座間コミニティー

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

◆あなたのみおしえを捨てる悪者どものために、

2013年11月02日 15時58分41秒 | 聖書

激しい怒りが私を捕えます。(詩篇一一九・五三)

私のたましいよ。おまえは他人の罪を見て、この聖なる身震いを覚えるだろうか。これがないならば、心の聖さを欠いている。ダビデは周囲にはびこるきよくない行為のゆえに、涙を川のように流した。エレミヤは、イスラエルの不義を嘆くために、泉のような目をもちたいと願った。ロトはソドムの人々の行状を見て心を痛めた。エゼキエルの見た異象の中で、額にしるしをつけられた人々は、エルサレムの忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいた。
あわれみのあるたましいは、人々が苦労して地獄へ行く様を見て嘆かずにはおられない。彼らは経験によって罪の邪悪さを知っているので、他の者が火に飛び込む虫のように突き進んでいるのを見て驚く。
罪は、すべての人が最も重んじるべき聖い律法を犯すため、義なる者を身震いさせる。
信者は他人の罪を見て恐怖にかられる。彼自身の心の邪悪さを思い起こすからである。信者は、罪を犯す者を見ると、ベルナルドゥスの書いた聖徒のように、「今日は彼が倒れた。明日は私かもしれない」と叫ぶ。
罪は救い主を十字架につけた。したがって、それは信者にとって真に恐れるべきものである。信者は、あらゆる不義の中に釘と槍とを見る。救われたたましいが憎悪を覚えることなく、キリストを殺したのろうべき罪を見ることができようか。
面と向かって神を侮辱することは、恐ろしいことである。善なる神は、よい扱いを受けなければならない。偉大な神はそれを要求される。義なる神はそれを必ず得られる。そうでないと、神は自ら敵に報いられる。目覚めた心は罪のずぶとさを見て打ち震え、その罰を思って立ちすくむ。
私のたましいよ。罪の愚行を笑い、罪自体に微笑を送るようなことは、断じてしてはならない。罪はおまえの敵であり、主の敵である。大いなる憎しみをもって、それを見よ。そうしてこそ、おまえは自らが聖潔の所有者であると証しできる。

 


◆あすを誇るな

2013年11月02日 08時08分08秒 | 聖書

あすのことを誇るな。
一日のうちに何が起こるか、
あなたは知らないからだ。       (箴言二七1)

あなたは、あなたの「あす」・あなたの将来をどうお考えでしょうか。聖書は、あすについて三つのことを教えています。
第一は、「あすのことは心配するな」ということです。イエス・キリストは、「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」(マタイ六34)と言われました。きょう一日を一日一生のように考えて、神第一に生きましょう。あすのことは、くよくよと心配すべきではありません。聖書は言います。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ六33)。
第二は、「あすに備えよ」ということです。ヤコブも、「あなたがたには、あすのことはわからない」(ヤコブ四14)と言いました。そうです。あす、死ぬか、神のさばきの日が来るかは分かりません。だから聖書は、「あなたの神に会う備えをせよ」(アモス四12)と言います。あすではなく、きょう備えるべきです。
第三は、「あすのことを誇るな」という、きょうの箇所のことばです。私たちの未来は、自分の手の中にありません。だから、自分を知恵のある者と思ってはなりません。自分の悟りにたよって、自分中心の計画や見通しを立ててはならないのです。
そして第四は、「主を恐れ、悪を離れ、主によりたのみ、主のみこころにそった人生計画・人生設計を立てる」べきことです。私たちの未来は、神である主のみ手の中にあるからです。ソロモンは言います。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ」(箴言三5―7)。

 


◆主であるわたしは変わることがない。

2013年11月02日 08時07分06秒 | 聖書

(マラキ三・六)

この世においてはすべてのものが変化するが、その変化によって影響されることのない方がただ一人おられることは、私たちにとって非常に喜ばしいことである。その方の心は決して変わることなく、その額にはしわが刻まれることもない。主以外のすべてのものは変化してきたのであり、また現在も変化している。太陽も年とともに光が鈍くなり、この世界も次第に古くなりつつある。使い古した衣服の整理はすでに始まっている。天地はまもなく滅びなければならない。それらは着物のように次第に古くなり、やがて朽ち果てるであろう。しかし、ただ一人不死の方がおられる。その年月には終わりがなく、そのご人格には変化がない。クリスチャンがこの悩みの多い定まりのない世にあって、その信仰の足を「主であるわたしは変わることがない」という真理の上に置いた時の満足は、船乗りが何日も荒波にもてあそばれた後、再びしっかりとした大地に足を踏みしめた時の喜びに比すべきものである。
いかりがついに海底にくい込む時の船に与える安定感は、クリスチャンの希望がこの輝かしい真理をとらえた時に生ずる安定感に似ている。神には「移り変わりや、移り行く影はありません」。昔、神の属性であった力、知恵、正義、真実は今も変わっていない。神は常にその民の避け所であり、苦難の時のとりでであられた。そして今もなお、神の民の確かな助け手であられる。また神はその愛においても不変である。神は「永遠の愛」をもってその民を愛してこられ、今もなお愛しておられる。そしてこの地上にあるすべてのものが、最後の大いなる火によって溶かされる時にも、神の愛は、青春の露のように新鮮で、初めと変わらない。神が変わられないという保証は、なんと尊いものであろう。摂理の車輪は回転する。しかしその車軸は永遠の愛なのである。
 死と変化とはいつもせわしく
 人は死んでいき、時代は変わる
 しかし、神のあわれみは衰えることがない
 神は知恵であり、また愛である

