が違います。思いきって友達に福音を語ること、悪い習慣から手をひくこと、病気の人にために祈ること、大胆に献金すること、自分の時間を自分のやりたいことではなく神様との時間に捧げること…etc その一歩とは何にでもあり得ます。

その一歩は誰か他の人と比べる必要はありません。神様は誰よりもあなたのことを知っています。その一歩があなたにとってどれだけの決心がいることなのか、あなたにとってどれだけ勇気のいることなのか、あなたにとってどれだけの犠牲とリスクが伴うことなのかを知っておられます。そして、それがあなたのベストであるということを主は知っておられます。

「どうせ小さい一歩だから」と言って、踏み出さなければ、もう前進はありません。すでに与えられている土地は自分のものにはならないでしょう。

また、「自分は大したことを任されているわけではないから」と言って、神様の促しを感じていながら、気づかないフリをするのは、本当に勿体ないことです。何故なら、この終わりの大切な時代をあなたは任されているからです。

暑い日に、「洋服が濡れちゃうから」 とプールサイドで見守る人。「洋服だけど…もういいや!」 と思いきって飛び込んでしまう人。

飛び込む人には洋服が濡れるという犠牲があります。愚かに見えて格好悪いというリスクがあります。けれども実は飛び込んでしまえば冷たくて気持ちがいいのです。

信仰は、こんな向こう見ずなものではないかも知れませんが… けれども信仰による一歩はこれに似ているように感じます。そして、出来るなら、信仰においては、プールサイドで見守る側ではなく、飛び込む側になりたいと思います。

今日、あなたの前に神様が与えて下さった土地が広がっています。占領しに行きましょう!

■A:考えてみよう

今、自分が占領するべき土地はどこだろう。信仰がなくては踏み出せない領域はなんだろう。

■P:祈り

神様、あなたが私を選んで下さったことを感謝します。私は弱い者ですが、聖霊様、どうぞ私を作りかえて下さい。あなたの油注ぎによって、私にとって不可能と思うことを成し遂げさせて下さい。

臆病の霊よ、イエスの御名によって命じる、今、私から去れ。お前はもう私とは何の関係もない。
力と愛と慎みの霊が、今、私のうちに溢れることを宣言します。

「自分が出来るかどうか」ではなく、「あなたが私にさせたいかどうか」 という基準で生きることが出来ますように。

私の捧げるベストを、主よ受け取って下さい。今日、あなたが与えて下さった土地を占領しに立ち上がることが出来ますように、どうぞ力を与えて下さい。信仰の一歩を踏む時も、あなたが私とともにいて下さることを感謝します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。


8月13日(水)のつぶやき

2014年08月14日 01時42分09秒 | キリスト教