 


士師記7章15-18節

2013年11月02日 08時05分35秒 | 聖書

7:15 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」


ギデオンが敵の陣地に偵察に行ったとき、敵の一人が、大麦のパンが1つ転がってきてそれが天幕を倒した夢を見た、と言いました。

ところが、それを聞いた仲間の者が、それはギデオンの剣に違いないと告げました。

これを聞いたギデオンは、神様が自分たちに勝利を与えてくださるに違いないということを確信しました。

 神様は、時に夢でご自分の意志を知らせたり、また夢が説き明かされることによって、その御心が伝えられることがあります。

しかも、ギデオンの場合には、敵の人が夢を見て、それが解きあかされたのですから、それは神の御心だと確信したのです。

しかし、どうしてそれが確かな神の御心であると、人が判断することができるのでしょう。

根本的には、神様ご自身がその人に、確信をもたらしてくださるからです。

神様が、その確信をも与えてくださったのです。



ヘブル人への手紙9章2節(ホセア書4章)

2013年11月02日 08時02分55秒 | 聖書

 ★  幕屋が設けられ、その全部の所には、燭台と机と備えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。

■O:今日のコラム

2節から5節までの描写はいうまでもなくモーセの幕屋のことで今から3500年ほど前に造られたものを表しています。

幕屋の構造自体にはとても深い意味があり、その大きさ(周囲や総面積)は時代を表していたり、中に置かれている器具のひとつひとつにおいても、カーテンの色、材質、柱、その数、門の向き、など幕屋の構造全体がイエス様ご自身を表していたり、それは1つだけでなく何十にも重なって意味があったりします。
   
なのでパウロも5節でそれらについては今はいちいち述べることができないと言っています(笑)が、これは本当に深くて面白いのと、神様が旧約の幕屋に隠された奥義を新約聖書(イエス様と)照らし合わせながら解読していくと、知れば知るほど感動するので、是非レーマの授業を聴講するなり、解説書を読むなり、ネットで調べてみるなりしてみて下さい。

さて、そもそも幕屋とは何でしょうか?

出エジプト記25章8節には、「彼らが私のために聖所を造るなら、私は彼らの中に住む。」とあります。

神様は、私たちと親しい交わりを持ち、私たちの中に一緒に住まわれたいと願われて、私たち人間を創造されたのです。でも人間が罪を犯したために、その親しい交わりの中で共に住んでくださることができなくなり、神様と交わるために購いの血が必要となってしまったのです。(7節)

その贖いの血を携えて大祭司が民の代表として神様と交わる所が当時のモーセの幕屋です。

ダビデの幕屋はみなさんご存知の通り、24時間365日絶え間ない賛美と礼拝が行われていた場所で「賛美を住まいとされる神様」(詩篇22編3節)が喜んで臨在を現してくださったところでした。

新約にきて、ヨハネによる福音書1章14節「ことば(神様)は人となって私たちの間に住まわれた」とありますが、この住むという言語は天幕された、英語では tabernacled(幕屋された)つまり(一時的に滞在するために肉体の中にテントを貼られた)というふうに書かれています。

そうです!! イエス様ご自身がこの幕屋だったのです!(11節・12節)

因に、イエス様が受胎されたのが実はクリスマスで、実際に誕生されたのは、そこから(十月十日・とつきとうか)を数えてスコットと呼ばれる仮庵の祭りの初日といわれる節がありますが、この仮庵も実は神様とともに親しく交わる・食事をするための場所としてイスラエル人が各家庭に造る簡易的な幕屋です。

エペソ人への手紙2章21-22節には、「主にある聖なる宮」「御霊によって神の御住まいとなる」とあり、これは教会のことであり、またそこに集まっている真の礼拝者たちの一人一人の身体のことでもあります。

そして、ヨハネの黙示録21章3節には、「見よ。神の幕屋が人とともにある。」とあります。

このように、エデンの園から始まり、黙示録の最終ゴールまで、幕屋は時代ごとに形を変えてはいるものの、私たちの事をこよなく愛して下さる神様が少しでも近くにいたいと切望された結果、ともに住んで下さる場所を常に設けて下さっていたということが感動ですね!

■A:考えてみよう

私たちの身体を神様が住まわれる聖なる幕屋として差し出せているだろうか

■P:祈り

私たちの方からではなく、いつもあなたの方から近くに来て下さり、共に住んで下さる為に心のドアを叩いて下さっているイエス様、今日私のドアを完全にあけてあなたをお迎えし、その声に心と耳を傾けられるように導いて下さい。

イエス様のお名前によって。アーメン。